「多分ね、私の場合は羊水から冷たかったのよ」
何気なく放たれた言葉の内容をくそ真面目に考えてみると、彼女の母親は彼女が生まれる前から死んでいたということになる。もちろん彼女がそんなつもりで言ったわけではないのは知っていたが、どこか納得してしまうものを感じた。
八月の深夜のさなかに羽月の体は無人のプールの中であてどなく浮かんでいる。水着のままちょうど寝転がる感じで虚空を見上げて、腰まで届く黒髪は水の中で蜘蛛の糸のように広がり寄ってくる何者かを絡めとるためにあるようだ。塩素に晒されてわずかに充血した瞳。この夏場なのに不自然に白い肌は、綺麗に水を弾いてなかったら死体のそれとまるで変わらない。
「羽月ちゃんはいつ見ても全然日焼けしてないよね」
「……ずうっと、家にいるから。泳ぎに来るの夜だけだし」
「幽霊みたいだ」
「馬鹿ね」
投げ遣りな調子で耳元を撫でる低音の囁き。
龍彦は無言で笑って肩をすくめた。
榎本 羽月は一言で言えば「おっかない女」だ。並外れた美人にも関わらず寄っていった男がみな病気になってしまうので大学内では有名になっている。病気といっても性病や伝染病の類ではなくて、肺や気管支を患うというのだ。内臓を傷めた輩も多い。
龍彦のようにこわいもの見たさで羽月に寄っていった人間ははたして何人いるのだろうか。絞った真っ黒な髪にバスタオルをかける羽月の手足はさながら白い蜘蛛の手足を彷彿とさせる。手を出したらあっけなく組み敷けるだろうに、それだけでは済まないという静かな警告が全身から滲み出ていた。
「あのさ」
「何」
「羽月ちゃんてモテるよね」
「そう?」
「うん。それで寄ってった男がみんな病弱になるって噂があるんだけれども。……知ってる?」
「ああ……」
そのこと、と羽月には思い当たる節があるようだ。
「何だかみんなそうなってしまうみたいね」
三十メートルおきに蛍光灯の光る夜道を並んで歩いた。二人して白いTシャツと短パンという飾らない姿。安物のサンダルが足の動きに伴ってずりずり規則的に擦れている。
「体質なのよ。私が居ると周りに湿気が集まってくるの。いつも周りがじとじとしているわ」
おかげで水場の近くでなければ暮らせないのだと羽月は言った。早くも彼女のTシャツはうっすらと湿って、下の細すぎる肢体を透かし始めている。空気はそこだけ蒸し暑く、自分の衣服も気がつけば全体的に湿り始めて肌にぴったりとくっついていた。
徐々に二人の間に湿気が増していく感覚というのは、ひょっとしたらそれだけで人の心を惑わせるのかもしれない。つまらない世間話をしながら龍彦は何度も羽月の体を眺めた。羽月のスレンダーな体型は決して龍彦に食指を動かさせる類のものではなかったが、いかんせん肌が今にも濡れそうに艶めかしい。青紫色だった唇も時間を経るにつれ血の気を取り戻してほの赤くなりつつある。
「湿気があるせいよ。体温がいつも下がってしまう」
視線を落としている羽月からはプールの塩素の匂いがする。
自分の体ばかり面白いようにどくどく熱くなる。
「羽月ちゃん。これも噂なんだけど」
龍彦は単刀直入に”頼んだらやらせてくれるって本当?”と尋ねてみた。そういう噂があるのは事実だ。むしろ龍彦などはそちらを目当てに彼女に近づいたようなもので、向こうから見てもはっきりそれとわかるオーラを出しながら話しかけたつもりだった。
「嫌な湾曲の仕方だわね」
家にいると寂しいって言ったら、みんなついてくるんだもの……羽月は肯定もしなければ否定もせず、ふわりと龍彦の前を歩きはじめる。龍彦が黙って後を付いていっても彼女は嫌がらなかった。彼女が少し離れるのを合図に龍彦の周りからはじとじとした空気が消えてゆき、八月の残暑が衣服を少し乾かすのがわかった。
「一晩でも何でも、埋まればいいのよ。寂しいのが埋まればそれで」
ありがちな、くだらない身の上話を聞いた。
この体質のせいで友人ができなかったこと。代わりに痴漢の類や体目当ての男ばかりナメクジのようにまとわりついてくること。両親はそんな自分に一生懸命よくしてくれたが、去年の冬とうとう体を病んで別居した。今はアパートに一人暮らしだという。
「それじゃ一晩だけお邪魔しますよ」
深入りして彼女の境遇を癒せるはずはないし、またその気もない。龍彦は軽い気持ちで傍に寄って羽月の手を握った。羽月の手は火照っている龍彦の手とは対照的に冷たく、湿気を得てぴたりと龍彦の手から熱を吸い取っていった。
結局、それだけなのだ。
体温を分けるだけ。男と女にできることなど。
「一晩だけで済むなら、誰も病気になったりなんかしないのに」
羽月の声は一瞬だけ哀しそうに響いた。
しかしそれはあっという間に押し殺される。龍彦が聞き返そうとして彼女を見ると、羽月の顔はまた綺麗な昆虫のように何も言わなくなってしまっていた。
「病気になった男の人たち、みんな大丈夫だった?」
「あ? ……ああ」
「そう」
うちの両親ね、肺に黴(かび)がふいたの。
私が哀れなのか、出ていっても何度も様子を見に来てしまう。そのうち黴にやられて死ぬような気がする。
「寄ってくる男も増えてきている気がする。止せばいいのに病気気味の体を引きずって来るのよ。もう会わないって言っても来る」
流すような調子で羽月はアパートの鍵を開ける。
じっとりした空気はドアの開閉にもまるで動かず、部屋の中を覗いた龍彦の身体にはわけの分からない汗がぽたりと滴っていた。
黴の匂いが鼻から気管支へ、そして肺へと流れ込んでくる。
闇色のアパートの中には入り口からでも分かるくらい無数の染みができていた。奥にあるクローゼットの上には両親のものとおぼしき写真立てが二つあり、どちらもガラスが湿気で曇りきって雫を垂らしている。中の写真は濡れそぼった挙句に完全に変色し、フレームの金属は錆びきっていた。
「どのみち、私のせいじゃないわ」
羽月の瞳は無感動なまま霞んでいた。彼女は息を呑んで立ちすくんでいる龍彦の首筋を細い腕で絡めとり、そのまま部屋の中へ招き入れて鍵を閉めた。
「一夜の夢」