夢の最果て その1

 ヒスイが行商人のクローブに聞いたところによると、この大地はその昔十のうち七ほどは”海”と呼ばれる宝石で覆われていたんだそうな。遠い世界を夢見ていた少年にとって、初めて聞くそのおとぎ話は原光景のように強く心に入りこんできた。
「クローブさん、ウミってなに」
「世界一でかい無限の宝石だ。俺のおやじはそう言っていた」
 二十年と半分以上生きているクローブでさえ、海は一度しか見たことがない。その時彼が見た海はバッテリー液のように赤くどろどろしていたという。
「……俺のおやじは、あんなものは海じゃないって言ってたっけ。本当の海は空をいくつも織り重ねたように真っ蒼なんだと。そんで水は宝石を蒸留したみたいにきれいで、虹の涙って言われるくらいきらきら色を変えるらしい……」




 遥か時の彼方の話だ。
 ヒスイが生まれる前、クローブが幼かった頃、海は消えた。
 ヒトが海に「夢の島」というゴミ捨て場をいっぱいつくったからだ。何の皮肉で「夢の島」といったかは知らないが、千年二千年をかけてヒトは大地と海からゴミをつくりその島に捨てていったらしい。そうしているうちにゴミの毒が空気を変え、動物や植物たちを子孫の残せない体へと変えてしまったのだといわれる。長すぎる時間の流れが文明を自壊させ、かつての緑の大地は深くゴミの下に覆い隠された。生き残ったごく少数のヒトは「ゴミの大地」……「ドリームアイランド」の上で、防塵マスクをつけて生きることを余儀なくされた。
 ヒスイは今や数少ない貴重な子どもだった。彼を拾った爺さんは子どもを宝だと思っている人だったから、彼に覚えていた宝石の名前をつけて大切に育てたのだ。
 いま、ヒスイはクローブと一緒にその爺さんの耳を削いでいる。
「何で死んだ人の耳をそぐの」
「埋葬してやれないからだ。埋めてもすぐにケモノが来て掘り返す」
 だから死んだ人の耳を削いで持っていくのだという。
 爺さんは多分何かの病気だった。人間嫌いでヒスイにだけ優しかった爺さんだったが、この劣悪な環境で生きていくには爺さんの体は弱りすぎていた。歳をとった人間から死んでいくのは道理だよといつも言っていたから、幼いヒスイにも覚悟みたいなものはあったけれど。
 ゆうべまで生きていた爺さんの耳が切られるのを見てヒスイは思わず目を背けた。そしてひとりぼっちになったヒスイを見かねてクローブはこう言った。
「お前、一緒に来るか」
 一日中遊んでいても食事がとれて、寝床の心配もしなくてすむような生活が終わりかけていた。それまで暮らしていた家が急に色を失い、じっとしているとそこに住んでいた自分の息までも止めに来るような気がした。
 クローブの誘いは集落にも属さず行くあてのなかったヒスイには願ってもいない話だった。クローブは一人で町から町へと行商をしながらゴミの大陸の上をひたすらに南へと進んでいたのだ。どうして南へ行くのかと聞くと、海を目指しているのだという。ヒスイはそれまで爺さん以外の人間をほとんど知らなかったから特に何の疑いもなくクローブについていくことにした。
 クローブは出発の時に後ろを振り返るなと言った。
「ケモノが来て爺さんをすぐにさらっていくからな。お前は見ないほうがいい」
 クローブの腰のポーチには既に干からびた耳がたくさん入っていた。ヒスイはそれを見て、さっき削いだ爺さんの耳の一つを自分のポーチに入れるともう片方をクローブのポーチの中に預けることにした。


 長い旅だった。
 ゴミの平地をゆくとゴミの丘があり、それを越えるとまた途方に暮れるほど遠大なゴミの平野が広がっている。キャタピラの車さえ動かなくなったのはいつからだろう。この砂漠のようなゴミの大地の上で、今やヒトは徒歩以上の移動手段を許されてはいない。
 ヒスイは歩きながらよく上を見上げていた。空と大地の間には年がら年中すすが舞っており、さらに汚れたビニールや古紙やありとあらゆる虫けらが飛び回る。空気はいつも臭くてあっという間に鼻がだめになった。そもそも防塵マスクがあるとはいえ、危険な腐敗ガスと病原菌が溢れている場所を何日も歩き続ける方がどうかしているのだ。地表の気温は曇りの日でもしばしば摂氏三十度を超え、雨の日でも決して摂氏二十五度を下回らなかった。
「クローブさん、暑いよう。服脱ぎたいよう」
「脱いでもいいが肌を陽に晒すな。紫外線にやられるぞ」
 涙よりも先に吐き気をおぼえる暑さ。水も十分な量あるとはいえない。それでもヒスイに許された服は長袖に長いズボンだけ。
 若い大人のクローブでさえきつい旅なのだ。子どものヒスイは歩きながらしばしば脱水症状をおこした。体中から底なしに熱が湧き上がり、勝手に水分が外へ搾り出されてゆき、やがて汗さえ捻出できなくなると熱中症になってゴミの大地の上に倒れたりする。暑さで意識まで蒸発しかかっているクローブがうっかりそれに気づかず先へ行って後で慌てて駆け戻ることも一度や二度ではなかった。子どもの命はここでは貴いと同時に、ゴミ同然に軽いものでもあった。そういうものだとヒスイは思っている。疑ったことなど一度もない。
 クローブはそんなヒスイのためにいろんな話をしてくれた。
 古えの大地にはどんな世界がそびえ立っていたか。おとぎ話では省かれてしまった草の名前や、絶滅したあまたの動物たちのはなし。宝石の名前。今まで渡り歩いてきた集落ごとの風習。クローブはこの世界でも特に物知りなようにヒスイには思われた。クローブの話をたのしみにして日々を耐え抜いた。
 そして、クローブのとっておきの宝物。
「クローブさん、この石は?」
「”賢者の石”だ。昔はオパールと呼ばれていた」
 熱中症でヒスイが苦しい思いをしていると、クローブはその石をこっそりとヒスイの手におさめて必ず励ましてくれた。石自体はブローチのような古びた金属製の縁飾りにはめ込まれており、持っていると道に迷わないというちょっとした言い伝えもある。大海原の深い深い蒼を凝縮した液体に虹の涙を詰めたというその石は、ほんとうに綺麗で、光の向きを変えるたびに何度も虹の涙がうつろう様を見れば暑さも苦しみも忘れられた。
「……俺は、海はきっとこんな色をしてるんだと思う。深い蒼で、その中に綺麗な硝子と虹の涙が混ざってるんだ。海の色が本当は何色なのか、今はもう誰も知らないけどな」
 行く先々の町で海の色を尋ねるたびに、答えはみな違っている。バッテリー液のように赤いと答える者もたくさんいたし、苔のような緑だとか同じ緑でもエメラルドグリーンだと答える者もいる。灰汁のように泡立って灰色だと言う者もいた。黄色かったりオレンジやピンクや紫色になるときもある、黒いと言う者もいれば、白いと言う者もいる。
 だけど海が消えてから本当の海を見たものは一人もいなかった。ヒスイはまだ見ぬ海を想う時、それがクローブの言うように蒼くて虹色なのだと信じることにした。


「ねえクローブさん。海はいつ見えるの?」
「さあなあ。……いつだろう」


 どうしてクローブがまだ誰も見たことのない海を信じるのか、ヒスイには時々分からなくなることがある。こんな灼熱のゴミの大地を歩き続けなくても、どこかの集落でひっそり暮らしたっていいじゃないか。こんなに苦しい道を歩き続けなくたって、暗くて涼しいゴミの陰、地下の集落で暮らせばいいのだ……他の人々のように。
「あんな暗い顔で生きろっていうのか」
「だって、無茶だよ! 地表じゃマスクがなきゃとても歩けないし、臭いし、第一フライパンの中みたいに暑いじゃん」
 粗大ゴミ、不燃ゴミ、生ゴミにガラスに錆びた鉄。そして人間も含めたありとあらゆる生き物の骨。そんな風に限りなく多岐に渡った「ゴミ」が堆積している大地だ。地面からは熱気を帯びた腐敗ガスがたちのぼり、遥か先のゴミの地平線には万年蜃気楼がかかっている。抜けるように青い空の日も、塵だらけの黒いどしゃ降りの日も。ヒトはそんな過酷な環境を避ける。


 行く先々で立ち寄った町はどこも陰気臭くて暗かった。残されたゴミのあまりの多さに途方に暮れて、人々が生きることを諦めた町。人々は死ぬこともできずにゴミの陰にうずもれて、ジャンクフードと化した享楽を麻痺した喉に押し込む日々。
 幼いヒスイはいつも町に行くと人間がはだかんぼうで売られているのを見る。彼らを売っているのは服を着て鞭をもった人間だったりする。
「クローブさん。あれは何」
「ケモノだ。汚いなりをしてるだろ」
「あれも人間だよ」
 ゴミの中に捨てられて知識のない「ケモノ」に育てられたものはみんなケモノになった。ケモノは大人も子どもも裸のまま――聖書のアダムとイヴさえ葉っぱを身に纏っていたが、彼らにはそれもない――裸のまま四つ足で歩き、言葉も持っていない。どこで覚えたか顔にだけ防塵マスクを付けていた白い痕があるが、町で売られる時には脱走防止のためにマスクは外されているのが常だ。そして皆一様に汚なかった。彼らはたびたび服を着た人間に捕まっては玩具同然の奴隷にされ、野にあっては群れて人間を襲ったり、その死を喰らったりしていた。
「だってあれは人間だよ。助けてあげようよ」
「お前の爺さんを喰らったのもケモノだぞ」
 ケモノの一匹や二匹買ったところで何になるんだ。できもしないことを言うな……クローブはヒスイに対して残酷なくらい率直で冷たかった。ヒスイはそんなクローブの返事に答えを返すことができなくて、それっきり何も言わなくなってしまった。
「……ああ、ごめんな。俺だって悪いとは思うよ。何もかもが正しいと思ってるわけじゃない」
 クローブは自分なりに自分に誠実であろうとする。だからこそ余計に、彼の言葉は時として彼を取り巻く世界を影も日向も浮き彫りにする。ヒスイは無垢な瞳で彼から多くのことを学んだ。そして同時に自分が何を見たか彼は忘れることはなかった。
 売られていく裸のケモノたち。
 自分たちと違うと思うなら、それはなぜか。彼らが平然と裸のままでいるから? 吠えたり、歯を剥いて涎を垂らしっ放しにしているから? 目が獣のようにぎらぎらして臭いから? 彼らには単純に知性がなかったからだろうか。それは彼ら自身のせいだろうか。
「クローブさん。おれ何か自分が気持ち悪い」
「うん?」
「あの人たち……人間なのにそうじゃないみたいな、別物みたいで何か違うみたいな、変な感じなんだ。何かがものすごく、全然足りない気がする。何が違うんだろううまく言えない」
 ヒスイの反応は、クローブが予想したものとは微妙に違っていた。ヒスイは彼らケモノが外見だけでなく中身まで”違うもの”になってしまっていることを、一目で見抜いてしまっていた。彼らを人間として扱おうとすればするほどにその影は色濃く異物として固まってヒスイを拒んだ。
「あの目はおんなじなんだ。おれたちの目の芯にあるやつと同じなのに、でもあの人たちはそれより先のものがない。おれたちが持ってるものをあの人たちは持ってない。おんなじなのに何か違う……」
 知性がないと人間を人間として扱えない。それは残酷な人間の本能なのだろうか。そんな悲しすぎる本能と折り合いをつけて、いつかそれが痛みを伴わなくなった時に人は大人になっていくのだろうか。
 戸惑って泣きだしそうな顔をしているヒスイにクローブは何も答えなかった。それから数日間ヒスイの寝付きはとても悪く、クローブは何度となく彼に賢者の石を握らせて夜を明かすこととなった。


 ヒトは、美しいものをどんどん自分の手でなくしていった。いつしか美しいものを知っていた世代は失われ、今となっては何が「美しいもの」なのか、それすらも知らない世代が生まれている。
「美しいものってなに」
「人の心の部品だ。美しいものを知らないことにはヒトは人間になれないんだ」
 そしてケモノになってゆく。
 もし海が見つかったら、海という存在に誰もが巡り会えるとしたら、ケモノは人間になれるだろうか……そんなことをクローブは考える。
「おれは美しいものを知ってる?」
「知ってるよ。美しいものを知ってる奴はみんな強いし、やさしい」
「じゃあ知らない奴は悪い奴なの」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
 この世には大き過ぎてどうしようもないことがいくつあるのだろう。
 ヒスイの前でクローブはよく空を見上げていた。そうやって空を見上げる時、クローブの眼はどんなに遠くのものも見えそうなほど澄んでいた。ヒスイはそんな風に悩むクローブのまなざしをいつか自分も持てたらと思う。クローブの目は焦げ茶色だが、そういうまなざしは例えて言うなら海のように蒼い。真っ蒼で美しいと思う。
「アイも歪んだ時代になっちまったなあ」
「アイって?」
「……何だお前。アイを知らないのか」
「うん。爺ちゃんが嫌いだって言って教えてくれなかった」
 クローブはそれを聞くと爺さんの思いを理解したのか、ヒスイには何も言わずにそのままいつもの大きな歩幅で先へと歩を進めはじめた。爺さんほどではないにしろ、クローブもまた「アイ」があまり好きではないのかもしれないとヒスイは思った。
「クローブさん待ってよ。アイって何!」
 海と共にヒスイの前から消えた言葉。
「それもゴミか何かなの?」
「……そうかもしれない」


 ヒスイが見た背中の向こうでクローブもまた迷っていた。
 自分は何のために海を目指して歩くのか? 歩き続けることをやめたりはしないけれど、果たしてこの旅の終わりはいつ来るのか。そしてこの旅は一体誰に対してどんな意味を持つのか。クローブも大人であると同時にまた一人の若者だった。幼いヒスイほど無垢ではないかわりに、彼の内面は深海の如く底が見えない。自分が旅を続けること自体に疑問はないとしても……。
「ねえクローブさん。クローブさんのポーチにはどうしてそんなにたくさんの耳が入っているの」
 以前ヒスイはそんな質問をしたことがある。クローブはめったに悲しい話をしなかったけれど、ヒスイに耳のことを訊ねられた時だけは違った。クローブが持ち歩く耳にまつわる話はヒスイが聞いた話の中で一番悲しいものだった。
 それはかつて海を目指していたキャラバンの話。
 海が消えてからも彼らは海を探して、ゴミの大地の上をラクダを引いて歩き続けたのだそうだ。絶望しかなかった故郷より明日に賭けた人々。海への道標は極めて細く頼りないものであったけれど、誰も故郷へ帰ろうとは言わなかった。彼らの顔は立ち寄るどの町の住人のそれよりも強くて、まなざしはみな蒼くて、どこか必ず明るかった。大人は子どもたちに古えの世界を語り聞かせ、子どもたちはみなそれを信じた。子どもたちはやがて大人になり自分の子どもたちに同じものを伝えていった。
 どこかに海が必ずあると信じていたキャラバンの人たち。彼らは歩き続けることを決してやめなかった。一人また一人と力尽きて死に絶えるまで、ずっと。
「みんな死ぬときは綺麗な顔をしていた。生きている間は辛いことばっかりだったってのに、何であんなにやすらかな死に顔になるのか……俺は不思議で不思議でたまらなかったよ。それで残った奴らは死んだ奴の耳を削いでまた旅を続けるんだ。子どもはその時後ろを振り返ってはいけない。誰もその理由は教えてくれない。いつか子どもが自分で悟るその日までな」
 海なんてどこにも無いんじゃないだろうか。
 キャラバンの人間たちがその疑問を持たなかったわけではない。むしろ彼らは誰でも一度はその可能性を考え、ゴミの大地の中で立ち止まる。そして旅の意義を自ら掴み取って進んでいくのだという。
「クローブさんも一度は考えた?」
「考えたよ。旅をやめようかと思ったこともある」
 家族も友人たちも恋人も、みんな死んでしまった。誰もがまだ見ぬ海の存在を信じていた。みんな自分の命より大切なものがあると信じて疑わなかった。クローブがそれを「大切な人の命なんじゃないのか」と訊ねてみても、返事はなかった。答えは沈黙の中から自分で掴み取るものだと言わんばかりに。
「俺が一番強かったから最後まで生き残った。それだけのことだ。両親が死んでいって、兄弟が死んでいって、恋人も死んだ。最後に親友が死んだ。……俺は最後に親友の耳を削いだよ。そうして最後に後ろを振り返って」
 言葉は不意にそこで途切れた。クローブはすまなそうにヒスイの顔を見ると両目を閉ざして静かに首を振り、それ以上ヒスイに何も見せようとはしなかった。
 クローブの胸に静かに収まっているいくつもの死。崇高で言葉にできない彼らの死とて、自分が力尽きればそれまでだとクローブは言う。
「それまでじゃないよ。おれが伝えるよ」
 ヒスイがそう言った時クローブは心底嬉しそうだった。
「ありがとう。でもな、だからといって旅は終わらない。俺は歩き続けにゃならんのだ」
 お前にも、いつかわかるよ……クローブのその言葉はとても深くて、けれんみのない音をしていた。


「夢の最果て」

●Novegle対応ページ ◎作者:桔梗鈴◎カテゴリ:FT◎長さ:長編◎状況:完結済◎ダウンロード◎あらすじ:ゴミだらけの星の上で天涯孤独になった少年は”消えたと言われる”海を目指す行商人の男についていく……少々風変わりなロードムービー。
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