俺が当時妙子と二人で住んでいたアパートは線路脇の通りにあって、年中家の周辺に微かな機械油の匂いがしていた。玄関を開けると半分錆びた鉄柵の向こうに同じ木造アパートや古びたテナントが電車道を囲っていて、線路沿いに二十メートルくらい先から定期的に遮断機の音が聞こえてくるような……そんな場所。
「ねえ、あんた今度から名前『麻生伴也』になっちゃうんだけど、いい?」
二間しかないアパートで妙子が何気なくそう言ったのが俺が中学三年のときだ。妙子は十九歳年上の俺のお袋。化粧がけばくて脱色した髪がいつもぱさついている、三十三歳の若いんだか老けてるんだかわからない女だった。
「生活は多分何も変わらないけどさ。いろいろ手続きとか、いろんなとこで正式に母子家庭になるってわけ」
妙子が吸いきったショートピースを潰すのと共にテーブルの上に離婚届が広げられる。俺は何も驚かなかった。ただ、醒めた気持ちの中でとうとう来たかと思っただけ。「勝手にしろよ」とさらりと言ってやるつもりだったのに言えなかったのが自分でも意外ではあったけれど。
「親父は見つかったのかよ」
「うん。次会ったらやめにするよ」
あたしもちゃんとした家庭欲しかったのにな……。
子どもが憧れていた玩具を諦めるみたいな言い方で妙子は二箱目のショートピースを咥える。厚めの唇にのってるルージュの赤さとかマニキュアの濃さは一体誰のためにやっているのかとよく思う。その下品で挑発的な身なりでいつも外へ出ながら、彼女はとうとうあの男以外の人間を家へ連れてこなかった。考えてみたらもう十四年も経っているのに、妙子は俺の父親の他に男なんか作らない。
「だってあんたが傷つくでしょう」
何で男を作らないのかと訊いたらあっさりそんな声が返ってきた。息子が母親にする質問じゃないだろうと大笑いされて、俺は自分が何でそんな馬鹿な質問をしたんだろうと恥ずかしさの中で思いきり後悔したものだ。妙子の矛盾は俺が物心ついた時から今の今までずっと続いている。いでたちだけはけばけばしくて、でも他の所は質素で。年月が積もれば積もるほど俺にはそれが哀しくなってゆく。
蛍光灯がきちんとついているのに、部屋の中が外の夜より暗い。テレビの歌番組をぼんやり見ていた。テレビの中は何をしていても明るいから好きだ。
「伴也、あのさあ、ごめんね」
煙草の煙と一緒に聞き流した言葉。真面目に聞いていたら本気で落ち込んでしまうから、俺は答えを返さなかった。
中学二年の時、まだそいつの居場所を知らない妙子に内緒で俺は哲也に会いに行ったことがあった。哲也は妙子より四つ年上で俺によく似た男だ。痩せ狼から誇りを剥ぎ取ってドブ水をしこたま飲ませたような面をしているが、あの顔にだけは似たくなくて俺は何度も自分の顔を呪った。俺の生物学上の父親だ。哲也は。
成長すればするほど残酷にもあいつに似てくる自分の容姿には恐怖をおぼえる。少しずつ子どもらしさを捨て去っていく俺の顔は、あいつによく似た締まり方をしてくるんだ。
哲也はありふれた貧乏アパートに天気のいい昼間から篭って全身をどっぷり煙草の毒に漬からせていた。腐りかけたドアを開けた時のすえた臭いと、まとわりつくような部屋の色と、あの尖った冷たい目つきは今でも忘れない。
ただ敵を拒絶する古狼の目。
俺は、もしかしたら優しい父親を求めていたかもしれないのに、その目を見た瞬間に哲也のことを”敵と見なした”。
「誰だ、お前」
「あんたの息子だよ」
隙を見せたら迷わず噛み殺されそうな気がして、とても閉ざした心を開く気にはなれなかった。あいつと同じで俺の目はきっと尖っていた。その刺すような眼光が親子でなければ成しえないほどよく似ていて、哲也も俺もそれがたまらなく嫌だったんだろう。
哲也はいまいましそうに目を細めて、険悪な仕草で煙草の煙を俺の顔に吹きかけた。
「誰か探しにでも来たのか。ガキ」
――ああ。俺は父親を探しに来たんだよ。
でも見失った。
「お袋に金せびるのいい加減止めろ」
哲也は妙子に金をせびりに来て、俺の憎しみのまなざしを無視して、妙子が稼いだなけなしの金を最初から自分のものみたいに持っていく。間男のように妙子に絡みついて、苦い毒でとろかして上手い具合に金を搾り取るのだ。俺が金を盗りに来るなと言った後もあいつは金に困るたびにそ知らぬ顔で妙子の所へやってきた。妙子は哲也に対してだけは弱い。その弱いところを哲也に突かれるとすぐに崩れてあいつの言うなりになってしまう。
次にあいつが妙子といるのを見たのは中学二年の秋だ。学校から帰ってきてボロアパートの戸を開けると足元に見慣れない男物のエナメル靴が見えて、開けるのをためらった。妙にしんとしていたのを覚えている。都合二・三回くらい俺の後ろで電車が通過した音を聞いたような気がした。
たまたま噛んでいたクールミントのガムの味が現実との不協和音を作り上げていた。
哲也が部屋の中で妙子を抱きしめて、脱がせにかかっていた。耳元で何を囁いているのか解らない。多分妙子を泣かすようなことだ。そのままなし崩しに押し倒して、妙子のパンツをむしり取ったかと思うと自分もスラックス一式を下ろして妙子の股の間に割って入っていった。俺と同じ尖った瞳と狼の顔。薄暗い部屋の中で下半身だけの肉が規則的にぶつかり合っている。女の嬌声。
切り離された時間の中で、凍りついたままその行為を見つめていた。
妙子は激しく攻撃されながら苦しそうに泣き続けていた。やがて哲也が全てを終えてスラックスを履き、タンスから金を持ち出したのが見えた。奴がドアを開けた所で俺たちははち合わせした。
俺は、今起きたことを理解しようとした。
何も言えずに哲也の顔を見た。俺の全身からはすっかり血の気が引いていて、胸は言葉にならない混乱で埋め尽くされていた。
「覗いてやがったのか。何てガキだ!」
顔を殴られて、アパートの廊下の鉄柵に背中が軋むほど叩きつけられた。膝が折れてその場にしりもちをついた後放心状態で立てなかった。妙子が乱れた服装のまま外に出てきて「お金はあげるから帰って」と叫んでいた。哲也は妙子が俺に構ったことを責めながら巻き上げた数万を懐に入れてそそくさと帰っていく。
「……伴也」
口の中が苦い。鉄を含んだような味だ。口の中の異物を吐き出すとクールミントのガムに唾液と血が混ざっていた。
「口の中が切れた」
途端に、ひどい吐き気がした。何かが根こそぎ崩壊していく音がして、吐き気をこらえながらどうしてこんなことにと何度も思った。
俺は死んでも許さねえ。認めねえ。
「そんなこと言わないでよ」
妙子は服を乱したままめちゃめちゃに取り乱して俺の肩を掴む。なだめすかすような瞳と声が俺の混乱した胸をつつく。
「可哀想な人なの。誰かがわかってあげないとあの人本当に駄目になる。ね、わかって。あんたのたった一人のお父さんなんだから」
あんた、お父さんに本当にそっくりよ……。
すがるように、俺を愛人のように抱きしめた腕をあいつから受け継いだ目が見透かす。全身で感じる忌まわしい血のきずなに俺の自我がうんと目を見開いているのがわかった。
間違いない。あいつは俺の中にいる。
「俺の前であいつを”お父さん”呼ばわりするな。あいつと俺を似てるって言うな。二度と」
イカれてる。
直そうとしてとっかかりを探しても周りの全てがイカれてしまっていることに何度も気づかされるだけ。
「いい加減気づけよ。あんたまだあいつと俺と三人で暮らせるとでも思ってんのか。絵に描いたような、普通の家庭がいつか手に入るとでも?」
暴走する自分を抑えることができなくなっていた。狂気の虫どもがデリケートな心をささくれ立った素足で踏み荒らしてゆく。衝動にかられてどんどん全力で叫びだす体。軋む骨。逆立つ全身の毛。
「俺とあいつとは無理だ。居るだけで憎み合うんだから。てめえのガキにこんなこと言わすなよ」
妙子の顔を言葉で蹴っ飛ばし踏みにじった。妙子の顔はそれまでの彼女の人生ごとぐしゃぐしゃに潰されて、涙が汚ならしく顔を覆ってる。
「……母さんのせいなの……?」
だって、あんたのためだもん。
まだ胸がはだけたまんまだ。パンツだって履いてない。
「俺のせいにすんなよ!!」
悲鳴じみた声だと醒めた目で自分を見てる俺の前で、俺は親父と同じようにドアを蹴り飛ばしてその場を逃げ出す。口の中にクールミントと血の匂いが残ってる。どこまで逃げる気か訊いてみたって答えはない。目の前に何か見える限り走ってる。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして
足が地面を踏むたびに心が同じ言葉を叫び続けるんだ。叫べば叫ぶほど言葉が激しく熱を帯びてきて止まらない。
途中で突き飛ばした人間たち。赤の他人、知り合い、友人たち。全部から逃げ出した。確か途中で知り合いのおっさんが腕を掴んだと思うけど。
「伴也、どうした?」
「おれのせいじゃない」
困惑するおっさんの手を怯えながら必死で振り切る。もう一人の俺が俺を後ろから指差して犯罪者のようだとせせら笑ってる声がする。会う人みんながその眼で俺を責めるから、誰もいない場所へ逃げなきゃいけないと思っていた。
そのおっさんは川まで追いかけてきて、もう一度俺の腕を掴んだんだ。
「どうしたんだよ、おい! 大丈夫か」
小さい頃から知ってる、近所のおっさん。
「おれのせいじゃない」
よほど怯えた顔をしてたんだろう。おっさんは俺が腕を振り乱しても、今度は腕を放さなかった。俺の足が自然に動きを遅くして止まるまで。
「何かあったのか」
「俺は、……俺はただ」
頭を抱えて狂気で叫びそうなのをこらえていた。自分で紡いだ言葉の続きが出なくて、小さく小さくその場にうずくまってしまう。
震えてる。どうして俺は
どうして俺はこんなに弱いんだろう。
誰にも言えない記憶はそのまま俺の胸の中で暴れて、心臓や内臓をえぐっていく。俺が暗闇の中で一人壁を作って閉じこもっているとおっさんは何も言わずに俺の横に座って、そのままそこにいてくれた。
「言いたくなきゃ、言わねえでいいさ。――おばさん元気か」
何も喋りたくない。
「俺もな、母親を亡くした娘と二人暮しだからよ、おばさんの苦労とかちっとは解るんだよな。娘を面倒見れねえ時に預かっててもらったこともある。おめえのことも他人にゃ思えねえしな。
生きてりゃ、そういうこともある。喋れないことが」
言えない記憶にのたうちまわる日がいつか来て、みんな誰にも言えないでのたうちまわって、苦しんでる。癒したり慰めたりすることはできても、それ以上のことはできない。人間は弱い生き物だから。
「だからまあ、俺はこうしてお前の横で座るだけだよ。とりあえずお前に家まで歩けるだけの気力をやれればいいなと思ってな。
とりあえず。とりあえずな。
その程度しかしてやれないけど、それを何回繰り返してやれるかってことが結局愛とかそういう話に繋がっていくんだろうなあ。俺も女房が生きてるうちに気づいてやれればよかったんだけどな。その辺、残酷だったな」
愛とかそんなものはきれいな場所から拾ってくるもんじゃない。愛は血とか狂気の中に落ちていて、拾いにくる哀れな人間たちを実は無機質にあざ笑っているんだ……俺は、そう思う。
「強くなりたい」
俺の小さな呟きにおっさんははたと口を止めた。
「……こんなことを、喋ること自体、俺が弱いって認めてるみたいで嫌だ。弱いって認めたらみんな壊れてしまいそうで」
妙子の悲しそうな顔とか、意外と善良で心を洗う日常の欠片とか。何一つ自分の力では守れなかったという、事実。何を守りたいのかは見えているのにこのイカれた日常はすぐにそれを見失わせる。世界は人間のことをいいやつだと言うけれど、少なくとも俺だけは違う。
「自分を守ることばっかりだ。他に気を回してる余裕が無いんだよ。卑しくて、小さくて、小さくてさ。そんな俺が嫌だ」
もっと力強く日常を歩いていける足が欲しい。
「何で俺はこんなに余裕が無いんだろう」
クールミントのガムを新しく噛みなおした。劣化した血の匂いがミントの味にかき消され、舌にすこしだけじんと響いた。
「なあに。必死で生きるってことは、そういうことだろ」
気にすんなよと俺の背中を叩いてくれたおっさんの手。こんな人が俺の親父だったら良かったのにと、少し思った。
帰ってみるとアパートはそれまでの事件が嘘のようにもとどおりの日常をまとっていて、ガスコンロの前で服を直した妙子が夕飯の煮物を作っていた。ただいまは言わない。無言だ。いつも。そうして四畳半の漆喰の壁に、楽しくもない面で座ってる。
日常は何も変わらない。それの変化はとてもゆるやかで、自分で変えていける場所は小さく限られている、けど。
「帰ってきたら”ただいま”は言いなさい」
妙子はいつもそういうことを注意してくる。
「あんた、”お父さん”とは本当に一緒に暮らせないのね?」
「ああ」
「そう。……わかった」
とてもゆっくりした口調だった。妙子は鍋の前で何かを受け止めるように目をつぶり、短く溜め息をついた。
それから冬が来て、春が来て、俺は中学三年になった。俺はあとからあとから湧きあがってくる様々な感情を自分への筋トレにぶつけるようになり、妙子はある日大量の金と離婚届を持って俺に付き合えと言ってきた。最後は家族全員の合意で別れようということだった。
「伴也、あんた新しいお父さん欲しい?」
「別に」
妙子はもの凄く気合の入ったメイクをして、身体のあちこちを装飾品で飾りつけ、玄関のところでハイヒールの色を選んでいる。好きな赤色のハイヒールか黒のハイヒールかを迷っているようだ。
「あいつ以外に惚れた男ができたんなら、勝手に結婚でも何でもしろよ。まだ”俺のため”とか言うようだったらいい加減出てくぜ」
「うん、そうだね。いつかいい人ができたら。どうも一生無理な気もするけどねぇ。男はちょっと、こりごりだわ」
あんただけでいいや……綺麗な黒のハイヒール。
「お父さんもねえ」
「止めろ」
「……あの人もねえ、昔はきれいな顔してたのよ。すねた顔がいつもすごく寂しそうで、でもそれを知られるのをとても怖がってた。弱かったのね。この人なら一緒に堕ちていってもいいやって思えるくらい、可哀想なふるえ方。今はもうやけっぱちになってしまっているけれど、中身は変わらない」
これでもう誰もあの人を助けてあげられないね。
十四年間虐げられてきて、不条理に金取られて体を貪られ続けてきてなお妙子はそんなことを言う。どうして俺のように憎しみだけにとどまらないのか俺には不思議でならなかったし、それはそれでお互いに憎み合う両親を持つよりマシだったのかなと、思う。
「でも、おしまいにしなきゃね。これ以上あんたを犠牲にできない」
何を今更って感じだよねと自嘲する妙子に返す言葉がない。うつむいて歩きながらポケットを探るとクールミントのガムが手にあたる。あの時と同じだ。黒味がかった青と黄金色のペンギンのパッケージを見ていると、イカれた日常の中に凛とした一筋の清涼感をおぼえた。
「なあ、ペンギン、いるだろ」
妙子が唐突な俺の話に目で疑問符を飛ばす。
「ペンギンだよ。何で羽根があんのに空飛べないんだろう、あれは?」
「太ってるからでしょ」
氷海の中を群れて飛ぶ鳥。一生を何度も吹雪の中で耐えて生きる鳥。そのくせ滑稽なくらいにユーモラスな体の流線型。それくらい自然に生きていけたら、案外人間というのも満足して、同じようにゆるやかに太ってしまうのかもしれない。
いつか見たあの貧乏アパートの前で話し合いは行われた。不健康に痩せた哲也は妙子が切り出した離婚話になかなか乗ろうとしなかった。哲也としては都合のいい金づるを失うんだから当然だろう。焦ってる本心を隠しながらいつものように妙子をなだめすかしにかかる姿を見ると反吐が出る。
「なぁ、頼むよ。俺も性根入れなおすから」
ずっと見続けてきた暴力的な態度から掌を返したように豹変する哲也の顔。奴がその裏で狡猾に笑っているのが同じ目を持った俺にはよく視えた。妙子は同じ目を持っていないから、それが見えない。見えないから信じようとするのだろう……彼女の態度は硬化したものから徐々にぐらついている。
俺は途中で二人の間に割って入った。
「いい加減にしろよ」
だらしのない親を持ったもんだ。口癖になるほど「いい加減にしろ」と繰り返している俺がいる。
「何だお前」
哲也の目は北国の狼のようだ。今はまだ幼い俺の目をずる賢くねめ回して、見えない牙を剥きながら笑ってる。
”伴也。強くならなきゃあ、駄目なんだ。弱ければ全てを奪われるんだぜ。この乾いたすがたが本当の家族のすがただ──隙があれば喰らい合うのが親子だ。隙があれば喰らい合うのが人間だ。この世界に子どもなんてものは存在しない。お前や俺の子ども時代なんてものは、母親の腹から生まれ落ちた瞬間に終わったんだ”
親子だなんて事実はチリほどにも役に立たない。非情の闘いができない狼は、たとえ家族であっても牙を剥くことのできない狼は喰われて死ね──俺が親父から受け取った無形のメッセージの中でたった一つ了承したこと。
「伴也、父さんと遊びにでも行くか」
「二度と俺の前でそんな台詞を吐くな」
哲也が静かに眉を寄せて冷たい目で俺を見ているのがわかった。父親としての自分を見透かす俺の目をこの男が認めたことなど、多分一度もない。これからもないだろう。俺も。
妙子を背中で守るようにして、そのまま視線をぶつけ威嚇した。威圧的な相手に負けないように全神経を目にこめていた。そんな風に必死になっている俺を哲也は鼻であざ笑う。
「俺の息子に遊ぼうと言って何が悪いんだ?」
そうやって、人生のうち何回あるかもわからん奇跡さえ拒むのか。
「十五年放っといたのがいけなかったのか。だから、十五年目に俺が勇気を出して歩み寄っても無駄だったってことか。悲しいねえ」
それが父親の口調だと言う奴がいたら、俺は耳を疑う。妙子を追い詰めるときと何も変わってやしなかった。相手に責任をなすりつけてそ知らぬ顔でなじり、いたぶり尽くす口調。
「伴也。母さん悲しませるの、もうやめろよ」
この男は人の隙間に忍び込む術を心得ている。体の隙間から入ってきた哲也の手が内臓を直に掴んでいるような気がして、俺は思わずうめき声を漏らしそうになった。
「俺は、いつだって戻っていいんだ。ただお前が俺のこと嫌だって言うんだもんな。お前が全部ぶちこわすのな……せっかく戻ってやるって言ってるのにな。
伴也は父さん嫌いか。そうだろうな。でも母さんは好きだろ? 父さんが母さんを愛さなかったらお前は存在しなかったんだからな。
逃れられないよ。俺の血からは」
いかにも、俺が悪いみたいに。ここで俺が奴を拒んだら大切なものを取り戻すチャンスは二度とないと思わせるみたいに。あたかも俺のせいでそうなるみたいに。
「もう一度家族やり直そう。な」
俺が許したって、俺の欲しかったものをこいつが与えてくれるはずがないのに。だってこいつは永久に俺たちを裏切り続けるんだから。
「それがあんたのやり口かよ」
親父に向かってそんな台詞しか吐けなかった俺の方が悪者みたいじゃないか。哲也は哀しい目をしない。こんな時でさえ。ただ俺に本当のことを言われて、舌打ちするだけだ。
「最後に親の愛を捨てるのはいつだってお前だよ」
俺の一番醜い内面をこの男は知っている。哲也の言葉は胸を突き刺して身も心も奥深くまで抉り抜いていった。
「お前は人の愛を受け取れないんだな。永遠に」
顔のつくり。表情。背格好。心の在り方。何もかもがあいつに似たものになってゆく。妙子と俺を捨て、たまに現われれば暴力を振るい、働きもしないで暗いボロアパートに引きこもってる。夢も希望もなくあるのは卑屈さと恨みだけ。とっくに人生の終わっているいびつな男。
鏡を見るたびに恐怖と自己嫌悪に陥りながら、どこかでそれをあいつとの唯一の絆だと思い込もうとしている自分がいた。
違う。俺はあいつに似るために生まれてきたんじゃない。
強くなりたい。俺はこんな男のために壊れていきたくない。
激しい平手打ちの音がした。俺が躊躇した一瞬の間に、妙子が肩を震わせながら哲也の頬を張り飛ばしていた。
「もういい。あんたなんかいらない。
あんた伴也にそんなこと言う資格があると思ってンの!? 親なら謝んなさい。そこに土下座して謝りなさい。そしたらあたしも一緒に土下座して伴也にあんたのこと頼んであげるから。てめえの女にこんなこと言わすんじゃないよ、このろくでなし!!」
正直、俺はその場できょとんとしてしまった。
だってそうだろう。そんなものを望んだことはなかったから。妙子の弱さを知っている俺にそんなものを望むことはできなかったのだから。
狼は親父と俺だけじゃなかった。なるべくして母親は牙を剥き、吼えた。哲也の目の端が引き攣る。
「何してんだコラァ!」
哲也がいきなり妙子の顔を殴り、よろめいた妙子の髪を掴み潰してさらに殴ろうとする。妙子の目は燃えたまま哲也を睨みつけている。両手が哲也の腕を外させようと真っ赤な爪を立てる。俺は哲也を弾き飛ばすくらいの勢いで哲也の胴にぶつかっていった。ぶつかった時の衝撃で妙子の髪を掴んだ手が外れ、妙子が一歩外へ逃れた直後に俺はしたたかに脇腹を殴られた。
膝をつきそうになった俺を庇う身体があった。妙子は、哲也の前に立って叫んでいた。
「伴也はあんたみたいにはさせない……伴也はあんたの子だけど、でもあたしの子だ! あたしのたったひとりの子どもだッ!! この子だけは、この子だけはあんたみたいな可哀想なろくでなしにしちゃいけないんだ!!」
「っザケんなッ!!」
哲也は逆上して止まらなくなっていた。言葉の代わりに暴力でものを言う。妙子がはたき飛ばされ容赦なく俺の腹に飛んできた哲也の膝を俺が受け止める。俺は返しで哲也の身体を掴み顔面に頭突きをあびせた。哲也の呻きと鼻だか歯だかが潰れる音がした。頭を離すときに血と涎の雫がひらめいた。
「伴也は絶対にあんたみたいにはならない! 絶対に!! 絶対にさせないッ!!」
妙子が転がったままハイヒールを脱いで起きざま哲也に投げつける。互いに頭を殴り内臓を狙って蹴りを入れる。もみくちゃになるたびにアスファルトの地面に俺たちの皮膚が擦れ、削り取られて血にまみれた肉を露出させる。
家族三人で殺し合いだった。父が子の顔を踏み潰そうとし、母が父の首筋を噛みちぎろうとし、子が父の首を絞めようとしていた。俺にとって家族とは三匹の獣に他ならない。それぞれが生き延びるために家族を家族とも思わずに、牙を剥く。その点においてのみ平等であり、それだけが唯一の三人の共通項だった。
ぎりぎり余力を残して俺と妙子が哲也の身体を捻じ伏せた後も、哲也は断固として離婚届に名前を書こうとはしなかった。裁判になれば慰謝料を払うことになる分だけ不利になるぞと脅しても聞き入れず、俺たちが手切れ金を置いて立ち去るまで一切の従順を拒否した。それは頭を冷やした後に妙子の情が再び傾くのを狙っていたのか、単純にこの男の最後の執着だったのか。
もう冷たくない空っ風。強くなり始めた陽射しが肌を焼き、服に隠れた打ち身までも温める。帰り道の歩道の上で妙子は折れた黒いハイヒールを持ち、素足に破れたストッキングでぺたぺた歩きながらやっぱりショートピースを咥えていた。
「思ったよりあっけなかったわね。あんたのおかげだわ。ありがとね」
顔にでっかい青あざをこしらえて、歩き方も微妙におかしいままだ。訊いてみると足を挫いたのだと言った。骨を折られなかっただけましだと笑っている。
「肩貸すぜ」
「いいわよォあんたボコボコだし。別に死にゃしないわよ」
俺自身も唇が黒いタラコのように膨れ上がり、殴られて鼻血が出た鼻に紙をつめている。全身痣と擦り傷だらけになった。内臓を打たれたせいで吐き気がする。左肩が打撲のせいで腫れあがって上がらない。
歩き歩き、途中で足を引きずる妙子を待ちながら歩道脇の雑草にぼんやり目を奪われた。冬の間に落ちた枯れ葉の下から真っ青な新芽が一気に天を衝く。植物はどうしてああも鮮やかに死と再生を繰り返せるのかと思う。
――いや、俺たちだけだ。俺たちの小さな死とか再生だけが圧倒的な日常の中で、見えにくい。
「伴也」
物思いにふけっていた俺を妙子が呼びとめた。裸足でショートピースの火が潰せないから、代わりに踏み潰せだと。そんなこと自分でやりゃあいいのに。
「息子に甘えんのもほどほどにしろよ」
「いいじゃん別に。あんたが出てくまであと何年もないかもしれないしさ。そしたらあたしは一人で生きてくんだもの。今のうちに元取っとくわ」
あっけらかんとした年増猫みたいな笑顔。
淋しい台詞をどうして今俺に投げつけるのかと思う。妙子の台詞は、時々ものすごく淋しい。親としてとてもいい点はつけられないと思いつつ、俺は戻ってきて歩道の上に落ちた煙草の火を潰した。
「ごめんね」
「……別に」
何度も同じことをやらされてはかなわないので、クールミントのガムを妙子に勧めた。
「食えば」
妙子は俺から突き出された板ガムの先っぽに少し驚いたようだったが、すぐに一枚を取って包装を剥がし、口に入れた。
「いいわねこれ。スーッとして」
暖かい通りの中で、遠くを歩いている通行人が俺たちのことを不思議そうに見ているのが見える。痣だらけでお水っぽい派手な衣装のままガムを噛んでいる母親と、その横で同じように痣だらけになりながら黙々とガムを噛んでいる息子。
「また夏が来るわね」
妙子はそのまま裸足で歩き出す。
背筋をしゃんと張って、男に媚びない女の歩き方で。体にじゃらじゃらとまとったゴールドのアクセサリーがみな春の終わりの陽光に輝いていてとても綺麗だった。
俺はそんな彼女の姿を見ながら後を守るように歩く。情けない歩き方をしないように顔を上げて背筋を伸ばすと、真っ直ぐになった背中からまた一つ幼さが剥がれ落ちていくのを感じた。
「日常という名のエレジー」