夢の最果て その2

 それは、本当に終わりのない旅のように思われた。
 二人の旅はそれからも何年も何年も続いて、ヒスイは旅の中で何度も何度も着る服を一回り大きな新しいものへと替えなくてはならなかった。
 蛇が脱皮を繰り返して大きくなるのに似ている。ヒスイは自分の誕生日を知らなかったけれど、服を一回り大きいものに替えてぼろぼろになった靴を新調するたびに自分が大きくなっているのを感じた。昔は首をうんと曲げて見上げていたクローブの顔も、だんだん自分に近い高さのところまで下がってきていた(クローブ自身がもともと大男なので最終的にはそれでもクローブの方が背が高かったが)。
 何回も”脱皮”を繰り返して、いつしか熱中症で倒れることもなくなり、途中の町で恋もした。ヒスイの姿は今や幼い少年から立派な若者へと変わりつつあった。
 自分は、何のために旅をしているのか。
 ヒスイはいつしかその理由を考えることをやめていた。海があるかないかということより、単純にクローブを慕っているから彼に付いて行くのだ。ヒスイの理由はその時はそれで良かった。いつかそれでは済まなくなる日が来るとしても。


 ヒスイがサンゴを拾ったのはその頃だった。
「ヒスイ、何だその赤ん坊は」
「わからない。ケモノに攫われそうになってたから拾った」
 クローブは自分一人だったら決してその赤ん坊を拾おうとはしなかっただろう。暗い町の、そのまたさらに暗いゴミの町のゴミ捨て場。そんな所に棄てられている子どもはいくらでもいたのだ。そうして赤ん坊は普通ケモノに攫われてケモノになるか、ケモノにさえ見つけてもらえないで死ぬかだけだった。
「ケモノに返してこい」
「嫌だ!」
 ヒスイももう勝手が分からない子どもではなかった。彼はその赤ん坊が母親に棄てられるところを見てしまったのだ。母親が小さな娘を粗大ゴミ同然に投げ捨てるのを初めて見た彼は驚きのあまり何も言えなかった。ケモノたちが赤ん坊を攫おうとしているのに気づき慌てて駆け寄ったが、赤ん坊を拾い上げた時には既に母親の姿はなかった。
「母親に投げ捨てられたんだぞ。こんな何にもできない赤ん坊なのにさ、生まれて親の顔も覚えないうちに『死ね』って言われたんだぞ!
 クローブさんだったら、それ見て放っておけるのかよ?」
「俺らが育てても死ぬ。そいつは小さ過ぎる」
 ヒスイが絶句してその場に立ち尽くす。まだ名前のないその女の子は、生まれたばかりにしても普通の赤ん坊より痩せ細って小さかった。泣き声がしゃがれているのはゴミの灰燼と腐敗ガスに喉をやられたからだろう。顔に飛んでくる羽虫を振り払う体力さえ彼女には残っていない。
「どうせ長く保たない。俺は旅を中断するつもりはない」
 何度クローブが赤ん坊を捨てろと言ってもヒスイは頑として応じなかった。口論の中でヒスイはクローブを人でなし呼ばわりし、育ててもらった恩など初めからなかったかのように口汚く罵った。
「いつも偉そうなことばっかり言ってるくせにいざとなったらそんなことしか言えないなんて、いい加減愛想も尽きるぜ。 俺は人間捨ててまで旅なんかしたくねえんだよ!」
「じゃあ黙ってさっさとそいつを捨ててくるんだな。そいつがまだ半分ケモノなうちに」
 名前のないうちに捨ててこい……クローブのその言葉にヒスイの怒りは頂点に達した。前々からケモノには極端に冷たかったクローブだが、ヒスイも今度ばかりは彼のことを人間と思いたくなくなった。
「名前ならあるよっ! 今すぐ俺がつけてやる」
 子どもには宝石の名前をつけると教わった。
 ヒスイは桃色の海の宝石からとって、赤ん坊をサンゴと名付けた。


 その晩、ヒスイは初めてクローブから離れた場所で夜を明かした。強く抱けば壊れてしまいそうな小さいサンゴを抱いて町医者を尋ね歩き、サンゴが生き延びるために尽くせる限りの手を尽くした。
「おい、生きろよサンゴ。死んじゃ駄目だぞ」
 サンゴはほぎゃあとも泣かないかわりに必死で体の異常と戦っていた。彼女は乳児であるにも関わらず周りのことを全て解っていたのかもしれない。母親に「死ね」と言われてもサンゴは独りで、乳児の心とからだで生きることを選ばなければならなかった。そのちいさなちいさな手にヒスイの人差し指を握りしめて……。
「子どもは宝石のようだって言うけど、爺ちゃんの言う通りだ」
 その時のヒスイにはサンゴを守ることしか考えられなかった。明日のことやそれから先のことを考える余裕はなく、ましてや”人でなし”と化したクローブのことを考える余裕など、生まれるはずもなかった。


 ヒスイが成長していくのと同時にクローブは着実に歳をとっていっている。クローブはヒスイから離れた場所で賢者の石を見つめ、それから石を握る自分の手を見つめた。クローブの手は常人のものとは思えない加速度的な速さで使い古されていっている。常人ならめったに歩くことのない地表を三十年以上も歩き続け腐敗ガスと有毒物質と紫外線を浴び続けた結果がこれだ。一年くらい前から彼の手は原因不明の震えを起こしはじめていた。かつてのキャラバンの人間たちのように。
 自分の命が燃え尽きる前に海を見つけなければならない。
 しかし、「人間」のあの赤ん坊を自分はどうしたらいいのだろうか。海を見つけることも大事だが、その前に人としてヒスイには教えなければならないことがあるのではないだろうか。何より人間を捨ててまで海を見つけたところで、そこには何か残るのだろうか?


 クローブは一晩考え抜いた末に賢者の石を握りしめて朝の市場へと向かった。賢者の石は彼にとってかけがえのない道標であったが、同時にそれは人の命を踏みにじってまで残していてはいけないものだった。
「クローブさん、あんた何してるの」
 ヒスイとは、市場の中で出会った。ちょうど目の前の宝石商に声をかけようとしていたときだった。彼の腕には元気を取り戻したサンゴがすやすやと眠っている。
「石を売る。赤ん坊を人に頼むにはまとまった金が要る」
「駄目だよ。その石だけは売っちゃ駄目だ」
 ヒスイは狼狽しながらもクローブの腕を掴み、そんなことをするくらいならサンゴを旅に連れていこうと主張した。クローブがそれでも石を売ろうとするのを強引に引き止め、奪い取った賢者の石をサンゴに持たせる。
「赤ん坊に耐えられる旅じゃない。お前も解っているはずだ」
「そんなことないって。サンゴは強いよ! それに俺だってこいつを生かすためなら何でもやってみせるから」
 ヒスイが必死でサンゴを守ろうとしていたことはクローブにも見てとれた。サンゴが強いというのもあながち嘘ではないだろう。
 ただ、ヒスイはまだ若い。ヒスイの強がりが半ば願望でごまかされているのをクローブは経験からすぐに見抜いた。賢者の石もサンゴも人間の心も、大切なものは何一つとして失いたくないのだろう。だから若者は無茶なことを平気で言う。
 何も失わないで続けられるほど甘い旅ではない。そのことを解っていながらクローブはヒスイの提案を受けた。結局はそれが原因で何かを失い、その事実の中からヒスイが自分で悟るしかないのだということを、彼はよくわかっていた。


 世界中を燃やし尽くしたくらいはあろうかと思われる灰の上に濁りきった虹色のゴミを堆積させて、それでも毒の灰色はまるで無くならない。世界中の色は徐々に毒の灰色の下へ沈んでいくだろう。地表では追い出されたケモノたちの死体があり地下では服を着た人間たち(もっぱら老人と子どもたち)の死体がそこいらへんに落ちている。唯一美しいままの空を裸眼で見上げれば、紫外線に目を焼かれる。
 まだ見ぬ海を目指して歩く一行の数は三人になった。唯一消える前の海を知っているクローブと、それに付いていくヒスイ。サンゴはヒスイの胸元でちいさな防塵マスクをつけ、真っ蒼な賢者の石をきゅっと握りしめてずっと眠っていた。いくら氷と水で冷やしても、高価なミルクを飲ませても、赤ん坊のサンゴの体力では死なないように戦うのが精一杯だった。
「おい。サンゴはちゃんと汗かいてるか」
「大丈夫。ちゃんとかいてるよ……ほんとに、こいつは凄い」
 ヒスイはサンゴのために黒い日傘を差して歩き続けている。炎天下の大地で傘に受ける熱風の抵抗に耐え、サンゴとサンゴを冷やすための氷水を背負う負担は計り知れないものがあったがヒスイはそれを言わなかった。もともと耐えることには慣れきっていたし胸元のサンゴの存在が彼の気力を支えたということもある。ヒスイは歩きながら笑いさえした。ヒスイが笑いかけると、驚くべきことに苦しいはずのサンゴも時々笑い返してくる。クローブはその力強さに改めて目を瞠る。
「ね、だから言ったでしょ子どもは宝石のようだって」
 ヒスイは自分が脂汗をかいていることに気づいていないのだろう。気づいていたらあんな風には笑えない。クローブは驚嘆と同時にこの二人の若さをまだまだ危うく感じてしまう。実際彼らが強いのだという事実は曲げようがなく歴然と存在しているが、それを過信してはいつ足元の骨のようになってしまうのか解らないのだ。クローブにはそれが怖い。
 ヒスイが大きくなってからは見ていなかったが、遠くの丘の向こうで黒い群れがさわさわと蠢き始めていた。地表のあざとい奴ら。彼らは死者と怯える子どもをとって喰い、なついた子どもと赤ん坊を攫う。


「ねえクローブさん」
「うん?」
「昔のキャラバンには赤ん坊とかいた?」
「いるも何も、キャラバンの人間は昔は全員キャラバンの赤ん坊だったさ。ラクダの上には妊婦と赤ん坊がよく乗っていた」
 だんだんどの町でも子どもと妊婦が減ってきている。知恵を持ってしまった人間の多くは絶望に呑まれて滅ぶままになり、残るのはただただ本能だけで勝手に殖えるケモノばかりだった。
「俺もサンゴも拾われなかったらケモノになっていたのかな?」
「ああ。今頃外で勝手に子ども作って人を襲ってるか、逆に捕まって壊れたケモノにでもなっていただろうよ」
 失われた古えの大地さえあれば、みんな救われるんだ……ヒスイはクローブからそんな台詞をたまに聞いた。クローブはクローブでその台詞を何度もキャラバンの人間に聞かされたのだという。そしてそこに「そんな大それた幻想は俺には持てなかったけどな」と付け足す。
「でも、海さえ見つかればきっと何かが変わる。それでいい」
「……ずうっと前にも聞いたよ。その台詞」
 最初に聞いたときヒスイはまだ小さな子どもだった。
「クローブさん。本当に海なんてあるの」
「あるよ。海はきっとある」
 胸の中ですやすやと眠るサンゴの姿。
 ヒスイはそんな答えを期待していたわけではなかった。クローブと違ってヒスイは消える前の海さえ知らないし、何年旅を続けてもこの大地では海への道を歩いているという確証すら持てなかった。いつまでも無意味にゴミの山の上を歩き続けているだけなんじゃないのか。本当は海なんてものは人々の逃避願望が生み出した偶像で、クローブはそれを熱心に信じている単なる虚言癖の男というだけなんじゃないだろうか。……長年信じ続けてきた人を、今更疑いたくはなかったけれど。
「……本当に? 本当に海なんてあるの」
「……あるんだよ。海はある」
 クローブにはその返事しかできないし、自分はその返事では絶対に納得できないだろう。矛盾を思い知ってヒスイが口を閉ざしたのは深夜のことだった。


「夢の最果て」


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