夢の最果て その5

 クローブの亡骸をヒスイがゴミの大地の上に寝かせたのはその日の夜になってからのことだった。生きている頃と同じように上に毛布をかけてやり、そばにランタンの光を置いてやり、呆然としたままで一晩を過ごした。死後硬直を起こしているクローブの体はおんぶしていた時の形そのままになっていて、毛布をかけてやると変な方向に手足が突っ張っているのだ。いくら元に戻そうとしても戻らなかった。死んだ人間は固い。
 それでも生きているヒスイには眠気が襲ってくるし、眠ればいつかは目覚めがやってくる。腹も減ってくる。汗もかく。尿意ももよおしてくる。まだ赤ん坊のサンゴのおしめだって替えてやらなければならない。人間は生きているだけで何と多くの営みを行っているのだろうと痛感していると昼はあっという間にやってきて、クローブの体は腐り始めていた。
 幼い頃、爺さんが死んだ時にはヒスイはこんな一部始終を見た覚えはない。確か夜頃に爺さんが死んで次の日の朝にはクローブと一緒に旅に出ていたからだ。思えばあれがクローブから教わった生きるための最初の作法だった。
「……死んだ人間は、耳を削いで。その場に置いていく……」
 頭が貧血気味なのか、締めつけられるようだった。もう自分にはサンゴしかいない。あとは全部自分で決めてやっていくしかないのだと気づくのに途方もなく時間がかかり、いきなり手にした自由の重さに思わず呻き声が洩れる。たった人一人失うだけで何と心細い旅路だろう。今日の今日まで幼い自分とサンゴを連れて歩いてきたクローブの心境が思いやられる。


 ヒスイは、その日のうちにテントを畳んだ。クローブの体が腐り始めている以上これより先には連れていけないのだ。周りのものをすべて取り払われたクローブの亡骸は最初と同じようにゴミの大地の上に野ざらしになり、さらにヒスイの手でマスクを外されてきれいに口を拭われた。やがてそこには思い直したヒスイの手で再びマスクがつけられ、たくさんの耳が入っていた彼のポーチはヒスイの腰へと受け継がれることになった。
「ありがとう。クローブさんのこと、俺は絶対に忘れないから」
 生きているうちに言っておけばよかったと思う。しかし言わなかったことにも後悔はない。クローブは最後まで自分で生きていくつもりでいたのだと、思いたい。
 遠まわしにこちらを見ていたケモノの群が徐々にこちらへとその包囲網を狭めていた。クローブが瀕死で歩いていた頃から後を尾けていたものたちだが、多分ヒスイがいるうちはここまで寄っては来れないだろう。今は構わずにクローブの遺品を受け継ぐことに専念する。
 ヒスイはどんどん一人前の男の顔になってゆく。かつてクローブが爺さんの耳を削いだとき自分は目を背けていた。やがてそういったものからも目を背けなくなっていくことが、大人になるということなのだろう。深呼吸して一思いにクローブの耳をナイフで切り落とすと思ったより血は出なかった。もう一つの耳も切り離してサンゴに持たせた。クローブは両耳を失ってもなお安らかな顔のままだった。
「ありがとう。……さようなら」
 サンゴを抱いて、一緒にクローブの最後の姿を目に焼き付けた。
 もうすることは何も残っていない。ここで別れて自分たちは歩き出すだけだ。意を決して立ちあがったヒスイは、サンゴを抱いて再び南へ歩き出した。それがクローブから教わった生きるための最初の作法だったから。
 こうしてまた旅人は二人になる。大人は子どもを引っ張り、子どもは後ろを振り返ってはいけないとたしなめられる。
 しばらくすると歩き出したヒスイの後ろで何かがざわざわと動きだす音がし始めた。やがてそれは不審さをおぼえるほど大きくなり、ぴちゃぴちゃと何かを舐めるような別の音を交え始めていた。
 何かが後ろに集まっている。身の毛もよだつ音。




 ヒスイは立ち止まってクローブの残した言葉の意味を考える。




 「子どもはその時後ろを振り返ってはいけない。誰もその理由は教えてくれない。いつか子どもが自分で悟るその日までな」




 いつも、あんな大人になりたいと思っていた。
 遠くを見つめるクローブのきれいな顔。
 大人になって後ろの真実を振り返る勇気があるなら。




 ヒスイは後ろを振り返った。
 たった今歩き出したその場所で、はだかんぼうの人間どもがクローブの死体をはだかんぼうに剥いていた。たったきのう死んだばかりの人間を、腐ってしまうと食べられなくなるからというそれだけの理由で歯を突きたてて肉を食いちぎってぴちゃぴちゃ舐めていた。
 はだかんぼうの人間どもが只の食料と化した人間を集団で裸に剥くおぞましさ。一瞬で喉が渇ききったのがわかった。あれは既に人間ではない。人間ではないのに戦慄のなかで自分と同じ生き物だということを悟る。肉に歯を突き立てて手も脚も顔も性器も胸も腹も始めからそこに人間などいなかったかのように喰らい尽くす、もうひとつの人間の姿。
 ……クローブさん。
 この世のものとも思えない絶叫がクローブからでなく自分の臓腑から出ているのは一体どういうことだろう。頭が真っ白になって、気がつくとクローブの死体の上まで駆け戻ってナイフを振り回していた。自分の口からは完全にケモノの叫びが洩れ、ケモノたちは遠まわしに自分たちを警戒こそすれ、散っていこうとはしなかった。胸元ではサンゴが泣き叫んでいる。突然ケモノと化した自分に怯えてしまったのだ。
 ヒスイはしばらく言葉を失っていた。何を言おうとしてもケモノの声しか出てこない。ケモノたちは自分が去っていくまであの場所で待っているつもりなのだ。亡骸を埋めても掘り返してクローブを食べる。今いる連中を皆殺しにしても別のケモノがやってきて死体を喰らう。たとえ亡骸を燃やしたとしても、この場所のたかが知れた火力では連中に提供するものが焼いた人間に変わるだけのことだということか。爺さんもあの時喰われてしまったのだ。そしておそらくキャラバンの人々も。
 それはずっと昔から繰り返されてきたことに違いなかった。
 キャラバンの人々に海を目指させたもの。爺さんに人間を忌み嫌わせたもの。かつてクローブが親友の前で同じように絶叫していた、決して捨てることのできなかった、狂気の記憶。
 クローブの腹は見るも無惨に食いちぎられぬるぬると黒ずんだ内臓が飛び出していた。頬の肉を食われたのだろう、その顔も今や変な場所から口の中身が見えている。血の匂いが鼻腔から口の中にまで充満してくるのを感じながら、外へゆるゆると洩れてくる内臓を元に戻そうとして何度も手を突っ込む。自分の手が地肌も見えないほどどす黒く染まってゆく。
 途中のどこで自分の気がふれたのか解らないまま、ヒスイはケモノの声で泣き崩れた。何度も何度も何度も狂ったように泣き叫んで、それでも最後にはクローブを置いていくしかなかった。







 そうして大人になったヒスイの上に、月日はうっすらと残酷さを帯びて降りそそぐ。
 数年後ドリームアイランドのどこかの大地の上にはやっぱり海を目指して歩く二人組の姿があった。片方はまだぎりぎり若いと言われる風貌の男で翡翠色の目をしており、もう片方は珊瑚のような色の目を持った少女になっていた。
「にいちゃーん、おれ疲れたよう。休みたい」
 ヒスイから言葉を習ったサンゴは今ではすっかり男言葉で話している。彼女の成長する姿が実はヒスイのささやかな楽しみであることをサンゴは知らない。人よりその成長のスピードは遅いがサンゴは日に日に前へと進んでいるのだ……大きなヒスイの背中を追いかけて。
「もうちょっと歩こうな。サンゴは辛抱足らんからなぁ」
「だって暑いんだもん」
「海へ着いたら涼しくなるぞ」
「石見たい」
「それはおあずけだ。とっておきだから」
 ヒスイは、出会った頃のクローブと同じくらいの歳になっていた。世界はやはり少しずつ死に絶えつつあるようで最近では同じ年頃の人間もあまり見ないけれど、それでも彼は旅を続けている。クローブの死に様についてはサンゴには話していない。ただ自分たちを育ててくれた偉大な人がいたと言うだけだ。そして誰かがこの先の旅路で死ぬようなことがあっても、ヒスイはやはり「子どもは後ろを振り返るな」と言うだろう。
「ねえお兄ちゃん」
「うん?」
「ヒトは何で服を着ていると人間で服がないとケモノっていうのかな」
「それは……」
 子どもの質問は時々鮮烈に胸を焼く。ヒスイ自身昔は同じように大人が身震いするような質問をしていたのだろう。今になってサンゴと一緒にそれを考えてみると、その答えは近づくどころか遠のいてゆくばかりだ。
「お兄ちゃん、目がきれいだ」
「うん?」
「すぐに消える朝焼けの空のいろ」
「そうかな」
「そうだよ」
 サンゴが蒼い目をするようになったら、それはやはり”夕暮れのあとの消えそうな空のいろ”になるのだろうか。その時サンゴは果たして何を見ているのだろう。


 キャラバンの人々、そしてクローブと自分の歩んできた道は時間をも超える長さだったはずだ。いつか終着点に着くことを誰もが信じていた。あれはひょっとしたらその”終着点”かもしれない。
 遠くに地平線の下からとてつもなく高い塀が伸びてきていた。この広い世界の中で、それの存在だけがまるで異質だった。遠目に見ても優に高さ数百メートルはあるであろう漆黒の塀はその向こう側をきれいに覆い隠し、近づけば近づくほどに静かな恐怖と存在感を帯びてくる。
「……にいちゃん」
「うん?」
「何であの塀は怖いの」
「誰かが海を守るために、あの壁にまじないをかけたんだ」
 言いながらヒスイは自分で作った物語を信じたくなった。本当にヒスイがサンゴに言いたかったことは、違う。あの壁の向こうに真実があるからだ。
「あの怖さを乗り越えていけない奴は向こう側へ行くなって言ってるのさ。向こう側を見て絶望したくないなら、いつまでもここに居るがいい。そういう奴はこのゴミの世界で諦めきって暮らすのが分相応というものだ……ってね」
「勇者を試すんだね」
 そこから先をヒスイは言わなかった。向こう側に必ず海があるとか、そんな生易しいものではない。今となっては何を言ってもサンゴの期待を打ち砕くだけのような気がする。
 一歩前へ進むごとに黒い壁は天へと伸びていっている。この廃棄物の世界の荒れ狂う熱風にも、ゆるがず、物質的に何も変化しようとしない。世界の端っこを完全なる秩序で留めている鋼鉄の縁。
 もしかしたら海ではなく、骨だらけの崖が見えるのかもしれない。
 あまりにも高すぎる漆黒の塀が近寄るものの恐怖心をどんどん煽っているのだ。この世界の諦めきった人間には壁の前まで行くことさえかなわないような気がした。後は邪な欲望を持つものや、身を滅ぼす蛮勇を誇る者。そして馬鹿だけの旅路。


 数日後、ヒスイとサンゴはようやく塀の前まで辿り着く。漆黒の塀は実際に触ってみるとあちこち風化しところどころ錆びていた。見上げても淵がどこにあるかわからないくらい塀が高く、向こう側へ行く取っ掛かりもなく、見上げるために曲げた首が痛い。
「どうやって向こう側へ行くの」
 サンゴの問いにヒスイは意外と呑気だった。
「もう少し調べてから考えるさ」
「だってめちゃめちゃ高いよ。この壁」
 登れっこないよとサンゴは言う。確かに今のままではそうだろう。しかしヒスイの目には絶望はこれっぽっちもなかったと言っていい。
「だったら時間をかければいい。何年でも」
 時間をかければ、諦めなければいつかは何かが変わるのだ。自分の代で既にそれが証明できただけでもヒスイは幸運だった。たとえ調べてみて何もなかったとしても、時間さえかければ向こう側に行く方法などいくらでもある。例えばこの風化した部分に一本一本楔を打っていくとか、町まで戻って金を稼ぎ地面を盛り上げていく工事をするとか。
「それってさ、兄ちゃんが生きてるうちにできるの?」
「途中までぐらいしかできんかもしれんなあ」
 さらりと言ってのけながらヒスイは塀沿いに地平線まで目を凝らす。かなり遠くにだが、壁から何かブロックのようなものが出っ張って地面に落ち着いているのが見えた。


 小屋と、梯子だった。


 梯子は何のために、あんなにも細長く伸びているのだろう。それはおそらく塀の上まで届く長さで、この地平線と同じだけの距離を広がっている黒い壁の中に、ぽつんと一本しかついてなかったりする。客観的に見れば無意味さだけの際立つ存在だった。
 下の小屋には小男が一人いた。それまでの町にいた薄汚れた人たちと何一つ変わらない。梯子について聞いてみると、彼はそれを「海への梯子」だと判を押したように答えた。
「あんたもこの梯子を上るのか」と小男は言った。
 最後まで上った奴が誰も帰ってこない。帰ってきた奴は向こう側を見ないで戻ってきたか、梯子から落ちて死んだ奴だけだよ……小男は空家だったこの小屋で、梯子を上っていった仲間の帰りをもう何年も待っているという。小男の仲間はまだ帰ってきていなかった。
「本当にこの向こうに海があるんですか」
「僕の相棒が正しけりゃそういうことになるねえ。最後に『海だ』って叫んだきり、戻ってこなかった」
 まるで最後の歓喜の声が彼の相棒を殺したかのように。
 小男は梯子を最後まで上りかけたけど、その後ふつと見えなくなった物言わぬ相棒に恐ろしくなって、降りてきてしまったのだ。塀の上で何が起き彼の相棒がどうしたのかは今でも霧の中である。
 話を聞いて不安になったサンゴがヒスイを見ると、ヒスイはサンゴには理解できないほど落ち着いた顔をしていた。
「にいちゃん」
 大丈夫なのかという問いをサンゴは我慢できなかった。ヒスイはサンゴが不安定になっているのを知るとなだめるように微笑みかけて、使い古された大きな手で彼女の肩をぽんと叩いただけだ。


 最後の日になったら、話そうと思っていたことがあった。多分自分があの塀を越えて海を見つけても、自分たちが生きている間に世界は変われないということ。
「それは世界が悪いんじゃなくて、俺たちがちっぽけなんだ。そこらへんのムカデとかが俺たちなんかよりずっと早く死んでしまうのと一緒で、俺たちは世界の寿命よりうんと早く死ぬ」
 だから自分たちが世界に裏切られたなんて思いながら死んでは駄目だ。世界に対しては無条件で信じろ。そのために俺たちは子どもを作っていのちを繋げていくことを許されている。
「明日、俺はサンゴを塀の向こうへは連れていかない。三日して戻ってこなかったらお前は町まで引き返してそこで生きていくこと。それでも、どうしても塀の向こうが見たかったら、条件を満たしてから来い」
 一人でいいから命を育ててみろ……サンゴの緋色の目を静かに見つめるヒスイの目は、幼いサンゴが見とれるほど深く澄んでいた。「捨て子を拾ってもいいし、サンゴは女の子だから大きくなってから自分で産んだっていい。そうやって俺がお前にした話を全部話して聞かせてやれ」
 ヒスイはそれまで大切に持っていた「賢者の石」を懐から取り出すとそれをちいさなサンゴの手のひらに収めて、彼女の手をしっかりと包みこんだ。
「お前にやる。返さなくていいからしっかり持ってろ」
 サンゴはそれがヒスイとの永遠の別れになってしまうかもしれないことをようやく実感し始めたのだろう。急に「いやだ」と言って、泣きだす。
「こわいよ。ひとりで生きてくのこわい」
 幼いサンゴにはこの世界は凶暴すぎる。怖がるのも泣きだすのも無理はなかったし何より独りになってしまうことが痛ましかった。ヒスイは町まで戻って誰かに彼女を預けることを考えたが、サンゴは最後までついて行くと言ってきかない。塀の向こう側まで一緒に行くと泣きながら言った。ヒスイもそれだけは許してやれなかった。


 深夜、ランタンの光にくるまれて泣き寝入りしてしまったサンゴをヒスイはずっとあやし続けていた。最近ではやらなくなっていた子守唄を歌ってやっていると、サンゴがうんと小さかった昔を思い出す。
 しばらくしてドアをノックして昼間の小男が部屋に入ってきた。まるで年中背をかがめているみたいな猫背だ。どうやらヒスイを説得しに来たらしかった。
「北の子守唄か」
 あんたどこから来たんだという問いに、ただ「北から」と答えた。北といってもこの広い大陸の、どこかという程度である。直線距離ではないにせよもう何十万キロメートルも歩き詰めてきた。クローブはさらにその北からやってきたし、キャラバンの人間たちはきっとさらにその北を知っていることだろう。
「昔は、世界の十のうち七が海だったそうですね」
 今はどのくらいの比率なんでしょうかと聞いてみると、小男は暗いがはっきりとした言い方で比率が逆転しているだろうなと呟く。とにかく世界中の気温が昼には摂氏五十度を越えているし、大地が広がったことで内陸部はさらに暑くなった。海は干上がって塩分と有毒物質を凝縮した状態になっているのではないだろうか……。
「たとえ海があっても死の海だ。僕たちには住めない」
 小男は執拗に悲観的な予想を立ててはヒスイを思い留まらせようとする。久しぶりに人が来たせいもあるのだろう、ひどく饒舌な男だった。残されたサンゴが可哀想だろうという台詞はさすがにこたえた。何も今じゃなくてもいいじゃないかとも言われた。
 ヒスイはずっと静かに男の話に耳を傾けていた。反論せず、逃避せず、波を立てない湖のように透き通った目で男に喋りたいだけ喋らせてやった。明日には誰の言葉も聞けなくなるかもしれないと思うと、どんな人間のことばもいまいましいと思わずに聞いていられた。
「あんた、それでも行くのかい。明日行くのかい。僕はあんたのこといい人だと思うよ。だからあんたが戻ってこなくなるのは、寂しいんだよ」
 昨日まで見ず知らずだった人間でさえ、居てくれてよかったと思うようになる。旅立つ前の人間はしあわせだ。


「海の色をね、確かめなければいけないんですよ」
 最後にヒスイがぽつりと洩らしたのはそんな台詞だった。
「今まで人生の半分以上を歩き続けてきたけど、俺は海を見たことがないから明日が初めてなんです。それにあんたは向こう側が怖いっていうけど、それでも梯子を最後近くまで上ったんでしょう?」
 たとえ向こう側に何があっても、それでも人間は梯子を上る。そうやって最後には塀を越えていく。
「俺を生かしてくれた人たちや、育ててくれた人たちがいたんです。みんなこの塀の向こうを夢見て、辿り着く前に死んでしまった。優しくて、強い、本当に強い人たちでした。俺はあの人たちの夢を叶えてあげたいんだ」
 あらゆる狂気と汚濁を抱えて、なお人間は美しい。
 ヒスイがそう思うのも彼らの生き様があるからだ。
 たとえ塀を越えた途端にこの世からいなくなることがあっても。それでも最後まで前を見て歩いていける人生をヒスイはしあわせだと思う。
「今こうやって息してるだけでも幸せですよ。だからあの人たちもきっと幸せだったと思うんだ」
 初めてサンゴ以外の人間にクローブのことを、キャラバンの人間たちのことを話した。微笑みながら涙をこぼすヒスイの顔は、哀しいのに心の底から幸せそうだった。




 それまでと変わらないいつもの朝が来て、ヒスイは淡々と身支度を整えていった。紫外線を浴びないように長袖を着て、長いズボン。何十足めかの古びた厚手の靴を履いて革のグローブをつける。最後にいつもより軽いリュックをしょって耳の入ったポーチを腰にくくった。遅れて起きてきたサンゴは、すっかり口をつぐんでうつむいている。小男もそれ以上ヒスイを引き止めない。
「いい奴からいなくなっちまう。だからここはいつまで経っても苦界のままなんだ」
 半ば小男自身へと向けられている述懐をヒスイは複雑な顔で受け止めた。
「苦界に残ることも勇気かもしれないですよ」
 ただ俺には行かなきゃいけない理由があって、あんたにはない。ヒスイは塀の上まで行かなかった小男に優しく微笑みかけた。そのまま梯子のところまで、立ち止まることもなく歩いていく。
「俺が戻らなかったらサンゴを頼みます」
 サンゴは口元をきゅっと結び、緋色の眼を大きく見開いてヒスイのことを見ていた。何か喋ったらそれが最後の言葉になってしまうような気がして、何も言うことができずにいる。子どもの運命に逆らう力はとても弱い。いつも、自分が生きていくことで精一杯だ。
 今はそんなサンゴの姿を世界一大切に思う。
「大丈夫だ。サンゴは強いから」
 ヒスイがサンゴを最後に抱きしめてやると、サンゴは無言のままで泣きはじめた。しかしヒスイはしがみついてきた彼女の小さな手を残酷に振りほどいていく。夢を叶えるためにそういう道を選んだことを、彼は心の中で詫びた。
「大丈夫だから泣くな。……戻ってくるよ」




 ヒスイは梯子に手をかけると、目を潰すほど眩しい空を見上げてどんどんそれを上りはじめた。黒い鋼鉄の上を踏みしめていく金属的な足音がサンゴの前からどんどん遠ざかってゆく。
「おい」
 小男がヒスイの顔を見たのはそれが最後だったと思う。
「上りはじめたら、もう絶対に下を向くな。足が竦むと最後まで上れないからな。それが最後まで上りきるひけつだ」
 屈託のない笑顔と共に大声で「ありがとう」という返事が返ってきた。それからは本当に馬鹿正直に上だけを見て梯子を上ってゆく。ヒスイの姿はやがて豆粒のように小さくなり、あるかなきかの塵のようになって、二人の前から消えてしまう。
「海を見つければ死なないでも恐ろしい人生に堕ちるのに」
 海を見つけて、その後あいつはどうするんだ……小男が毒づくと横からサンゴに思いきり叩かれた。サンゴは息まで止めそうな面持ちで押し黙って、ヒスイから譲り受けた「賢者の石」の色のうつろいを確かめていた。




 今まで来たこともないほど高い場所から見るゴミの地平線は、真っ青な空に抱かれて世界一大きな陽炎を立ち昇らせている。自分のいた世界をこんなに凄いと思ったこともなく、ヒスイは一時それに見とれていた。
「クローブさん。見てるか?」
 ヒスイはさらに上へ上っていく。たった数百メートルの道のりが長く感じられた。上へ行けば行くほど熱風は大きなうねりでヒスイを引っ張り、空気は薄くなって彼の呼吸をゆっくり深いものにしていく。酸欠で腕の力が薄れていく感触が道の困難さを思わせた。
 途中で立ち止まっては梯子にしがみつき、何度もクローブのことを思い出して噛み締める。あの苦しみの中で最後まで歩いたクローブの姿を思い出す。
 まだ歩ける。そう思いなおしてはどんどん上を目指していった。




 海は、何色だろうか?




 ヒスイはそれを真っ蒼だと信じている。




 彼は最後まで梯子を上りきった。




 サンゴと小男は、下でずっとヒスイの帰りを待っている。
「お嬢ちゃん、随分きれいな宝石を持ってるんだな」
「海の石だよ」
「海に落ちてた石か」
「違う。海が石になったんだ」
 賢者の石の色は海の色をしているという。深い蒼で、その中に綺麗な硝子と虹の涙がうつろっているんだって……サンゴはそれまで何百回も聞かされた話を今小男に聞かせている。小男は適当に相槌を打ちながらそれを聞いている。
 その時、サンゴの手の上に小さな影がひとつ増えたのがわかった。サンゴが何気なく上を見上げると、真っ蒼な大空の中から何かが落ちてくるのが見えた。
 ……ヒスイのマスクだった。




「おじさん、ごめん。おれもやっぱり行く」
 サンゴは答えを待たずに梯子に手をかけ、小男に止められている。
「おい、戻るまで待てって言われただろう」
 サンゴはもう行くことを完全に決めた状態で首を横に振る。夕焼けのあとの消え入りそうな空の色――そんな感じの深い色をした瞳がとても綺麗だった。何度止めても戻る気がまるでないらしい。子ども特有の頑固さに小男は最後には白旗を上げた。
「わかった。それじゃ行きなさい。突風が吹いたら止むまでその場で耐えること。体力が無くなる前に下りてくるか上りきるかしなさい。いいね」
 サンゴは微笑んでいた。そうして小男に「バイバイ」と別れを言うとためらわずに海への梯子を上っていった。小男は下から心配そうにじっとそれを見守っている。多分彼女の姿が見えなくなって、戻ってこなくなったのかどうか確認するまでそこにいることだろう。




 それから先ヒスイとサンゴがどうなったかは、誰も知らない。


【完】


「夢の最果て」



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