冷日の魔道士 第十一章:春の祭典(五)

 レモの全身をつたう水滴が急に冷たく濁り体温を奪い始めたのは、彼が彼の上官から別行動を取り始めてしばらくした後のことだった。兵士たちは極限状態の中でいよいよ疲弊し始め、シリウスの谷間には帝国軍と共和国軍の兵士たちの死体がうず高く積みあがる。
 やはり思っていた通りの攻撃が来た。レモは舌打ちすると服の上から胸元の人魚石(コクマー)に手を当てて何度も同じ呪文を呟く。
「汝が主レモ・クラックスの名において。汝の力もて汝の主を守り、この身を縛るくびきを祭事者のもとへ。汝の力もて汝の主を守り、この身を縛るくびきを祭事者のもとへ。汝の力もて汝の主を……」
 呪文は敵の兵士が襲いかかってくるたびに中断させられた。呪文を中断するたびに体中を濡らしている水が冷たく濁る。じわじわと効果が蓄積されていけば自分が不利になるのは誰の目にも明らかだった。時間が欲しい。魔法陣を張れるだけの時間が。
 それは、「英雄」と呼ばれる大魔道士の宿命だったといえる。魔術を一度でも志したことのある人間なら自分の名を不特定多数に知られることがいかに恐ろしいことか知っている。呪詛やまじないのために自分の毛髪や爪や血は狙われ、名前を使われて軽い呪いをかけられるなどということは日常茶飯事だった。素人や二等兵魔道士程度の呪いなら人魚石(コクマー)にいなされて勝手に呪術者自身へ跳ね返っていくが、今度の呪いはどうもそれ以上の人間にかけられているらしい。
 味方の姿を探していると、今度は比較的近くで爆炎があがった。魔道士同士が接触したのかもしれない。続いて氷柱が瞬時に築かれ、割れる時の独特な音が闇を通して聞こえてくる。水の錐による攻撃はなかった。レモは即座に決断し爆炎の上がった方向へ向かって駆け出した。


 その頃、崖の上ではラークス中佐が帝国軍の女魔道士と睨み合いを続けていた。魔法陣の周囲には依然水の防御壁が張られ、中にいる主を守り続けている。
 女魔道士が水壁を解除し、次の魔法を発動させるまでの短い時間が勝負だった。ラークス中佐はその短時間で迷わず女の首を掻き切るだろう。時間切れになれば女魔道士の勝利だ。一瞬で勝負が決まる。そのため両者の間に言葉はなかった。
 ラークス中佐はクナイを構えたまま誘うように少しずつ距離を詰めてにじり寄っていくが、決して相手の必殺の間合いには入らない。そのことを相手の女魔道士もよく知っていた。やがてある一点で彼は前進をやめ、そのままの姿勢で機が熟すのを待ち始めた。


 遠くに戦場の雄叫びが低い地鳴りのようにして鳴り続け、空からは豪雨の雨音が草木と地面を叩く。ピクター老人と子どもたちの逃走は暗闇の中でいつまでも出口が見えないまま続くかと思われた。方向感覚は失われ、自分たちが前に進んでいるのかどうかさえも疑わしくなってくる。
 年上の二人──アルベルトとノーマは下の子どもたちがつまづいて転ぶのを励ましながら風雨をしのげる場所を探していた。ピクター老人が草と木の枝に魔法をかけて編んでくれた自然の雨傘をさし、多少歩く早さが落ちても絶対にはぐれないように全員の手を繋がせている。
「アルベルト、どうしたの」
 子どもたちの端でアルベルトが立ち止まり、暗闇の向こうに目を凝らす。他の子どもたちは何があったのかわからずに、彼があさっての方向を見るのにあわせて濃すぎる闇の先を見ようとしていた。
 一つ丘を下って上った谷の先だ。傾斜の中に、何者かたちの焚いた松明の光がマッチの光のように小さく輝くのを、少年は見逃さなかった。一つではない。松明が何本も円形に立てられ、明かりの届く範囲にいくつも人影が見える。
 アルベルトは知らなかったが、このときシリウスの山はほとんどが帝国軍の古代魔法(エンシェント)によって生み出された魔法性の暗闇に覆われていた。普通の人間にそれだけ離れた距離の火が見えるはずはなかったのだ。妖精(エルフ)に噛みつかれたアルベルトの左腕は蛇の頭のように腫れ上がり膨れている。心臓は生きる力を発揮して強く脈打ち、左腕に流れていた血をいまや全身にまわしていた。
「牧師さま! 火が見えるわ」
 もう一人子どもたちの中で声をあげたノーマの右足も、すっかりコブをつくって変色していた。こちらも妖精(エルフ)の傷跡だ。
「火? この雨の中で火が見えるのかい。土砂降りだよ」
「うん。不思議。屋根がないのに消えてないの。雨の中でも消えない火なんだわ」
 ピクター老人がノーマの答えに緊張し、彼女の案内に合わせて松明の見える方向へ体を向ける。めしいた老人の皮膚感覚は光のあるという方向から禍々しい瘴気を感じていた。この豪雨の中で消えないということは天然の火ではないのだ。何者かが呪術を行っている証拠だった。
 ピクター老人は子どもたちを集めると、特にアルベルトとノーマに、松明からなるべく遠ざかるように言い聞かせた。
「いいかね。今この山の中には、武器を持った恐ろしい者たちがたくさんいる。さっき家を襲ったような奴らだ。アルベルトとノーマが見たという光もそうかもしれない。山を出るまではよほどのことがない限り、松明や人影を見ても近づいてはいけないよ」
 ここにいる九人を信じて、みんなで力を合わせて山を越えよう──ピクター老人は子どもたちの心に訴えかけ、暖かい語り口で彼らを包んだ。子どもたちは暗闇の中で互いに顔を見合わせ、もう一度絆を確認するように繋いだ手を強く握りなおした。

 盲目になりかけている子どもたちのうち、アルベルトとノーマだけが暗闇でよく見える目を”手に入れていた”。二人はまだその目で周囲を見ていた。アルベルトは自分たちの周りを。ノーマは松明の周りにあるものたちを。
 アルベルトは見た。自分たちがいる丘の上に、真っ黒な雨天用装備(レインコート)を着た男が一人、杖を片手に何かを唱えていた。すぐに丘の下に目をやると同じ黒い雨天用装備(レインコート)の集団が松明の集団の下に潜んでいるのが見えた。
 そしてノーマは、松明の集団が囲んでいるものが一つの大きな魔法陣だと気づいた。錆色に赤い巨大な魔法陣はその円陣から六方に細い筋を伸ばしており、筋の先には縛りつけられた人間が血を流して倒れている。魔道士たちは生贄の首を切っていた。
「キャ──────ッ!!」
 少女の悲鳴は豪雨にかき消されながら谷中を駆けわたった。
 谷にいた集団の全てが一気に動き出した。松明の下にいた魔道士たちが遠くから子どもたちのいる方へ顔を向け、アルベルトがノーマの口を塞ぎ、雨天用装備(レインコート)の集団が一瞬の隙をついて多数の武器をぎらつかせ丘を駆け上る。丘の上の魔道士は呪文の詠唱の途中だった。松明の近くにいた魔道士たちに雨天用装備(レインコート)の戦士たちが襲いかかり、襲撃を受けた魔道士たちは無我夢中で応戦しながら子どもたちのいる丘のほうへ大きな黒い波動を飛ばした。
「危ない!」
 ピクター老人は咄嗟に子どもたちの前に飛び出し、黒い波動に向かって木の枝の杖を向けた。黒い波動は老人の前で一瞬緑がかった光の壁に衝突し、威力を弱めながら老人と八人の子どもたちを吹き飛ばした。
 散らばるように強く地面に叩きつけられ、子どもたちのうち数人が頭を打った。ピクター老人がすぐに意識を取り戻して体を起こすと、谷は豪雨と兵士たちの叫び声で満ちていた。
「アルベルト! ノーマ! クラウス! ロッテ! アンナ! ハンス! エレノア! シャーリーン!
 みんなどこだ!」
 自分の叫び声が他の音の濁流に呑みこまれてしまう。特にアルベルトとノーマが共に気を失ってしまったのがまずかった。老人が手探りでなおも周りを捜していると、急に瞼の向こうが明るくなる。魔法の玉が高速で空気を突き抜ける時の独特の高音が近くでこだました。照明弾(ライトニング)の打ち上がる音だ。子どもたちの返事はない。


 ラークス中佐と帝国軍の女魔道士の膠着状態を打ち崩したのは遠方からの照明弾(ライトニング)だった。共和国軍の別働隊がついに帝国軍の古代魔法(エンシェント)の出所を突き止めたことを示す狼煙。女魔道士とラークス中佐の横顔を閃光が照らし、顔の半面をあらわにする一方でもう反面を陰影に塗りつぶす。女魔道士の異変に気づいた帝国軍の兵士たちが、今も共和国軍の兵士たちに妨害されながら女魔道士に加勢するべく崖を上りつつある。できれば加勢が来る前に決着をつけたい。
 女魔道士の領域に足を踏みこむ。あからさまな誘いだった。女魔道士は自らの回りに張り巡らせていた水壁の形を解き、崩れ落ちる大量の水の中で短い呪文を詠唱しながら杖を振った。
 孔雀は恐るべき速さで女魔道士めがけて飛び出した。大量の水は地面に落ちる前に無数の鞭になり、孔雀を打ちつけ絡めとろうとぶつかってくる。ラークス中佐はその一本一本をぎりぎりでかいくぐりながら右に左にと透明な蔓の間を舞う。女魔道士が無数の水鞭を絞って中佐を捕らえようとすると、彼は一番広い隙間を最短の距離で外へ跳んだ。
 あと一メートルで刃が胸に届く。一方向に飛ばされた水鞭は女魔道士をガードするようにはできていない。勝負の軍配は水鞭の攻撃をかわしたラークス中佐に上がるはずだった。滑らかな無駄のない動作の中で女魔道士のとび色の瞳がこちらを向く。漆黒の刃が白く柔らかな女の胸へ飛び込んでいく。
 女魔道士はしたたかに、立ちすくまず、逆にラークス中佐に向けて腕を伸ばした。彼女が腕を伸ばしたせいで体の向きが逸れ、ラークス中佐のクナイは心臓ではなく彼女の肩口に刺さった。殺伐とした衝撃と共に両者は互いに抱擁する形になった。
 女魔道士はラークス中佐の肩を抱きかかえながら雨にぬれた唇を動かした。
水柱(メム・サメク)
 二人の立つ足元の魔法陣から真上へ、柱上に一気に水が溢れ出し満ちてゆく。ラークス中佐は瞬時に危険を感じ魔法陣から脱出しようとしたが、全身に降りしきる雨と既に両の足首までを埋めた水の固まりは冷たい鉛のように重く変質していた。自分の足が抜けなくなったのをラークス中佐が確認し、すかさず次のクナイを抜くほんの少しの間に女魔道士はラークス中佐から体を離した。遅滞なく足元の水塊を垂直に上に伸ばして互いの間に薄い水の壁を作り、光る自らの足で魔法陣の上に満ちていく水の柱から外へと躍り出た。ラークス中佐が薄い水の壁に構わず投げたクナイは水の壁を貫通したが、威力を弱められた上に水流で方向を変えられてあさっての方向へと消えた。
 肩を負傷しながら、女魔道士の目にはいささかの油断もなかった。魔法陣の上にみるみる水が溢れ、壁のない水だけの水槽が人間を中に展示しようとせり上がってゆく。膝まで鉛の水に埋まって動かなくなるとラークス中佐は即座に己の両足を切断することを考えたが、切断後の脱出手順を考えているほんの数秒で両腿まで水に埋まった。底なし沼に嵌まる感覚に似ていた。
(下手をすると死ぬな。こりゃア)
 戦闘中に死ぬ。悪くない。美女に殺される。それも悪くない。だが戦闘中に女と戦って殺される。それはちょっと部下や戦友の男たちにしめしがつかないかもしれない。
(あがいてみるかね)
 ラークス中佐は水没しかかった腰のポーチから折りたたみ式の空気筒(シュノーケル)を取り出すとそれを一気に引き伸ばして水柱の外に突き出せるか試みた。筒はすぐに女の召喚した水と雨で詰まり、いくらこちらから吹いても使い物にならなかった。諦めて捨てた。水の柱は胸から首へとせり上がり、最後の息を吸いながら漆黒の帳を透かして相手の女魔道士を見つめるラークス中佐を、頭まで水に沈めた。
 ラークス中佐は巨大な水柱に水没しながらまだ脱出する術を探している。


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