冷日の魔道士 第十二章:春の祭典(六)

 戦場の黒くがさついたうねりを銀髪の魔道士が一直線に裂いてゆく。雨は兵士たちの体の熱と傷で湯気となり、魔法性の暗闇に血煙を混ぜていた。戦場の誰もが光の失われた地獄の中を戦っていた。
 レモ・クラックスの目と耳は修練を積んだ魔道士らしく、少ない情報から多くのことを察知していく。前方から濃密な業火の色が、何度も燃え立っては暗闇を一時遠くへ押しやっていた。無数の怒号に混じって氷がぶつかり砕ける音もする。精霊魔法(エレメンタル)系の術者が二人。おそらく炎の方が帝国側だろう。自軍側は氷系を使っているようだが、日頃から氷系に秀でているのかこの豪雨を利用しようとしているのかはわからない。水の錐の炸裂音がないということは魔法防御壁(シールド)を破った術者の環境が乱れたということだ。ラークス中佐があの女魔道士に辿り着いたに違いない。あとは味方の魔道士の援護さえあれば呪いを解除できるはず。
 これだけのことを考えながら戦場を駆け、多くの帝国兵を血の杖(ベト)の力で轢き潰すようにして殺していった。驚異的な相手の致死率を除けばその殺傷ペースは魔法を使えない戦士のそれと大して変わりない。
 魔道士は力が強ければ強いほど、逆に乱戦の中では本来の力を発揮できなくなる。敵味方入り乱れる戦いの中で膨大な力に選択性を与え、同時に何十何百という照準を間違えずに観ずることなど人間の力では不可能だからだ。もし無理に大量の人間を殺そうと思えばそれは間違いなく虐殺の形になる。
 暗闇の中からいきなり飛び出してくる者たちの見分けが、つかなくなってゆく。極限状態の中でレモの神経は他の者たち同様暴力的に開放され、自然と出せるだけの力を出して主を守ろうとする。
「大尉! ……」
 急に飛び出してきた一人の頭を走りながら血の杖(ベト)の衝撃波で潰した。共和国の軍服を着ていた。倒れる同士の姿を見ながら、それでもレモは走るのをやめなかった。確かに命を奪った感触があった。過失から同士の心臓を止めてしまうとき、レモは同時に己の心臓をも止めようとしている気がする。胸が内側から強く痛むのを無視する。
 血塗られた十字架をいくつも背負い、なお平然として力強く走る。それができる人間でなくてどうして時代の急激な変革を達成できるだろう。あまりに多くの同士をこの手で殺した。たとえ十字架がひとつ増えたところで、折れることは今のレモには許されていない。

 雨に消えない業火を扱っていたのはやはり帝国軍の魔道士であった。共和国軍の駐屯地の近くに大型の魔法陣を作り上げ、そこから連続して火系の精霊魔法(エレメンタル)を乱射していたのだ。厚い麻のローブをまとった壮年の男だった。天候の次第によっては、あるいはこちらが共和国軍の魔法防御壁(シールド)を破壊する任に当たっていたかもしれない。
 対する共和国軍の魔道士は戦闘経験の浅い青年兵だった。行軍時にはレモの統率下に入っていた者の一人だ。彼は戦闘が始まるまでは上官の指示通り魔法防御壁(シールド)を張っていたが、いざ戦闘が始まるとそれどころではなくなった。肉体的に非力な彼は武器を持つ戦士たちに追いまくられながら戦場の中を逃げまどい、煙幕同然の暗闇にまぎれてどうにか戦闘の中心地から離脱することができた。
 結果として適度な臆病さが彼を救った。彼は安全な場所から自陣を襲撃した敵の精霊魔法使い(エレメンタル・マスター)を捕捉し、なけなしの勇気を振り絞って敵魔道士の近くまで寄っていった。遠巻きでも戦士に見つからない物陰を選んで進む。魔法陣を描くときに水でなく氷を選んだのも、他の兵士たちに対していざという時壁になると思ったからだ。
「我は水の精霊(ウンディーネ)と契約せり。峻厳の柱、五番目の球体(ゲブラー)八番目の球体(ホド)を繋ぐ(パス)の力をもって精霊は我に応えよ。契約の時は来たれり」
 足元の魔法陣から吹き上がる細かい光の粉が青年魔道士の杖の先を起点として収束され、雨の中で無から水を精製してゆく。青年魔道士は水の方向を指示して自らの周りに霧状に水分を散らした。氷の魔法は水の魔法を基礎とし、ここからさらに凍結のプロセスが必要になる。
「均衡の柱、九番目の球体(イェソド)の神シャダイ・エル・カイの名において。我に味方する精霊に元素の骨を与えよ。
 ──氷柵(メム・ケス・エゼム)
 青年の唱えた呪文と共に周囲の霧が白くきらめき、魔法陣の際から氷結した蜘蛛の糸が何本も生き物のように高くまで伸びた。蜘蛛の糸は互いに絡み合いながら触れる雨と霧をたちまち凍りつかせ、主を魔法と兵士から守る氷の壁で囲んだ。
 こうして精霊魔法(エレメンタル)のための魔法陣が完成する。青年は氷の壁の中で目を閉じると杖の起点に意識を集中し、雨の水分を支配して精神世界から相手の魔道士の存在を透かし見た。
氷釘(メム・ヴァウ・エゼム)
 相手魔道士の真上の雨を集め、いくつもの氷柱にして振りそそがせる。相手の魔道士は達者だった。自分に直接当たる氷柱だけを頭上への火の玉で砕き散らし、すぐにこちらに向けて返しの火を放ってくる。闇の中から飛んでくる火を受けるたびに目の前の氷壁が薄く溶けだし、朱色に輝いた。
 レモ・クラックスが戦場を駆けてようやく行き着いたのがこの二人の攻防だった。青年魔道士は戦闘の中で既に三回ほど氷壁を補強し、壁の外からでは中の顔が見えない状態になっていた。
「中にいるのは誰だ」
 壁を叩きながら怒鳴る。すぐにその場に伏せた。氷の壁に火弾があたり、乾いた爆発音と共に壁の周囲を飛散しながらレモの右腕と髪を少し焦がした。
 くすぶる右腕と髪の火傷を揉み消しながら氷の中の様子をうかがう。魔道士は一旦深いトランス状態に入ってしまうと外界からの刺激には容易には反応できなくなる。特に今のように物理的な外殻があって中の儀式が阻害されない場合、通常の方法で外から第三者が意思の疎通を図るのは難しい。
 しばらくしても中から応答がないのを、レモはトランス状態の影響とみなした。それならば相応のやり方で意思の疎通をはかるだけだ。身を伏せたまま柱の後ろへ回り、火弾が飛散してもぶつからない角度に回り込んだ。指を噛んで右腕に書いた呪文を全て血で塗り潰し血の杖(ベト)の鳴動を止める。鎮まった杖を地面に突き立てて氷の柱から外へ繋がる線を一本引き、線の先に小さな丸と文字一つのみの印を書いた。右手のグローブを外して溶けた氷の表面に掌をなすりつけ、少しでも血を落とす。
 レモは胸元の人魚石(コクマー)を引っ張り出すと右手で直に石を掴み、ひざまづいて印の上に右手と石を置いた。低い小声で早口に詠唱される呪文は、戦場の殺意に満ちた喚声の中では小石のように目立たなかった。
(ダレス)
 掛け声と共に拳の中からまばゆい水色の光が放たれ、柔らかい低音が鳴り響いた。精神世界の住人にしか聞こえない特殊な波長の音。闇の中で強い輝きが掌から印の線を走って魔法陣の中へ流れ込んでいく。
 必要ならば支援のためのエネルギーを送り込めるという、呼び声の呪文だった。中の魔道士は呼びかけに答えた。
「……隊長! クラックス隊長ですか?」
 氷の中から返事をした声に聞き覚えがあった。
「マーロウか」
「はい」
「援護する。先に俺を壁で囲めるか」
「やってみます」
 返事のあとにレモの周囲から突き出してくる氷の柱が、やがて水晶(クリスタル)の牙城となってレモを囲む。レモは地面の印から人魚石(コクマー)を放すと石を胸元に握りしめ、手始めに己の身に絡みついた呪いに反撃するべく呪文を唱えはじめた。
 あざなわれた縄を引きちぎる猛獣の眼光が知性の矛を持つ。彼の全身にこびりついていた微細な氷の細粒が内側から呪いを失って溶け出し、総身から一度に叩き出されて虚空へと勢いよく昇っていった。

 ラークス中佐は鉛のように重い水に漂いながらなお驚嘆すべき肺活量を誇示していた。水の中に閉じ込められてから既に八分以上が経過している。常人であればとっくに水の柱の中でパニックに陥り、惨たらしく泡を吐きながら全身を悶えさせている時間帯だ。女魔道士は自分の肩を刺したこの男が華麗な羽をもがれ、水柱の中で、惨めな姿でのたうちまわったあげくに絶命することを期待した。戦場の中で高揚した神経が彼女に身の熱くなるような嗜虐心をもたらした。
 だが孔雀は、たまに小さく葡萄粒大の気泡を吐きながら、闇を透かす水の中をなおも優雅に飛ぼうとしている。しなやかだが強靭な筋肉で重い水を掻き、自分の体勢も自由にならぬままで壁の外に(くちばし)を突き出そうとする。あるいは下へと潜り、漆黒の爪で魔法陣そのものを破壊しようと試みる。女魔道士はそのたびに水柱を上下左右に揺り動かし、孔雀を水籠の中心へ押し戻してしまう。
 ──性悪女め。
 柱の中心に押し戻されるたびにラークス中佐が内心で焼けつくような憎しみの感情を発しているのが女魔道士にはよくわかる。まだ足りなかった。彼にはまだ心の平静さを保とうとする働きがあった。こちらにもう少しの余裕が必要だ。もうすぐこの男は抑制も冷静さもなくなる場所まで追い詰められる。そうなれば華やかな戦歴を刻みつけたこの顔も下男と同じように歪み、死の間際のこの男の脳裏には自分の顔がそれまで愛したどの女よりも強く刻まれる!
 ラークス中佐が取り篭められた水柱の下の魔法陣の中心には、短刀(アサメイ)に貫かれた紙の形代があった。こちらはレモにかけた呪いだ。こちらもまだ生きている。女魔道士の厳しい唇の端が歪み微笑が宿りかけた。
 彼女の目の前で形代が突然爆ぜた。
 女魔道士の心臓を黒い鉄の槌が強打し、高速で胸から背中へと抜けた。ショックで不整脈を起こした女魔道士は、目の中に走った閃光に一人の男の姿を見た。
 銀髪の魔道士。悪魔(シェミハザ)としか形容できない荘厳な姿を、彼に仇なす者は等しく報いと共に見る。女魔道士の心臓はもう元の規則的な調子を取り戻すことはできなかった。
 水の柱は急に元の軽やかさを取り戻し、足元から決壊した。ラークス中佐は体の自由が戻ったのに気づくと、大きく反動をつけて水の柱の外へ向かって飛び出し、ついに柱から脱出するのに成功した。
 上半身が露出するなり、肺の中の息を噴き出した。大きく酸素を吸った。地面に飛び降りるなり女魔道士めがけて跳躍し、二歩地面を踏む間にクナイを取り出して軌道にのせた。クナイの漆黒の刃は今度こそ女魔道士の白い胸を貫き、正確にあばら骨をすり抜けて心臓にとどめを刺した。女魔道士の細い体ががくりと落ちた。

 ──余計なことを。
 ラークス中佐は自分を横から助けた何者かの存在を感じていた。心中で小さく毒づいた。
 女魔道士の胸に血の河が広がっていく。クナイを引き抜けば鮮血の雨が見られたかもしれないが、ラークス中佐はそれをせずに女魔道士の体を身に抱き寄せた。
「おい。おまえいい女だった」
 ひとこと言うだけの時間しかないだろうとわかっていたから、そうした。女魔道士は彼を鼻で笑い、喉を奇妙な笛のように鳴らしながら息を吐き続け、二度と息を吸わなかった。糸が切れた女の全体重を両腕に引き受けるとラークス中佐は彼女を丁重に地面の上に寝かせ、瞼を閉じさせてやり、せめて美しい死者が辱められることのないように用無しの雨天用装備(レインコート)を脱いで遺体の上にかけてやった。


To Be Continued...


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