志摩子が転勤族の親に連れられて東京に引っ越してきたのは、小学校が春休みに入った三月末のことであった。
「向こうに着いたら新しい小学校を見に行こう。どんな学校なんだろうね」
両親は慣れたもので、十年物の白い自家用車で高速道路を飛ばしながら忙しそうにこれからの予定を確認しあう。両親にとって前任地で過ごした二年間などたいした重さもないのかもしれない。志摩子は貝のように口をぴったり閉ざし、窓の外を流れる早回しの映画のような都市を眺めていた。
あの場所を離れたくなかった。
志摩子が二年間住んでいた鹿児島には大好きな友達がたくさんいた。一年中霧灰を降らせ続ける雄大な桜島と、フェリーから見られる藍色の大海原と、灰に傘を差しながら元気いっぱいに遊んだ少女たちの姿と──言えばきりがないが、そのどれもが志摩子にとってなくてはならないものだった。
志摩子の居場所は一年か二年ごとに根こそぎ変わってしまう。我が家はそういう家なのだと受け容れているが、引っ越しが決まると彼女はそのたびにひどい不安と悲しみにさいなまれるのだ。転入して新しい友達ができるまでこれが続く。そして一年か二年かしてやっと関係が安らいだときにいやらしく次の引っ越しが決まる。
物心ついてから五回目の引っ越しにして志摩子はついに行動を起こすことにした。四月から小学校五年生になる彼女には、ようやく己に降りかかる理不尽さの歴史が理解できるようになっていた。
引っ越し先の新居に着いて三日目で、志摩子は自分の缶型貯金箱を切りあけた。五百円玉から一円玉までさまざまな硬貨が溜まっていたのを全部かき集めて自分の財布に入れ、引っ越した時と同じコートを着て家を出る。
「志摩子、新しい学校へ挨拶に行くわよ」
母親が化粧を終えて志摩子の部屋を覗いた時には、志摩子は家から百メートルも離れて近くの駅を目指していた。そのまま電車に乗って鹿児島にまで帰るつもりでいた。
道ゆく人に声をかけ、駅までの道を尋ね、志摩子は駅に着くまで鉄の意志で歩き続けた。駅までは子どもの足で四十分ぐらいかかっただろう。本人にはそれだけでもかなり長い道のりだったと思われる。
「お嬢ちゃん、ごめんね。お金が足りないんだ。子ども料金で東京から鹿児島まで新幹線に乗るんでも八千円以上はかかるよ。お嬢ちゃんの分はほら、三二七九円だ。お年玉の余りも入れたのかな。よく貯めたね」
一生懸命小銭を数えてくれた駅員のすまなそうな一言で志摩子の野望は脆くも崩れ去った。虎の子だった貯金箱の中身が足りないのではこれ以上どうしようもない。もう両親は鹿児島へ自分を連れていってはくれないだろう。大好きだった安住の場所へ帰れないことを痛感させられて、志摩子は思わず泣きだしそうな気持ちになった。
財布を抱きしめて街の中に立ち尽くす。街には昼休みにありついた会社員や労働者の姿があふれ、春の陽射しの中で地元の子どもたちが笑いながらお菓子やファストフードを食べている。眺めていると急にお腹がすいてくる。
志摩子は自分が家への帰り道を知らないことに気づいた。親に探知されることをおそれて、自分が携帯を家に置いてきたことにも。
ここで彼女の顛末を語るにあたって、もう一人ある少年のことを語っておかなければならぬ。彼は志摩子と同い年で、志摩子が向かっている駅の前のコンビニエンスストアで立ち読みをしていた。同じコンビニに置いてある本を読める分はすみずみまで立ち読みし、それでもなお行くあてのない少年だった。
彼はその日も夕方までその場所にいたが、駅前の段差に座って何時間もそのまま路傍を眺める少女の姿はコンビニのガラス越しに浮いて見えていた。大人びた顔立ちは六年生か中学生くらいに見える。午後になっても日が暮れ始めても少女を迎えに来るものはない。少年自身もコンビニの店員にそれとなく声をかけられ、そろそろコンビニを出なければならなくなっていた。
しぶしぶコンビニを出ると、少女は小柄な中年の男に声をかけられていた。いつもの少年なら素通りしてゆく光景だった。少女の顔と雰囲気で解るのだ。あれは親や知り合いの類ではなくて中学生から女子が始めるという大人の男相手の金稼ぎの類だ。少女にはそのつもりが無くても大人にはそれをアテにして女子と遊びたがるやつがいるのだ。少女は中年の男に手をとられ、不潔なものに触ったかのように顔を歪めて後じさりした。
まったくの日常なのだ。それが。少年には泣き喚くチャンスもなければ怒るチャンスもない。学校では何かあった時のために全員の子に警報ブザーを配っていたけどみんなあれはオモチャだと思っていたし、自分の命が危険に晒されるなんて人生に一度あるかないかだ。鳴らすチャンスが無い。
駅の前の少女は要領が悪かった。執拗な男の誘いをうまく振り払うこともできず、「助けて」とも言えないで不安げな顔をしていた。周りの大人や学生たちが気づかないですり抜けていく様を眺めていると、それは何でもないことなのだと思ってしまう。
少年は一瞬自分に腹が立って二人の所へ歩き出した。
「おじさんと一緒に遊ばない? お金の心配はしなくて良いよ」
やっぱりだ。聞けばすぐわかるのに誰も気にすらしてない。少年は少女と中年の横に立ち、携帯のストラップに結びつけてあったブザーの紐をひといきに引き抜いた。
けたたましいブザー音が辺り一帯に鳴り響き人々の視線がいっせいに自分の所へ集まった。
中年の男が慌ててその場を逃げ去ってゆき、少年が紐を戻してブザーを止めると周りの人間たちはそれぞれに自分の中で勝手なストーリーを作り、完結させ、納得してまた自分の道を歩き出すのだった。
「大丈夫?」
少年は少女に声をかけた。少女の名前は志摩子といった。
「ありがとう。うまく断れなくてどうしようかと思ってたの。あなたは?」
「克巳」
克巳と名乗った少年はブザーのついた携帯をポケットに捻じ込みながら、自分が昼間から志摩子の姿を見ていたことを伝えた。志摩子が自分と同じ学年だと知った時にはちょっと驚いた。不安な中にも肝が据わっているというか、堂々としたところのある性格らしい。
「鹿児島に行こうと思ってたの。でもお金が足りなくて」
「鹿児島?」
「引っ越してきたの。おとといの前の日」
志摩子はそわそわと改札口を眺めている。まるで自宅の玄関があの向こうに繋がっているとでも言わんばかりだった。克巳はさっきまでの年上じみたイメージと志摩子の言う計画の幼さのギャップに内心目を白黒させていた。
「電車に乗りたい。行けるかどうかわからないけど、でもとにかく電車に乗らなきゃ絶対鹿児島に帰れないのは確かだわ」
「鹿児島ってどこだっけ」
「すごい遠く。新幹線で八千円以上かかるところ」
「げえ。親に連れてってもらえば」
「無理よ。私は親にここまで連れて来られたんだもの。自分でやらなきゃ、きっと帰れない」
克巳にしてみれば、志摩子が鹿児島に帰れないことはもはや明らかだった。にも関わらず改札口を見据えて動かない志摩子の強さを彼はうらやましく思うと共に、できるところまでは叶えてやりたいなと考えた。
ポケットをまさぐると、百円玉が一枚入っていた。七十円で入場券を買えば電車のホームまでは行けないこともない。
「志摩子はお金いくら持ってるの」
「三二七九円」
「じゃあ、乗っちまえよ。七十円あったら電車には乗れるよ」
「え! 本当?」
「ほんとさ。降りて駅の改札口出るときに金がかかるんだぜ、あれ。だから”改札口からさえ出なければ”電車の続く限りどこまででも行けるよ」
不思議と志摩子の顔にも克巳の顔にも笑顔はなかった。それでも志摩子は可能性に賭けるようで、迷わず入場券を買った。克巳は自分も七十円で入場券を買うと側の売店で十円のチョコをばらばらに三つ買い、ジャンパーのポケットに放り込んだ。
「東京駅ってどうやって行くの」
「上りの電車に乗って、途中で山手線に乗り換えるんだ。緑のラインのやつ」
日の光が空に吸いこまれて消えかかっていた。志摩子と克巳はほとんど喋りもせず、両開き扉の側に立って窓の外や車内のビビッドな彩りの広告などを眺めていた。途中で乗り換えのために電車を降りた。志摩子と克巳は駅の階段を下り、山手線のホームを目指した。
「東京駅についたら鹿児島行きの新幹線で、一番近い駅までの切符を買ったらいいよ。そしたら新幹線の改札を通って鹿児島駅までは行けるんじゃないかと思うんだけど」
「途中で車掌さんが回ってきたりしないかな」
「ああ、そうか。それヤバいかもしんない。そしたらトイレに隠れるとかしたら」
「克巳君は来てくれるの」
「俺は行かない。あんまり遠くまで行くと、帰れなくなるし」
東京駅の新幹線の改札の所まで行ったら、さよならだ。
克巳がそう言うと志摩子は心細い顔になって、うつむいたままステンレスのバーを握った。
「携帯持ってないの?」
「家に置いてきた。私の携帯、持ってたら居場所がわかっちゃうやつだから」
「GPSつきのやつ?」
「そう。もともとあんまり好きじゃなかったんだ。いつも見張られてるみたいで」
克巳と別れて、また一人になった時に志摩子には身を守る術がない。さっきみたいに変なおじさんに声をかけられ付きまとわれたらどうしよう。引っ越してきたばかりの彼女は東京の家の電話番号も知らず、何かあった時に頼れるものがなかった。
山手線に乗ってしばらくすると、克巳は志摩子の様子をうかがって言った。
「志摩子は山手線って知ってる」
「知らない」
「山手線はさ、一つの輪っかの上をぐるぐる周り続ける電車なんだよ。始発も終点もない。だからうっかり一つの駅を乗り過ごしても、そのまま座ってるとぐるっと一周してまた同じ駅に着くんだ」
少年は東京駅から先で少女を守ってやることができない。何事もなく鹿児島へ行くのもどだい無理な話で、彼女は多分新幹線の中でそれを思い知らされるだろう。その時彼女はひとりぼっちで、何も彼女を守ろうとはしないだろう。
少年はどこかで少女を止めなければならなかったが、一方で彼女の気持ちをよくよく理解していた。だから彼は「無理だよ」とも「帰ろう」とも言うことができなかったのだ。
街の上に夜のカーテンがかかり、山手線の車内はいよいよ家路につく大人でぎゅうぎゅう詰めになってくる。液晶画面のアナウンスが東京駅の接近を告げていた。志摩子が人の塊の揺れに耐えて不安げに克巳の姿を捜すと、彼は大人たちに押し潰されながら志摩子の方を見て笑っていた。
東京駅のホームで電車の扉が開き、志摩子は人の群に流され、押し出されるようにして駅のホームに下りた。克巳は電車を降りない。何も言わず、電車の中に留まって志摩子をずっと見ている。
ホームに発車前の電子音が鳴りわたる。
「克巳君、東京だよ。降りないの」
克巳は返事をしない。それは彼にとって一つの賭けのようなものだった。志摩子は混雑する駅のホームで迷った挙句、扉が閉まる直前にもう一度電車の中へ乗り込んでしまった。
地面が大きく一揺れして、電車が進みはじめる。志摩子は後ろへ遠ざかっていく東京駅を見送りながら「ああ」と声にならない声を洩らした。
「何で戻ってきたの」
志摩子が質問するよりはやく克巳がたずねた。
「志摩子は東京駅で降りて新幹線に乗るんだろ。俺と一緒にここに乗ってたらおかしいんじゃない」
少年の目はぬるく、志摩子を責めもしなければいたわりもしない。
「だって克巳君が降りなかったからよ」
「俺はどうせ降りたって改札までしか行かないぜ。だったらさっきあそこで別れたって同じだったじゃないか」
志摩子は言い返すことができなかった。さっき出会ったばかりのこの少年のことを、彼女は知らず頼りにしていたのかもしれぬ。気まずい顔をして志摩子が克巳から目を逸らすと、克巳は僅かな沈黙の後で志摩子から目を逸らして体をバーにもたせかけた。
「いいよ。俺と一緒じゃなきゃ降りて行けないってんなら、何度でも。俺はこの電車で何週でも東京駅まで周り続けてあげる。勇気が出るまで乗ってたらいいよ」
電車の中は適度な空調が保たれドアの開閉にあわせて空気を少しずつ入れ替える。人がまばらになった隙に二人が車内の席に座ると、あとは永遠とも思える時間が流れた。途中で克巳の携帯が鳴り、克巳は志摩子の隣りで電話に出た。どうも克巳の母親が心配して電話をかけてきたようだった。
克巳は「友達といる」と言って適当に母親を言いくるめ電話を切った。
「お母さん?」
「心配ない。いつものことだから。
塾や習い事をしてる奴はこれぐらい遅くたって当たり前だし、うちはどうせどこにいるかわかったって追いかけてこない」
「GPSついてるのそれ」
「ついてるけど、平気だよ。みんな俺が遅く帰るのに慣れてるし」
山手線には、絶えず人が乗りこみどこかで降りていく。志摩子はもう東京駅で降りる気をなくしていた。克巳はぼんやりと志摩子の隣りに座っている。電車はどこまでも止まらずに駅での停車と発車を繰り返し走り続けた。
「終点がないのね。この電車」
「ないよ」
悲鳴をあげるほどひどいことも起こらず、心ときめくようなことも何もない。誰かが必死に自分を追いかけてくることもない。志摩子は克巳のポケットから飛び出ている警報ブザーに目を取られた。けれどそれは、今は引っ張ってはいけないものだった。克巳は自分を見つけなかったらどこへ行くつもりだったのだろう。鳴らしてはいけないブザーをポケットから飛び出させて、一人で街をふらふらしていたのだろうか。
「ごめんね、私のために」
志摩子は自分の母親が心配しているかどうかということより、自分のせいで克巳に迷惑がかかることを済まなく思った。
「かえろうか」
克巳は、志摩子がそう言いだすのを待っていたのに、実際にその言葉を聞くと何ともさびしそうな顔をしてうなずいた。
「環状線」