コーティング・アイビー

 あなたはツタ屋敷を見たことがあるだろうか。洋館づくりの一軒家の外側にツタがびっしりとつるを伸ばして生い茂っていて、まるで建物自体が生き物になりかけているような屋敷のことだ。
 話のはじまりは町の中にある古びた大きな屋敷からだった。その屋敷にいつ人が住んでいたのか今では誰も知らない。特徴的なのはその屋敷のある敷地が表の門の鉄枠に至るまでツタに覆われていることで、学校帰りの子どもたちは口々にその屋敷のことを「おばけ屋敷」と呼んでいた。
 おばけ屋敷。
 ツタ屋敷には硝子の割れた窓がひとつあって、外から見上げるとそこだけが真っ黒な口を開けているように見える。


「それでね、あそこのおばけ屋敷なんだけど、やっぱり出るんだって」
 昼休みの教室の中だった。歌子はお弁当に手をつけながら友達の沙耶香の話を聞いて、彼女の大袈裟な怪談話に箸をとめた。もう中学生なのにこの手の話やうわさ話になると沙耶香は急に夢中になる。
「出るって、何が」
「おばけ。うちの学校でも何人かが見たんだって。おばけ屋敷の塀の前で遊んでいるとさ、ほら、あそこ窓が一つついてるじゃない。あそこに人影が立つんだって」
 あばら家の窓に人影が立つという話は怪談の中では特にありきたりで、歌子は最初その話を沙耶香のでっちあげではないかと思ってしまったほどだった。件のツタ屋敷は歌子も知っている。通学路の途中で毎日あたりまえに通り過ぎる場所で、確かに少し不思議そうではあるけれど慣れてしまえばどうとも思わない建物だった。
「ほんとに幽霊なんか出るの?」
「ほんとだって! 面白そうだよね」
 ツタ屋敷の割れ窓はいつも中が真っ暗で何も見えない。想像していて歌子は少し怖くなった。本当に幽霊がいるなんて思わないけど、知らなくてもいいのにわざわざ人を怖い気持ちにさせる怪談は無い方がいいと思う。
 沙耶香は何にも考えないで楽しそうに話をするし、授業や部活の時間をこなしていると下校時間になってしまう。歌子は今日の帰りもツタ屋敷の前を通って帰らなければならないのに。

 真っ赤な西日の中をあたたかい春風の波が押し寄せ、砂埃を巻き上げながら町中の木々をざわめかせていた。歌子は部活が終わると友達と一緒に学校を出て、そのまま友達と別れて一人になるまでツタ屋敷のことを忘れていた。歩き続けてツタ屋敷が視界に入った時に彼女は久しぶりにその屋敷に注意を向けたのだ。
 ツタ屋敷のある敷地は急速に暮れていく空の中でぶるぶると震えていた。表面にまとわりつく無数のツタの葉が絶えず風をうけて小さく上下する。歌子は屋敷の前で足を止めると、塀越しに二階の割れ窓を見上げた。
 派手に硝子が割れたままの窓の向こうには誰もいない。もう何年も、何十年もあのままなのだろう。あまりにもたくさんのツタが複雑に絡み合って人間の力ではとても中に入れそうになかった。
「やっぱり。誰かがいいかげんな怪談を作っただけだったんだわ」
 試しにしばらくその場で待ってみたが何も起こる気配がない。ときおり砂埃が目に入って痛かった。歌子はハンカチで目元をぬぐいながら塀のツタの葉をもてあそび、何枚か生きた葉をちぎってその鮮やかな緑色や、はしばしの虫食い具合に見入っていた。
「やめて。はっぱをむしらないで」
 風にかき消されそうな奇妙な声が、どこかから聞こえた。男の声なのか女の声なのかもわからない。虫が囁くような声だった。歌子の視線は手元の葉から二階の割れ窓に吸い寄せられた。彼女は思わず息をのんだ。さっきまで何もいなかった窓の中に暗い毛むくじゃらの輪郭が立っていた。
 いや、毛ではない。ツタの葉だ。それは全身をツタの葉に巻きつかれて元の姿を失った、人間の輪郭。
 一瞬のことだった。気がついた時には歌子はその化け物から逃げ出していた。一も二もなくそのツタ屋敷からより遠くへ離れて、一刻も早く安全なお家に帰ること。それしか彼女の頭の中にはなかった。
 歌子は全速力で走り続けて彼方にある自宅の玄関に駆け込み、重いドアを大きな音をたてて一気に閉め、「おかえり」という母親の声を聞いて安心してからやっと思い出したように悲鳴をあげた。

 見てはいけないものを見てしまった。
 歌子は悲鳴をあげた後驚いて飛び出してきた母親に「なんでもないの」と取り繕って、自分が手の中に強くツタの葉を握りしめていたことに気がついた。葉っぱの破れた所から真っ青なツタの葉の汁が自分の掌を染めている。
「きゃあっ!」
 慌ててドアの外に葉っぱを捨て、またドアを固く閉ざす。廊下に鞄を放り投げて慌てて洗面所に手を洗いに行った。
「歌子、一体どうしたの。何かあったの?」
「お、おばけ見た。おばけ」
 いつもはおばけの話など全くしない歌子のことだ。母親は彼女の言っていることがよくわからず不安げに首をかしげていた。洗面所で手を洗う仕草も水をはね散らかしたり石鹸を何度も滑らせ落としたりと落ち着きがない。
「あ! どうしよう」
 歌子は手を洗いながら急に声をあげると、タオルで手を拭いてすぐにポケットの中をまさぐった。歌子は家に着く前のどこかでハンカチを無くしていた。もしかしたらツタ屋敷の前で落としたのかもしれない。あの時自分は目が痛くてハンカチを出したから。
 取りに戻るべきか? とんでもない! 歌子にはとても一人であの場所に戻る勇気がなかった。ハンカチは残念だけどあきらめよう。戻ってあの化け物に出くわしたら今度こそ襲われるかもしれない。自分がハンカチをあきらめてしまう方がよっぽどましだ。
 歌子は二階の自分の部屋でベッドに入ってからもツタ人間のことが気になっていつまでも眠れなかった。真っ暗闇の部屋に立つおどろおどろしい人の形を成したツタの塊。虫の囁くような言葉も、思い出すたびに背中に冷たいものが走る。
 ”はっぱをむしらないで”
 生きているんだ。あのヒトガタが生きていて屋敷を見張っているのか、屋敷中のツタがあのヒトガタと一緒にひと連なりになって生きているのか、どっちだかわからないけれど。
 窓の外には満月が煌々と輝き、町全体がほのかな銀色の光のヴェールで包まれている。歌子は眠ろう眠ろうと自分に言い聞かせ身体を丸めている。やがて眠りの国の妖精が大きな腕で彼女を底のない世界へ抱き下ろしてゆく。

 さて、驚くなかれ。ツタの不思議な出来事は続くのだ。

 きっちり閉めて鍵をかけたはずだった部屋の窓が開いている。真夜中に頬を撫でる風を感じて歌子は目を覚ました。人の気配のない静かな部屋。
 窓側に寝返りを打つと、枕の端にツタの先っぽが伸びていた。辿っていくとつつましい若葉が茎をさかのぼるにつれ青々とした大きな葉の群になり、やがて隙間のあいた窓の外へと続いているのだ。歌子はその先を見ようとした。そして信じられない光景に大きく目を見開いた。
 窓の外に緑のヒトガタが立っていた。目も耳も口もない、ツタの塊の化け物。化け物は緩慢に動いて窓枠に手を掛け、部屋の中に入ろうとしていた。悲鳴が悲鳴にならない。パジャマ姿のままベッドから転げ落ちた歌子は夢中で逃げ出そうとした。
「まって いかないで」
 人間の声とも思えない不調和な音が響く。緑の塊が窓を押し開け厚手とレースのカーテンが夜風で大きく波立つ。腰が抜けて立ち上がれない。四つんばいで逃げまどって部屋の壁にぶつかった歌子が歯をがちがち言わせていると、ツタの塊はなおも彼女に向かってゆっくりと動き続けた。もう駄目だ。出会ったのが運の尽きだった。このまま彼女は化け物に食われてしまうのか。
「いかないで わすれもの」
 ツタの化け物は手の形をした部分を突き出すと、巧妙に先のツタを動かして手の塊の中からたたまれた一枚のハンカチを出した。
 見慣れたチェックの柄。それは歌子のハンカチに間違いなかった。ツタの化け物がハンカチを差し出してぴたりとも動かなくなったので、歌子は歯の鳴りが止まるまでしばらく何が起きたのかわからずにいた。
「……ハンカチ? 届けてくれたの?」
 ツタの化け物は、頭を傾けてうなずいているように見える。おそるおそる歌子がツタのむした手からハンカチを取ると、今度は部屋の真ん中に座り込んでおとなしくしているのだった。よく見るとヒトガタ自体の大きさもそれほど大きくはないようだ。人間の大人の男より一回り小さいくらいだろうか。
 歌子は家族を呼ぼうかと思ったが、しばらく考えて人を呼ぶのをやめた。この顔のない塊はどうも悪い意志は持っていないようだ。帰らないで座っているということは、まだ何かしたいことがあるのだろうか。歌子相手に?
 ツタの塊の前にしゃがみこんで顔のあたりを見上げる。月明かりの下でできる影がさびしそうだった。この世に、こんな風に動くツタが二つとあるだろうか。ひとりぼっちなのかもしれない。わかってあげる努力はした方がいいのかもしれない。
「あのね、ツタさん。聞いて。私怖かったの。ツタって普通群れて動いたりしないものでしょう。だから私、あなたが生きてて動いてるのが怖い。さっきまですごく怖かったわ」
 自分が食べられないで済みそうだとわかってほっとするなり、歌子の瞳に安堵の涙が浮いた。言葉にしながら”生きてて動いているのが怖い”というのは残酷な言い分だと思った。ツタの塊は歌子の言葉を聞くとはっきりとしおれた。
「ごめんね。でも、もう大丈夫。もう怖くないから。ハンカチ届けてくれてどうもありがとう」

 歌子が「ありがとう」と言った直後だった。それまで座ったままうつむいていたツタの塊の顔が内側からほのかな金色の光を放ち、驚く歌子の顔を優しく照らした。
 顔のツタが半分ほどまばらにほどけた。その下に出てきたのは、深緑の髪と目を持つ美しい少年の顔だった。顔以外は明らかにツタがうっそうと生えただけの化け物であるのに、中途半端にのぞいた人間の顔は天使のように嬉しそうに微笑んでいた。
「うれしい。ここに来て良かった」
 ツタの声はもうそれまでの人外の声ではなかった。歌子のクラスメートの中に混ざっていても違和感のなさそうな少年の声だ。歌子は次々と起こる怪現象の前に言葉もなかった。
 ツタ少年は右手の辺りの塊から何本かのツタをするすると伸ばして歌子の手に絡みついた。歌子が竦んで身体を硬くさせているとツタの絡みついた手はまたも黄金の輝きを放ち、緑の塊の腕の部分をほぐした。ツタの塊の下からは徐々に少年のものとおぼしき人間の腕があらわになってきていた。
「怖い?」
「ちょっとだけ。……あなた、一体何者なの。ツタさんなの? それとも人間?」
「ぼくはツタです。でも、ずっと人間にあこがれていた。人間ともっとなかよくなりたいと思ってた」
 手に絡むツタは人間のようには温かくない。でも金色に光っている部分が太陽の光を発しているみたいな暖かさだ。少年の懐っこい瞳を見ていると歌子は自分が夢を見ているような気持ちになった。この不定形な少年のことを、きっと自分以外は誰も知らない。
「ぼくはご先祖様の記憶を持っている。ご先祖様があの家の壁に生えていた時、あの家にいた人間はぼくたちにとても優しくしてくれたんだ。みんなどこかへ行ってしまって家に誰もいなくなってしまっても、ぼくのご先祖様たちはそれを憶えていたんだ」
 人間にあいたくてたまらなかった。
 ツタ屋敷のツタたちが世代を越えてみんなで願い続けていると、ある日ツタたちの中に不思議な力を持った新芽が生まれた。それが少年なのだという。ツタたちはその新芽に自分たちの力を分け与え、力を合わせてひとところに寄せ集まることを覚えた。
「何度か人間のかたちを真似して、窓の中からそっと覗いてみたこともあるんだ。声も真似したんだ。でも一生懸命真似したんだけどみんなぼくを見ると逃げるんだ。ぼくに話しかけてくれたの、きみがはじめてだ」
 ツタの塊は歌子が話しかけたことで急速に知能を増してきていた。生まれたての鳥のひなが初めて見たものを親だと刷り込まれるように、ツタの少年は全身全霊で歌子のことを覚えようとしていた。顔に残っていたツタが一本また一本と落ちて肩の方へよけていく、若々しい肌と草の緑を写した元気のいい髪。眉毛も睫毛も緑なのだ。目の前の少女からまばたきまでも真似をすると、彼は首から上だけ一段と人間らしくなった。
「ツタさん。あなたの頭と片っぽの腕は本当に人間そっくりだけど、まだその姿じゃ人の前に出られないわ。きっとみんなびっくりしてしまうと思う。せめて全部の手足の先を人間そっくりにしなければ」
「手足?」
「そう。手足。たくさんの人間と仲良くなりたいでしょう?」
 歌子の手に絡んでいた金色の光が力を失って消えてゆく。歌子は途中で変化の止まった少年の腕を見た。少年の腕から伸びていたツタの触手は彼女の掌を開放するとまた腕に残ったツタの束の中に退いてゆき、おとなしくなった。
 少年は変化していない方の腕で人間の肉のついた反対側の腕にそっと触った。
「いきなり全部は変われないみたいだ。でも、今日はすごかった。……ぼくはツタだけど、きみはなんていうの」
「歌子」
「ウタコ。ありがとう、ウタコ」
 少年はどこでこんな無垢な笑顔を覚えたのだろう。それとも人間も草も、誰にも教わらずに最初から笑顔を持って生まれてくるのかしら。少年が笑った時、一緒に彼の胸のあたりから小さな光が漏れた。厚い胴体のツタの層の下で彼の心臓が生まれようとしているのか。
 ツタ少年は来たときよりも軽い動きで立ち上がると、入ってきた窓枠を再び乗り越え外へと出ていった。
「ウタコは明日もまた来る?」
「来るって、あのツタ屋敷へ?」
「そう」
「多分、通ると思う。学校の通り道だから」
 この少年は明日以降もあのツタ屋敷で歌子のことを待っているのだ。誰も居ない夜の道を歩き去るツタの塊を見送った後、歌子は眠りながら彼のツタが左手の先に絡む感覚を夢に見た。


 翌朝からの歌子の態度は、昨日の怯えようが嘘のようにしゃんとしていた。あまつさえ淑女の真似までするようになっていた。いつもより繊細に丁寧に顔を洗い、髪をゆっくりと梳かし、制服のブラウスにのりがきいているかどうかを気にした。歌子は色つきのリップクリームを持っていなかったが、代わりに無色のメントール入りのリップクリームをまめに塗ることを忘れなかった。
 通い慣れた通学路がいつもと少し違って見えた。住宅街の屋根に並んで遠くにツタ屋敷の青葉の屋根が見えてくると、胸の鼓動がいつもよりほんの少し早くなっているのを感じた。朝のツタ屋敷は全身の緑からみずみずしい酸素と水分を発散し、日の光に鱗じみた葉っぱを輝かせていた。
 彼女は屋敷の前を通りながら塀のツタに軽くタッチした。
「また、あとでね」
 窓の方を見上げてあっと声をあげそうになった。割れた硝子が光の線を描く向こうに、少年が上半分だけ顔を出して無心にこちらを見ていた。朝は人通りがあるのに他の人間に見つかるというところまで考えが及んでいないのだ。隠れてほしい一心で歌子がうなずくだけうなずくと彼は無邪気にツタが半分巻きついた右手でこちらに手を振った。

 歌子は秘密を持つ少女になったのだった。授業の受け方も友達との遊び方も部活への取り組み方もいつもと何も変わらなかったけれど、ツタ屋敷の少年のことは頑なに胸のうちにしまって誰にも知らせなかった。友達の沙耶香にさえ教えなかった。自分だけがあのツタの塊を知っていて、あの少年と話すことができる。あの少年の奇跡を見ることができる。そのことが少し不安であるのと同時に誇らしかった。
 この先にはきっとあの少年との素敵な日々が待っている。ツタ屋敷はもう以前のように暗くなることはないだろう。あれが何なのか、これからどうなるのか歌子には全く想像がつかない。けど、世界に二つとない恋ができるかもしれない。その予感が少女を一秒ごとに美しくするのだ。

 この後の少女とツタ少年のめくるめく流れる物語については読者諸君の想像に任せるとして、今はとりあえず筆を置くとしよう。


「コーティング・アイビー」 / Mちゃんに捧ぐ

●Novegle対応ページ ◎作者:桔梗鈴◎カテゴリ:現代◎カテゴリ:恋愛◎カテゴリ:FT◎長さ:中短編◎状況:完結済◎ダウンロード◎あらすじ:学校の帰り道にあるツタ屋敷で、少女は割れ窓の中に怪しい輪郭を見る……恋に恋する年頃の少女を描く短編。

Copyright © 1999-2009 桔梗鈴 All rights reserved.
Thank you