とある環境の良いホスピスに
A氏という爺いがいた。
A氏は、一代で財を成した大金持ちで
口のわるい妻と 二人の息子と 一人の娘と
ついでに軽薄な愛人が二人いた。
A氏は 大金持ちに総して言えることだが
とんでもなくけちで
しかも疑り深く
さらに言うとやたら偉そうなくそ爺いだった。
誰もがA氏のことを長生きすると思っていた。
いつまでも長生きして自分たちの上に
厚かましくのしかかっているのだろうと思っていた。
ある日、A氏はブッ倒れた。
何でも癌が全身にまわっているらしく
彼の代わりに診察室に行った妻は
医者にあと三カ月の命だと言われた。
「なあ、わしはもう長くないんだろ」
「ええ。あんたあと三カ月で死にますよ」
A氏の妻は本当に口がわるかった。
A氏は自分の運命にぶったまげて
「お前はこういう時までくそ婆あで通すんだな」
と、ベッドに倒れ込んだ。
それからというもの
A氏は残りの日々を
遺書づくりにあてることしかしなくなった。
A氏の頭の中は常に財産で一杯なのだ。
A氏は、自分がこれまで築き上げてきた財産を
いかに気に入った人間に渡すか
いかに気に入らない人間に渡さないようにするか
毎日毎日そればかり考えていた。
A氏の妻は真っ先にこう言った。
「私には何を下さるんですの」
その台詞のあまりのろこつさにA氏は腹を立てて
「お前には何もやらん!」
と吐き捨てた。
大金持ちのA氏のことだから
見舞いに来る人はさすがに多かった。
会社の副社長に 幹部たちに 秘書たち
取引先の人々からお抱えの運転手まで
数十年会ってなかった友達や
顔見知りのおでん屋まで来た。
子どもたちや愛人たちはもちろん毎日見舞いに来た。
A氏はそれまで以上にごまをすられた。
こんなにも優しくされたことはなかった。
遺産のうちわけ
子どもたちへ
・預金から五億ずつ
B山C子さんとD川E美さんへ
・預金から一億ずつ
F社へ
・金庫の中の株券および証文全て
おでん屋と運転手へ
・預金から二百万ずつ
…………
「みんなお金ほしさに決まってますよ」
A氏の妻はつめたかった。
A氏はそんな妻にうんざりして
「お前ちょっと黙ってろ」といった。
「私はただあんたの遺産目当ての連中に応対するのが
嫌で嫌でしょうがないだけですよ」
A氏の妻はまだ嫌味を続けようとしたものの
「遺産が欲しいなら黙ってろ」とA氏が言うので
やっと口を閉ざして、林檎をむき始めた。
誰もかれもが豪華なお見舞の品を持ってくるので
食べるものはいくらでもあった。
そのうち、A氏は周りのみんなを疑うようになってきた。
口のわるい妻。
急に優しくなった子どもたち。
ますます抜け目なく甘える愛人たち。
仕事をほったらかして駆けつける部下たち。
それに、へらへらしたその他の人々……。
「どうせ金目当てなんだろ」
嫌な口癖。
もちろん、自分から出たもの。
「そんなことはないですよ」
みんながみんなそう返した。
誰も怒らない。自分のことをボケ老人のように扱う。
そして、もっと遺産をほしがる。
A氏はある日とうとうブチ切れた。
「いい加減にしろ!
どいつもこいつも、そんなに金が欲しいか!
出ていけ! 出ていくんだ――っ!」
病室にいた三人の子どもたちと、二人の愛人。
それと会社の幹部とおでん屋と運転手が
みんな脱兎の如く病室を逃げ出していった。
ただ、A氏の妻だけがそっけない顔で
病室の椅子に座ったままだった。
「お前も遺産目当てか」というA氏の問に
A氏の妻は「遺産は欲しいに決まってます」と答えた。
A氏はかんかんに怒って、半ば涙目で
書いていた遺書を全部破って捨ててしまった。
遺産のうちわけ
・慈善団体に全額寄付致します。
「あんた、私に何かくれませんか」
「ふざけるな! お前には死んでも一円もやらん。
何もやらんぞ。何もやらん……」
A氏はこの頃から、
だんだん体のいたみを抑えられなくなっていた。
あまりのいたみに体をエビのように丸めて
妻に背中を一晩中さすってもらいながら
A氏は自分の人生をのろった。
翌日、また連中はごまを擦りに来た。
A氏が遺書を書き直したとわかると
それは直ちに懇願へと変わった。
「お願いです。実はかくかくしかじかで
どうしてもお金が必要なのです……」
A氏は心臓が急速に衰えていくのを感じていた。
しかし、彼はそれでも腹を立てるしかなかった。
「またか。まだおのれらは諦めぬか。もう決めたぞ……
……決めた。遺産なんか絶対やらん。
お前らが遺産などあてにせんように、わしの財産は
今すぐ慈善団体にまるごとくれてやるわ!!」
翌日、A氏は妻に財産を全て寄付させて
その明細書を持ってこさせた。
ぱったりと、病室には誰も来なくなった。
「なあ」
「何です」
「わしの人生は一体何だったのかなあ」
「金が全てでしたね」
A氏の妻はあっさりとそう言ってのけた。
「お前ならそう言うだろうと思ってたよ」
A氏は一段と老けた姿で妻を眺めて
あたたかいおかゆを食べさせてもらった。
「あんた本当に何も下さらないんですか」
A氏の妻はまだしつこかった。
A氏は、どうしてこんなごうつくばりな妻を持ったのだろうと
思わずにいられなかった。
「何もやらんよ。お前のようなくそ婆あを選んだ
わしが間違いだった」
「何とでも言ってください。わたしはあんたが死んだ後も
生きていかなきゃいけないんですから」
「最後くらいおねだりしたっていいでしょう。
死んでしまったらそれさえできないんですから」
……A氏の妻は、消灯時間になると疲れた体に鞭打って
いつものようにA氏の背中をさすり始める。
A氏はいつも黙ってそれを受けていた。
A氏の妻の手はいつも優しかった。
「それじゃあ借金でもこさえてくれてやろうか」
とA氏が言っても彼女は動じなかった。
「……そうですね。何もないよりましだから、
くれるならもらってあげますよ」
「……じゃあ何もやらん」
「意地悪」
A氏の妻は絶対に泣こうとしなかった。
昔からそういうたちで、泣くのを我慢すると
損なくらい硬くてそっけない顔になってしまう。
A氏はそれをよく知っていた。
知っていたが、「泣いていいぞ」と言っても
妻は意地を張って絶対に泣かないだろうとわかっていたので
何も言わなかった。
翌日から
A氏はまた新しい遺書を書き始めた。
資産はもうなかったけど
A氏にはまだ自分の体があった。
A氏は、最後に名声が欲しくて
(愛はもうこれ以上手に入らないとわかっていたので)
自分の体のまだ使える部分を
困っている人たちに寄付したのだった。
遺産のうちわけ
両足をなくした方へ
・私の両足の組織すべて
両手をなくした方へ
・私の両腕の組織すべて
臓器をなくした方へ
・私の癌に侵されていない内臓すべて
骨や筋肉をなくした方へ
・私の使える骨および筋肉すべて
火傷した方へ
・私の皮膚組織すべて
輸血団体へ
・私の血液すべて
医学研究生の方々へ
・のこりの癌に侵された組織
および 私の脳みそ
「本当に何もかもくれてしまうのね」
A氏の妻は淡々と遺書を見た。
「葬式の手間が省けるだろう」
「骨さえもらえないわ」
A氏はざまあみろといった顔をした。
A氏は もはや起き上がることさえできなくなっていた。
周りの人々は、二人がそれでも
「くそ婆あ」「くそ爺い」と言い合うのを見て
A氏のことをかわいそうに思っていた。
何せA氏もA氏だが
A氏の妻ときたら比べものにならないほど鉄面皮で
笑い顔も泣き顔も一度として見せないのだった。
そうして、ある日A氏は逝った。
家族はちまちまとした葬式代しか出さず
A氏の遺体は遺言通り解体され
結局骨すら残らなかった。
けれど、病院のスタッフたちはそこで初めて
A氏の妻を誤解していたことを知った。
「結局、あのくそ爺いったら何も残さずにくたばりましてね。
明日からどうやって生きていこうか、
そればっかりが心配でしょうがなくて」
A氏の妻は泣いていた。
式の始めから終わりまでずっと泣いていた。
「ご自分の生活の方が心配で泣いておられるんですか?」
「ええ、そうですよ。ふつうそうじゃありませんか」
口のわるいA氏の妻。
天国のA氏は笑っているだろう。
……おやおや、こんな時まで勘違いされるような口しか
きけないのかね……と。
「だってこんなこと書かれたら、
明日からまた元気に生きていけるかなんて、
わからないじゃありませんか。そうでしょう?」
A氏の遺書は妻の涙ですっかりにじんでいた。
A氏の妻は、この遺書を見てから今の今まで
ずっとずっと哀しく泣き続けていたのだった。
誰も欲しがらない遺書。
結局 死ぬまで一人を除いて
誰からも愛されなかったくそ爺いの遺書を、
妻はこれからも大切にとっておくのだろう……。
……
……
私はもう決めたのです。
身内の連中には
役に立つものは塵一つやるまいと。
ですから、残った私自身も
全部他の方々にさしあげます。
こんな私ですがよろしければどうぞつかってください。
そして どうか私という人間がいたことを
心の片隅に覚えていてください。
遺産のうちわけ
両足をなくした方へ
・私の両足の組織すべて
両手をなくした方へ
・私の両腕の組織すべて
臓器をなくした方へ
・私の癌に侵されていない内臓すべて
骨や筋肉をなくした方へ
・私の使える骨および筋肉すべて
火傷した方へ
・私の皮膚組織すべて
輸血団体へ
・私の血液すべて
医学研究生の方々へ
・のこりの癌に侵された組織
および 私の脳みそ
最後に妻へ
・私のこころ
「A氏の遺書」