蓬莱軒の身篭っていた女房が仕事中に店の中で倒れたのは、五月も末の小寒い日だった。前日より急に気温が下がった日などはラーメンがよく売れる。その日も亭主は開店時から鍋の湯気にまみれ、店内をきりきり舞いする女房の注文に答えながら中華料理の作りどおしだった。
女房は妊娠七ヶ月。小柄で蟻んこのようにきびきび働く女だった。そろそろアルバイトの一人も雇えば良かったのに、蓬莱軒の亭主は人件費をけちってまだこの女房を朝から晩まできりきり舞いさせていた。身体がでかく気もいいがけちで知れた亭主だ。女房が貧血を起こして倒れた時に真っ先に気づいたのもこの亭主だったが、女房が倒れるまで店の経営と料理のことしか考えてなかったのもこの亭主だった。
「おい、千恵子。──千恵子!」
店の常連たちが手を止めて床に倒れた女房の方を振り返り、亭主が料理を作りかけのまま放ったらかしてカウンターから飛び出してくる。亭主がいくら女房を抱き寄せ声を大にして呼びかけても、女房の意識は戻らなかった。
「おやじさん、救急車呼んだほうがいい。今呼んでやるから」
常連のサラリーマンが携帯電話で救急車を呼ぶ。厨房から麺を茹でっ放しの鍋が夥しい蒸気を放ち、餃子が火にかけられたまま焦げてゆく臭いがする。女房はやがて店の前にかけつけた救急車に一人で乗せられ、病院へと運ばれていった。
女房が倒れた時に店にいた常連の一人が翌日心配になって蓬莱軒に行くと、蓬莱軒は女房の代わりに臨時のアルバイトを入れて通常通り営業していた。亭主は味こそ美味な料理を出したが、開店時から閉店するまでとうとう一度も暗い顔を変えなかった。女房は連れていかれた先の病院で流産していた。
三日ほど同じ状態が続き、四日目の朝。
蓬莱軒は朝方入り口に亭主が張り紙を張ったきり、一日開店しなかった。
『まことに申し訳ありませんが手前共の都合により一時休業させて頂きます』
事件を知る常連たちは店主夫婦の身を案じてまめに店を訪れていたが、張り紙を見るとさすがに引き戸を開けて中に入ろうとはしなかった。一日が静かに過ぎ、何人もの常連たちが店の前を通っては黙ってその場を通り過ぎていった。
五日目はしのつく雨の日だった。
店の前を通り過ぎた小学生の少年が、閉ざされた引き戸の中から何かの陶器が割れるくぐもった音を聞いた。陶器の割れる音は一時間か二時間に一度、定期的に店の中から聞こえた。何人もの常連が破壊音を聞いたが、一時間以上その場に留まっていた人間もいなければ引き戸を開けた人間もいなかったので、誰も破壊が繰り返し起こっていることには気づかなかった。
六日目は土曜日。相変わらず雨だった。
昨日最初に陶器の割れる音を聞いた少年が、またしても朝から同じ音を聞き、店の前で立ち止まった。
店の引き戸の隙間から腐りかけた生ゴミの臭いが鼻をつく。二日間口を閉ざしたままの引き戸に、休業の張り紙が雨でふやけて剥がれかけていた。
蓬莱軒の中で今まさに何かが起こっていた。少年は蓬莱軒のラーメンを一度しか食べたことがなかったが、学校の行き帰りのたびに蓬莱軒から流れてくる料理の匂いにいつも腹をすかせられていた。中華料理屋から流れ出る異様なすえた臭いは霧雨とあいまって少年に凶事を予感させる。
立ち尽くしていると、少年の脇に常連の三十代ほどの男が立った。彼は蓬莱軒の女房が倒れた時にも救急車を呼び、そのあとも店のことを気にかけていた。
少年は勇気を出して知らない男に話しかけた。
「あの」
「……ん?」
「このラーメン屋さん、中から変な臭いがしてる」
少年に言われて常連の男もすぐに異常に気づいた。二人ともその場を立ち去ることもできず、かといってそれ以上何か言うこともできない。
もうしばらくすると違う常連の四十路男が店のほうに様子を見に来た。常連同士顔見知りだった三十路男が四十路男に異臭の話をすると、四十路男は眉をしかめて店の軒先を見た。
「ちょっと覗いてみたほうがいいんじゃないか」
「やっぱり見たほうがいいかねえ。これ、なんかが腐ってる臭いだよね」
「お皿が割れる音もしたんです。ぼく昨日もお皿が割れる音を聞いた」
「俺も昨日聞いたぞ。今日も音したのか」
三人の常連たちはそれぞれ顔を見合わせた。やがて三十路男がおそるおそる店の引き戸に手をかけ、引き戸を動かしてみる。引き戸には鍵がかかっていた。
中からヒステリックな女の声がした。
「あんた。鍵開けてよ。開けてよッ!」
蓬莱軒の女房の声だった。常連の男たちがいつも聞いていた元気な声とはかけ離れた割れた声。三人は息を詰めて蓬莱軒の引き戸を見守った。
しばらくして、鍵の開く音がした。引き戸は五センチほど開き、隙間からは蓬莱軒の亭主の巨体が視界を塞いで立ちはだかっていた。
異臭が一気に隙間から溢れ出した。三人は一様に鼻を塞ぎ、目にした亭主の姿に言葉を失った。亭主は全身に料理の残骸を浴びていた。頭から黄色い麺の束と具とスープを垂れ流し、身体の至るところに砕け散った餃子やら炒飯の米粒やら杏仁豆腐の欠片やらをくっつけ、衣服を料理の汁で隅々まで染みだらけにしていた。無精髭をたたえた顔は見えない奈落をみつめていた。
「すいません。今日は勘弁してください」
老人が喋ったかと思うほどしわがれた低い声を絞り出し、亭主は引き戸を閉めた。
店の前に一人、また一人と人の姿が増えていった。多くは同じ蓬莱軒でラーメンを食べただけの、互いに会話を交わしたこともなかった人々。やがてそこに地元の人間や近くの商店の人間も加わってゆく。彼らは閉められた引き戸を店主夫妻にばれないように少しずつ、ほんの少しずつ開けてゆき、異臭に耐えながら中の様子をうかがった。
店の中では痩せ衰えた蓬莱軒の女房が絶え間なく料理を食べていた。亭主の作った料理を食べては喉に指を突っ込み、ところ構わずに料理を店の中に吐き下し、亭主に向かって残飯を皿もろとも投げつけていた。女房が皿を投げるたびに店の中に陶器の割れる音が響いた。亭主はそれを咎めるでもなく、店の中を掃除するでもなく、されるがままになっていた。女房が食べたものを吐くと何度でも店の厨房に立つ。女房は亭主が料理を作る間、死んだようにして残飯の散らかった店のテーブルの上に突っ伏していた。
「ああ、えらいことになってる。どうしよう」
「もう少し。奥さんもおやじさんもわかっててやってるみたいだし、あんなことになっちまった後だしなあ。本当にヤバくなりそうになったら飛び込もう」
十人も二十人もの有象無象が扉の前でしどろもどろしながら店の中の二人を見守っていた。女房が皿を投げるたびに店の前がざわめき、ばらばらなリアクションで周囲の注目をひく一方だ。
蓬莱軒の亭主は自分が作った食い物を投げつけられ、残飯を浴びながら鉄の沈黙を守った。引き戸の隙間から見える座った亭主の背中。女房が料理を駄目にしてしまうと亭主はそのたびに腰を上げ、新しい料理を作って出す。そうして女房が黙って料理を食う間、不動の姿勢で女房の正面に座っていた。
外で見守っていた常連の男の一人は、二人の終わらぬやりとりを見ているうちに皺のいった目を潤ませた。唇を噛んで洟をすすりあげ涙をこぼすのをこらえている。それを見て他の涙もろいおばさんがピチピチに脂肪の詰まったスカートのポケットからハンカチを取り出す。小学生の少年がそれを見ながら店の中に視線を戻す。
店の中に散乱した無数の料理が冷め、腐って、異臭を放つ。荒廃した店内を女房の吐瀉物と投げつけられた皿がさらに荒らしてゆく。
理由に真新しいものは何もない。素通りすることもできた。めずらしくもないものに足を止めていられるほど今の世の中は暇ではなかった。子供を流してしまった女房の、亭主への仕返し。
扉の前の野次馬たちがそこに立っているのはたまたまにすぎない。社会から見てめずらしくもない悩みにどれだけの重圧がのしかかっているか、それは本人たちにしかわからない。平均的な辛酸を数年、数十年と年月をかけて舐めてきた者たちにしかわからないこと。
「私、あんたのつくったものたべられない」
何十回目かの破壊のあとに女房は言った。お腹の中の子を失った絶望が全身を通い、痩せた体がますます彼女の細った神経を昂ぶらせた。
「あんたのつくったもの、おいしくない。食べられたもんじゃない」
「奥さん、そりゃあないよ」
店の外から常連の一人が引き戸を開けて中に叫んでいた。亭主が入り口の方を振り向き、女房が亭主に向けていた視線をはずす。引き戸を開けた男は他の野次馬たちの目を集めながら腹の底の声を押し出した。
「俺さっきからおやじさんの料理作るの見てたけど、みんなすごい美味そうだったよ。全部すっごいすっごい愛こもってたよ。……俺、あんなに愛がこもった料理、見たことねえよ!」
ちょっと遅れて、他の常連たちも同意の声をあげる。声を上げないものたちもうなずきながら目で訴えかける。店の入り口は三十路男や四十路男や小学生やおばさん、それ以外にも様々な人種で埋め尽くされていた。
「奥さん。つらいだろうけど、元気出して」
「そうだよ。おやじさんも奥さん励まそうとしてるんだよ」
「俺たちも、ラーメン食いに来ることしかできないけど、でも食べに来るよ!」
「ぼくもお父さんとお母さんとみんな連れて食べに来ます」
限られた範囲の中で必死に思いを伝えようとする人々。返ってきたのは素直な感謝ではなかった。蓬莱軒の女房の顔は歯の裏にまで上ってきている苦言を必死で噛み締めているように見えた。
亭主が立ち上がって入り口の方へ歩み寄り、残飯にまみれた姿で頭を下げた。
「いいんです。俺が悪いんです。……千恵子は、女房は俺が子供より店を優先させたことが許せないんです。きっと、俺の料理が憎いんです。どうか女房をそっとしといてやってください」
子供流したの、今回が初めてじゃないんです……消えそうな、だがはっきりと通る低い声で亭主が告げる。有象無象たちは静まりかえった。侘しい空気の中で濡れた女房の目が吊り上がり、血走っていた。
亭主が働かせ過ぎて、流したのだ。人々は空気の流れで的確に亭主を裁く。亭主は一途な思いやりの中に混ざった一滴の軽蔑の朱を黙って受け止めた。それでもなお亭主を許す常連たちの苦味を受け止めた。肩を落として女房の前に戻っても一度垂らされた軽蔑の朱は決して取れず、店の入り口から亭主の背中を刺し続けた。
女房は黙りこくる亭主の前でぼろぼろと泣く。店中に散らかった残飯の冷えて腐ってゆく臭いの中で、声もなく口を動かす。亭主は膝に置いた手を握りしめながらそれを聞いている。店の前の常連たちも、常連でない野次馬たちも、全身全霊で女房の声にならぬ声を聞こうとしていた。
「……あやまって。あやまってください。他のことは、あんたのことだから、きっとどうしようもないから……だから一度だけでいい。
あやまって。ちゃんと、今ここで」
女房はそれ以上は何も言わず、椅子の上で唇を噛み締めて震えていた。沈黙のあとに亭主は椅子を立ち、ゆっくりと、深々と土下座して残飯にまみれた床に頭をこすりつける。
「すいませんでした」
亭主は土下座姿をいつまでも続けた。女房は亭主の前でいよいよ声をあげてしゃくりあげ始め、それを見た店の前の者たちは声もなく泣いた。おそらくはこれからも夫婦であり続ける二人のために、みなして泣きに泣いた。
有象無象たちは散っていった。小学生も、三十路男も、四十路男も、おばさんも、他にいた色々なとるにたらぬ連中も、それぞれにやさしい気持ちを抱えながら。彼らはいつかもう一度、蓬莱軒の中華料理を食べられる日が来ることを心の底から願った。
七日目が過ぎて八日目に、蓬莱軒は元の姿を取り戻していた。身体がでかく気もいい亭主がまた気のいい笑顔を浮かべながら厨房に立ち、小柄で蟻んこのようにきびきびと働く女房が臨時のアルバイトと一緒に笑顔で客に料理を出していた。
有象無象たちはもう事件のことをいわなかった。彼らは店に来ては陽気に飯をくい、入れ替わりたちかわり亭主や女房と冗談を交わして笑いあっていた。
「蓬莱軒有象無象」