夢の最果て その4

 眠るサンゴの妨げにならないようにクローブは一晩中宿の洗面所で咳き込み続けた。汚染された肺はひたすら悪化していくだけだ。二度と戻らない。ヒスイが血だらけで使えなくなったクローブのマスクを洗ってみると、思ったとおり中にフィルターが入っていなかった。一人で祈っていたあの時にクローブが自分で抜いたのだろう。そして他の駄目になったマスクの中身と挿げ替えた。クローブはただ自分のマスクの中身をヒスイによこしただけだったということだ。
「死んだら元も子もないじゃんか」
 自分の愚かさをえぐる台詞にしかならなかった。どうして気づかなかったんだろう。何もない場所からいきなりきれいなマスクが出てくるはずはなかったのに。クローブのあの深海のような目を見た時に気づくべきだった。そんな都合のいい奇跡など、ありえないということ。
(クローブさんはサンゴを捨ててでも生きるって言ったのに)
 それを説得した時自分は何と言ったっけ。キャラバンの人たちなら、サンゴを捨てない? 海は人間を殺してまで目指す場所ではない?
 もっと前から自分が根本的に間違っていたかもしれないことをヒスイは認めたがらなかった。自分がサンゴを拾ったこと。賢者の石を売るなと言ったこと。まがりなりにもサンゴを連れて旅に出てしまったこと。クローブが全部その前に警告していたのに、自分は夢物語を強引に押し通した。
 クローブは、一言もそれを責めない。
 たとえ満足に会話する余裕があったとしても、彼はやはりヒスイを責めなかっただろう。
 青紫色の顔でうんうん唸りながら止まらない咳にさいなまれるクローブ。彼にはもう洗面台の前で立っている気力もない。あとは何日も窒息し続け苦しみ抜いて死ぬだけだとわかっていた。洗面台の前で椅子に崩れてもたれるように眠るクローブの背中を見ると、申し訳なさがこみ上げてくる。
 生き地獄に立たされるというのは、まさにこういうことなのだろう。生きている限りクローブに安らぎの時はもう二度と訪れない。眠るときでさえ楽になれないのだ。苦しそうな息遣いだった。




「きれいな空気が吸いたい」
 クローブはヒスイの抑止を無視する形で出立の準備を纏めていく。貧血を起こしている真っ白い顔にくまを浮かべ、咽喉をぜいぜい言わせながら休み休み動き続けるクローブの姿は誰の目にも明らかに切羽詰まったものになっていた。ヒスイがいくら休まないと体に障ると言っても、きかない。今の彼には一秒の価値が宝石よりも重い。
「わかったよ。じゃあ俺も行くから。準備とか、そういうのもやるから」
 多分あっという間にその時はやってくる。燃え尽きかけている流れ星のように、ぱっと光ったら次の瞬間には永遠に見失っていることだろう。だからこんなくすぶった町の片隅で死んでいくより最後まで歩き続けようとするクローブの選択は、おそらくは最も誇り高い、そして正しい選択なのだ。
 ヒスイはクローブに代わって手早く準備をしながら自分がクローブに何を言うべきかずっと考えていた。時間は宝石よりも貴重なのに、そういう時に限って腹立たしいほどのろのろとものを考えている自分がいる。沈黙している暇などないはずなのに。
「海へ、行くんだよな。海へ行ったらマスクを外して息を吸って」
 そこにはきっとクローブを助けてくれるきれいな空気があるのだ。きれいな空気ってどんな味がするのだろう。どんな匂いをしているのだろう。色や形はあるのだろうか。音は出るのだろうか。触ったらどんな触り心地を返してくれるんだろう。
「もういい」
 ヒスイの感傷的な思いやりをクローブは乱暴な口調で拒絶した。ヒスイは断ち切られた言葉をそれ以上繋げようとはせず、クローブの姿を視界から外すようにして荷造りを進めた。てきぱきとリュックに必要最低限のものだけが詰められてゆく光景にクローブの苦しそうな声がずっと漏れてきて、耳から離れない。
「何でサンゴ助けたんだよ」
 自分は一体何を言っているのだろう。サンゴを助けろと言ったのは、他ならぬ自分だった。そのために命を捨ててもいいというおまけまでつけた。
「俺にもわからん」
 手を止めてクローブを見ると、クローブは今にも死にそうなやつれた背中を必死に上下させている。
「ただ、キャラバンの男ってのは、そういうもんだった。お前言っただろ。俺のこと、キャラバンの末裔だって。あの時……おかしくてなあ。昔を思い出した」
 どうしてみんな夢をあんなにあっさりと諦めて死んでいけたのか。優しかったがゆえに夢に届かなかったキャラバンの人々を想う時、クローブはいつも悩み続けて生きてきた。自分が最後の一人であることの意味を。彼らの夢を叶えることと彼らの末裔であり続けることは、悲しいことに同じ路線の上には無かった。




 それでも。
 奇跡に見放されたとわかった、あの時、あの場所で、他にどんな選択肢があっただろうとクローブは自問する。無力な赤子とそれを庇って命を投げ捨てようとしているヒスイ。そしてたくさんの、あまりにも理不尽な死の上に生かされた自分。どうしても消せなかった彼らの夢。
 クローブという人間の、全ての苦悩が一点に集約された数分間だった。たった数分でクローブは自分の心の中の深淵を全てかいま見る。キャラバンの人々の死に顔が胸にぽっかりと空けた無数の穴。虚無感や哀しみは言葉にして整理できないほどの質量を持っていたが、今では少なくともそれの存在を見続けていられる。自分を前へ歩かせ続けた記憶も痛みを伴いこそすれ、もうクローブを狂わせることはなかった。
 ヒスイのことを考えると浮かんでくるのはあの真っ蒼な目だ。美しい人間の目を本当に久しぶりに見たような気がする。最後にあの目を見たのはいつだったか。自分はどうやって生きるべきか。あの目に何を教えるべきか。
 誰を、生かすべきか。




 自分で最後だと思っていた。
(だけど俺で最後じゃなかったよ)
 サンゴを命懸けで助けようとするヒスイの方がよっぽどキャラバンの末裔としてふさわしいじゃないか。
 そう思った時にクローブの呪縛は解けた。
 自分の役目が一つに絞られた時、クローブの気持ちはどれだけ楽になったことだろう。あとはあの誇り高い人々の生き様をなぞっていけばよかった。そこに残酷な選択肢しかなかったなら、より希望のある人間を生かすだけのことだった。
「大切なのは、俺が海を見つけることじゃない。海がそこにあることだから」
 キャラバンの人々は決して死を恐れなかったわけではない。クローブにはそれが今はっきりと解る。自分が死んで残った者が海を目指すのかどうかも解らない。誰かを信じて死んでいくということがとてつもなく大きな賭けであることに気づいても、戻ることなどできはしないのだ。
 だからこそクローブは全身で自分の先祖たちに敬意をおぼえる。誰一人疑念を持たず、黙々と死んでいったものたち。




「……行こうか。海へ」
 そう言って立ち上がった後、クローブは死ぬまで眠らなかった。
 それまでと同じように重い荷物を背負い、ヒスイに肩を貸してもらって歩きはじめる。無理を言ってサンゴを抱かせてもらった。それまで何十年もの間汚染物質に耐えてきたクローブの腕はサンゴにとって懐かしいにおいを放っているらしい。サンゴは緋色の瞳をうっすらと開けて、クローブの顔をうとうとしながら見つめている。
「初めて拾った時のお前より小さいな。親戚の子どもに似てる」
 もうすぐ終わる時間の中でも二人はやはりとるに足らない話をしていた。時間は海よりも貴重なのに、呑気な話題しか胸に上ってこなかった。
「親戚の子?」
「そう。しりとり遊びとか好きだったかな。よくつき合わされた」
「ふーん」
 あんたがいなくなった後のこと考えると、寂しくなるよ。
 そう言おうとしてヒスイは自分が既に実生活でクローブを失っても困らないだけの知識を身につけていることを知る。それは全部クローブから教わったものだった。
「俺もさあ、そのうち嫁さんとか欲しいな。美人の」
「ふざけんな。順番から言って俺が先だろうが」
「いや、やっぱ向こうとしても若い方がお買い得でしょう」
 もうすぐ死ぬ人間と一緒にこんなことで楽しく笑ってしまう自分は可笑しいだろうか。どうにも向こうがそれを望んでいるような気がしてならなかったから。
「それで子どもはキャラバンが組めるくらい大量に増やすのな。全員に商売させてさあ、生意気そうなラクダを何頭も飼って、その上に妊婦と赤ん坊」
「サンゴはどうするんだよ」
「うーん、サンゴはできれば嫁に行かないのがベストかな」
 ラクダのどれか一頭にクローブ爺さんが乗っているという話もした。何だかんだ言って嫁をもらい損ねた”かわいそうな”クローブ爺さんは「自分は独身主義じゃ」とか言いながらふんぞり返ってラクダに乗っている。それである日うっかり現れたラクダの精あたりと結婚してヒスイたちの目にもうっとうしいくらいいちゃついたまま晩年を迎えるんじゃなかろうか。
「人間の嫁よこせよ」
「ストーリーが思い浮かべられない……」
 こんな時に『嫁が欲しい』『女が欲しい』などという話題になるとは思ってもみなかった。クローブの腕の中で女の子代表のサンゴが不機嫌そうに顔をくちゃっとしかめているのが笑える。
「ヒスイ、あとはお前持て。やっぱ病み上がりには重いわ」
 笑いながら息も絶え絶えに、クローブはサンゴをヒスイに返した。サンゴがヒスイの手に渡るやいなやクローブは空いた手を自らの口にあてる。ごぼっと何かを吐く音と共にクローブの手の隙間からはどす黒いものが漏れ出た。
「……ああ、ヤだねえ。血がバッテリー液みてえになっちまった」
 汚れきってしまったクローブの中の海。
 やつれ果てて廃液を吐いてもなお命のともしびを燃やし続ける姿は、この死にかけた星の最後の輝きによく似ている。ヒスイはサンゴを胸元のしょい紐に入れる前に立ち止まり、おくるみから彼女のやわらかい手を出してそっとクローブの頬にあててやった。穢れを知らないサンゴの手は廃液と化したクローブの血をぬぐい、クローブの頬には泣きたくなるような小さなぬくもりが残った。
「きっともう病原菌でいっぱいなんだろうね。あんたの血は」
 もう一方の頬の血をヒスイが無造作にぬぐう。サンゴとヒスイは自分のマスクをずらすと何のためらいもなく手についたクローブの血を舐めた。そうやってクローブの病原菌と抗体を体に入れ、自らの体を少しでも強くする。
「これで俺たちもあんたの血をちょっぴりは引いたことになるのかな」
 自分と同じように血に汚れた二人の口元をクローブは内心ひどく愛おしいと思った。同時に彼の中で未来への安心は確固としたものになり、奇妙な満足感の中で自分が微笑んでいたのを、覚えている。




 三人はそれからひたすら前へと歩き続けた。朝も昼も夜もない。クローブは壊れた肺から血を吐きつづけ、圧倒的に酸素の足りない苦しみに耐えつづけ、死にそうな息遣いをしながら執念で足を動かし続けた。ヒスイは彼の足が止まるまで一緒に肩を貸して歩いていくことだろう。辛抱強く、最後まで音を上げずに。
 日暮れ頃になってとうとうクローブが倒れると、ヒスイはサンゴを胸元にしょったままクローブを背中に乗せた。クローブの体はかつての強健ぶりが嘘みたいに痩せ細り、肺からの血もいよいよすっからかんに尽きている。そうでなければきっとヒスイなんかに背負える体ではなかっただろう。この大きな体は。
「……サンキュ」
「どういたしまして」
 背中の重さと熱さを感じながら、そのまま歩き出した。
 まだ見ぬ海へ。




「……クローブさん」
「……うん?」
「海ってさ、本当は何色なんだろう」
「……蒼だ。
 空をいくつも織り重ねたように真っ蒼だ。……」




「潮風の匂いがする」




 海は、何色をしているのだろう。
 ヒスイはそのままいつまでも歩き続けていた。
 クローブがいつ自分の背中で安らかに眠りについていたのかはわからないけれど、このまま背負える限り遠くまで歩いていこうと思っていた。
 ゴミの大平原は不思議な静けさでいつまでもそこにあるのだろう。空を見上げればゴミが舞うし、自分の足跡はゴミに埋もれて消えてゆく。それがはたして慈悲なのか無慈悲なのか、とうとうヒスイには解らなかった。
 昔はこの大地の上を、大きな体の男が前を歩いていて。
 自分は必死でその背中を追いかけて歩き続けたっけ。何度その名を呼んで「待って」と言っても彼は足を止めなかった。だけど自分が倒れて、目を覚ますと彼はいつも自分の目の前でほっと息をつくのだ。置いていかれないことだけがいつまでも不思議だった。
 背中のクローブにそれを尋ねようとしたが、やめた。
 ただ熱いものが頬をつたってこぼれ落ちていくだけだ。
 真っ蒼な目は一晩中歩きながら泣き続けて、胸元の命が握りしめる宝石の上に、またあたらしい海の欠片をこぼす。


「夢の最果て」


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