パロットは天国へ行った

 町内のぼろいアパートの一階。コンクリートが打ちっぱなしの床には安い金ダワシのような玄関マットが引かれ、閉ざされた一室の前で青年が一人腕組みをしている。色素の薄い長髪は後ろで束ねられ、残暑の季節ということもあってTシャツにハーフパンツ、そしてサンダル履きというラフな服装。右の手首には数珠が巻かれていた。
 脇に、年増と思われる三毛猫が一匹いた。飼い猫とおぼしき赤い首輪。太った体のせいで手入れがうまく行き届かないのか、背中の毛がべとつきがちである。
「おいミケーレさんよう。本当にここか?」
 三毛猫だからミケーレ。青年は三毛猫を”彼女”の首輪に刻まれた名で呼んだ。三毛猫は遺伝子の関係上そのほとんどがメスだ。ミケーレは知らぬそぶりで毛づくろいをし、気持ちよさそうに耳を掻いている。青年は肩をすくめ、また正面の閉ざされた扉を見る。
「”そうよ。あたしがいうんだからまちがいないわ。はやくあけてくださる。ニャーゴ”」
 聞いたこともない猫の声を、裏声で口まねた。多分イメージ的には商店街のオバサンみたいなキャラクターなんだろう。青年にはこの扉を開ける権限も根拠もないのだが、猫は猫の方で自分に気づいた人間がいたものだからどうにかなるだろうと考えているようだ。
 郵便受けには住人の名前。ダイレクトメールや何かの通知書が随分溜まっていた。新聞受けからは夕日に染まった新聞が群生してこぼれ落ちている。ダメでもともと、青年がチャイムを押し、中に声をかけながらドアをノックする。無人という反応しか返ってこない。
「ナカジマ君。何してるの」
 若い女の子の声に、青年は磁石で首をひかれたように振り返った。視線の先に彼のガールフレンドのマイが買い物袋を自転車の籠にのせて立っていた。
「マイちゃん。買い物帰りか」
「うん。そこナカジマ君の家じゃないでしょ。お友達ん家?」
「いや」
 マイが走ると膝丈の薄いスカートがふわりと揺れる。買い物袋の中身の充実具合は家庭を取り仕切る主婦のそれで、だけど顔は高校生らしくはつらつとしている。肩にかかるかかからないかの長さの髪を耳に掻きあげる仕草が、たまらない。
 青年は苗字をナカジマといって、マイとは青臭い仲だった。同じ歳でよく話をするが恋人ではない。というか、認めてもらえていない。彼には不本意なことに。
「説明してわかってくれるかなあ」
 ナカジマは腕の数珠をいじりながら視線を宙に漂わせ、問わず語りに経緯を喋りだした。


 ナカジマが猫の霊を見るようになったのは昨日の夜からだ。古来幽霊は体質によって見える人間と見えない人間がおり、しばしば物議の対象になってきたが、ナカジマにとって幽霊は幼い頃から存在するまれびとだった。人に危険をもたらす悪い霊にもたまに会うので、遠出の時や肝試しなどの不穏な行事には数珠をつけて行くようにしている。
 残暑の熱帯夜に部屋で寝ていると胸元が重苦しくなり、うっすら目を開けたら胸の上に猫がいた。大人になってまだ若い猫で、肩骨と頭蓋骨の輪郭が浮くほどはっきりやせている。灰色に黒のトラ縞だからアメリカンショートヘアだろうか。すぐにこの世のものではないなと感じた。
 猫は、寝起きのナカジマの顔を覗き込んでにゃあと鳴いた。全身からあらゆるものに飢えたもののかなしい気持ちが伝わってきた。
「飯? ねこまんまか?」
 はいともいいえとも言わず鳴くばかり。幽霊になったからといって他種族と意思の疎通ができるものでもないらしい。ナカジマが胸から降りるよう手を振ってうながすと猫は素直に胸から降りる。
「ちょっと待ってろ。ねこまんま作ってやる」
 闇に慣れた目で壁の時計を見たら夜中の三時半だった。ナカジマは猫を飼ったことがなく、ねこまんまの作り方を知らなかったので祖父母の部屋で寝ている祖父を叩き起こして作り方を聞いた。夜中にこんな馬鹿馬鹿しい頼みごとをして怒らないのは祖父だけである。祖父は孫が襖を開ける音に目を覚ますと、孫の傍らにいるちいさな幽霊を見てすぐに話を聞いてくれた。
「冷や飯に味噌汁ぶっかけときゃあいいんじゃが……味噌汁食っちまったよなあ。バターと鰹節あるか」
 ナカジマは冷蔵庫からバターを出し、炊飯器を開ける。釜の中は空だった。彼は冷凍庫から母がおにぎり状に凍らせた米を取り出すとそのまま電子レンジに突っ込んで加熱した。「温めすぎるなよ。猫舌に食わすんだから」祖父はナカジマが温めていた米を勝手に途中で止め、解凍されたおにぎりを取り出して皿にほぐした。やがて米の上に薄く削がれた大量のバターがのり、米の熱でまろやかに溶解しながら全体へと絡んでいった。祖父は仕上げに鰹節をひとつまみのせ、ほんのちょっぴり醤油をたらした。
「さあ、食いな」
 ナカジマが床に置いたねこまんまの皿に、猫がものすごい勢いで喰いついてくる。当然飯は減らないが猫は”生き生きと食べている”のだ。じいさんはぐい飲みの器に水を入れるとそれを皿の隣に添えてくれた。
「おうおう、食っとるわ。この痩せ方だと餓死したんかのう」
「うん、多分そうでしょ」
 もしこの時第三者がこの場面を見たら、気味が悪いと思っただろう。何せ若い青年と老人が真夜中に突然ねこまんまを作り、何もない場所に供えて話をしているように見えるのだから。
「この猫、首輪しとるぞ」
 祖父に言われて気づいた。猫の首には古びた群青色のエナメルのベルトが巻かれている。飼い猫が野良になったのか、飼い猫のまま餓死したのか。
「ほんとだ。かわいそうにな」

 翌朝になっても猫の霊はナカジマ家の台所を離れようとしなかった。
『猫の霊がきてます。しまわないで コーイチ』
 ねこまんまの皿の下に挟んでおいたメモ。ナカジマの下の名前はコーイチという。家人によって理解に差はあれ彼と彼の祖父に霊感があることは昔から知られていたので、彼や祖父が突然奇矯なことをしても霊がらみといえば家人たちは尊重してくれる。あわただしく朝食を食べながら見えない猫について話す余裕があるくらいである。
 猫の霊はねこまんまの前から離れられないでいる。一晩かけて腹いっぱい食っただろうに、自分が離れた隙に皿がなくなることを怖れているのか。ナカジマは高校の制服姿でトーストを食べながら猫に話しかけた。
「おい、腹いっぱい食ったろ? まだ何かあるのか?」
 腹いっぱい食べてもあばらの浮いた灰色のからだは変わらない。猫はこけた頬に剥いたような目を潤ませ、彼に何かを訴えかける。ナカジマが仏壇から数珠を出して腕にはめると、猫は少し離れて彼のあとを付きまとうようになった。
 登校する時も、授業中も、昼休みも、ずっと近くにいる。人目のないときに抱き上げようと近寄ると逃げる。ナカジマは下校後に家で私服に着替え終えると痺れをきらし、床に座って猫の霊に説教をした。
「いいか。俺はお前を飼ってやれない。お前は死んだんだから、もう天国へ行かなくちゃいけないんだ。成仏しなきゃいけないの。どうしても何か未練があるってんなら聞くから、今教えてくれ」
 霊は自分に対してされた行いをそこそこ解するもので、その猫の霊もナカジマのはっきりとした説教をすぐに聞き入れた。応答のかわりにまたもにゃあと鳴いて今度は部屋の外へと歩きだす。途中で立ち止まってこちらを待っているので、ナカジマも腰を上げてそれについていく。
 玄関からサンダル履きのまま出て、町内を二十分ほど歩いた。猫は人間を無視して自分の一番進みやすい道を選ぶので、ナカジマは何度か金網の破れ目をくぐったりブロック塀をよじ登ったり家宅不法侵入まがいの離れ業を要求されることになった。このご時世だから見つかれば泥棒呼ばわりされてもいいところだったが、猫も人気のない瞬間を縫うようにすり抜けたようで幸いにもトラブルには遭わずにすんだ。
 そうしてたどり着いたアパートの一階にいたのが三毛猫のミケーレである。ミケーレはある一室のドアを外からしつこく引っ掻き回し、どうにかして中に入ろうとあがいていた。猫の霊が挨拶代わりにひと鳴きすると、ミケーレははっとこちらを向いた。夕日を受けて引き絞られる猫目の眼光。猫の霊はミケーレの前に歩み寄って挨拶した。ミケーレが喉を鳴らして返事を返すと猫の霊は家の扉の中へ入るように歩いていって、ナカジマの前から消えた。


「それで中に入ろうか迷ってたんだ。ナカジマ君」
 マイは霊の類は見えない体質だったが、ナカジマのする話を最初から最後まで真面目に聞いてくれた。彼女の瞳は女の子独特の未知の深みがある。ナカジマとしては正直見つめるのも照れてしまうが、それでも見てみるとそこに侮蔑や好奇のいろは見えない。どちらかといえば事の成り行きに素直に驚いているようだ。
「信じて、もらえます? あれだよね。霊見えねー人にはすげえ頭おかしい風に見えるかもしれないんだけど」
「うーん、私、幽霊見たことないからそういうのよくわかんないんだけど……でも、ナカジマ君が言うんならきっといるのかな。信じます」
 信じます、と言った時のちょっと生真面目な唇の結び方に、思わずうわついた笑いが出た。ナカジマはマイのしでかす仕草の一つ一つにすぐ舞い上がってしまう。ミケーレがそんな二人の姿を見ながら口を全開にして身体を伸ばしあくびする。
 二人で話をしながらアパートのドアの前に立っていると、太陽を飲み終えた街の空は星の群青に表情をがらりと変えてしまう。アパートの使い込まれた外灯がクリーム色の灯をともす。夜になってアパートにぼつぼつと戻ってくる住人たちは、みなナカジマたちのいる場所を避けて別の部屋へと落ち着いていった。ナカジマとマイとミケーレは彼らが自分らを素通りしていくのを見るたびに軽くため息をついた。
 やがて彼らに声をかけたのはアパートの管理人と称する中年の男だった。
「君たち、そこの家に何か用かね」
 管理人いわく、その部屋はここ数週間住人が帰った形跡もなく放置されたままだという。かねてから家賃も滞納気味だったので管理人が何度か家の戸を叩いたが、何の音沙汰もない。
「猫はいませんでしたか?」
「猫?」
 猫は基本的に飼うのを禁止していたが、以前に別の住人が勝手に猫を持ち込んでからはそれもなあなあになりがちだった。件の部屋には猫が一匹いた。アメリカンショートヘア。
 新聞受けに群生する巨大な古紙の観葉植物がまだ若芽だったころ、この部屋から一日中猫がうるさく鳴いていたことがあった。管理人がドアを叩いても住人が出る様子もない。よっぽど合鍵で中に入ってやろうかと思ったが、用もないのに勝手に入ってもし何もなかったら違法行為だと訴えられかねない。幸い両脇の部屋は盆の帰省で空いており苦情が出そうな気配もなかったので、管理人は件の部屋をやりすごし管理人室へと戻った。
 そして猫は放置された。猫は翌日も翌々日も炎天下の中朝から晩まで鳴き続け、二日目の夜になると鳴き声がか細くなり……次の日の昼には、部屋は静かになった。
 ナカジマとマイが管理人を説得して部屋を開けさせると、密閉されていた熱気が化学物質の混じった埃臭さを伴って付近に充満し三人の息を止めさせた。電気はついていない。流し場の窓から微かに光が差していたがなお暗く、床も壁も見えたものではなかった。管理人が懐中電灯を片手におそるおそる部屋の電気のスイッチを探し当て、一気に部屋を明るくした。部屋の中はところどころ散らかったまま片付けられもせず、だが食器やテレビなど重要なパーツだけがごっそりなくなっている。
 その欠乏。三人は玄関に立ちすくみ、部屋が既に何者かによって使い捨てられたことを悟った。部屋の隅に置かれたゴミ袋はぼろぼろに引きちぎられて中の生活ゴミを散乱させていた。引っ掻かれて傷ついた壁紙。下のほうがずたずたに裂けたカーテン、不自然に根元だけ削れた木の柱と削られた木屑、小さな冷蔵庫の扉の端を埋め尽くす執念の爪痕。閉ざされた窓のサッシにびっしり生々しく残る引っかき傷と、薄く広がった血痕。
 屋外への窓を臨む流し場の床に、ちいさな猫の亡骸が干からびて落ちていた。灰色に黒いトラ縞の毛皮は窓からさす太陽に風化し、腐る前にきれいにミイラ化してしまったようであった。


 ナカジマは猫を埋める。死体のおぞましさにためらうマイの前で乾いた猫の亡骸を素手で抱き上げ、アパートの前の原っぱにつれてゆく。ナカジマが部屋を出るとミケーレがそれに付き従った。一人と一匹の厳粛な儀式の前にマイと管理人は声もなく、ナカジマが「シャベルかスコップを下さい」と言うまで、突っ立っていた。
「マイちゃん、見て。こいつ首輪に名前が書いてある」
 群青色のエナメルのベルトには、『パロット』と油性マジックで書かれた名前が入っていた。マイはそれまで死体のおぞましさに何となく死体を見られずにいたが、朽ちすすけた毛皮に巻かれた首輪の名前を見ると、急にその死体が哀れに感じられた。
「置いていかれたんだ。夜逃げかなにかする時に、邪魔だったんだろうな」
 あとで連れて行くつもりで結局迎えに来なかったのか、全ての情を断ち切るためにあえて置き去りにしたのか。ナカジマはさまざまな理由を頭の中で考えたが、詮無きことだった。いずれにせよ飼い主は猫を自由の身にはせず責任を放棄し、猫は閉じ込められてそのまま死んだ。
 猫の死体を見つけたあと、ナカジマはもう猫の霊を見つけることができなかった。近くにあった石ころを拾ってきて無名の墓標をたてると、管理人が猫のために線香をもってきてくれた。ナカジマとマイと管理人が猫の墓に線香を供え手を合わせる。ミケーレも三人に合わせて頭をうなだれたように見えた。美しい香と共に線香の煙が細く夜空へ昇った。
「かわいそう。死んでも名前さえ呼んでもらえないなんて」
 マイは管理人に頼んで油性マジックを借りると、石ころの墓標に『パロット』と名前を書いた。「パロット。苦しかったよね。ごめんね」マイは猫の生前の姿さえ知らなかった。涙も出ない。ただ、誰かが人間の罪を詫びなければならないと感じていた。ナカジマは咎めるでもなく静かにその一部始終を見守っていた。
 ミケーレは祈りが終わるとやかましく唸った。それがまるで三人に向けて抗議しているようで、ナカジマが話を聞こうとするとミケーレはブロック塀から屋根へ、大きな身体を跳躍させて逃げた。マイと管理人はかの三毛猫に怒られた気がして、そこはかとない罪悪感に顔を暗くうつむかせた。
「大丈夫だよ。あいつ、マイちゃんや管理人さんには感謝してるって。見つけてくれてありがとうってさ」
 ナカジマはつぶやいた後、ミケーレの上った屋根を見上げてながいことその場に立ち尽くしていた。ミケーレはきっと生前の猫の知り合いで、あの猫の生きて動くすがたを知っていた。

 ミケーレは云う。
 生き物が孤独に死ぬことは、めずらしいことではない。それは夢や平和と同じだけの比率でこの世に存在する。かなしいことをいちいち嘆いていてどうするのだ。それは草木のように地面から無限にわいてくるものなのに。
 この国には猫のゲットーがある。猫のアウシュビッツがある。野良と飼い猫という立場の差もある。だが猫たちはそれを知らず、最後まで己の生を全うして死んでゆく。
「”パロットは天国へ行った。あの子は、最後まで目の前のいのちを生きた。あたしにいえることはそれだけだわ。……ニャーゴ”」

 マイにはその声まねを聞いて、なぜ彼が今そんなふざけたことをするのかわからなかった。聞き返そうとするとナカジマは突然マイの側から離れた。ブロック塀を登り、そこから排水用のといのパイプをつたい、屋根にとっつかまって一番上へよじ登る。ミケーレの隣に、はいつくばる。
「ふうん。これが猫の視線か。きれいだな」
 マイがいくら下から呼んでも、ナカジマはしばらく返事もしなければ降りてもこなかった。そのまま街のすがたを眺めているのだ。そうして、眺めながら泣いているのではないかとマイは思った。


「パロットは天国へ行った」

●Novegle対応ページ ◎作者:桔梗鈴◎カテゴリ:ホラー◎カテゴリ:現代◎長さ:中短編◎状況:完結済◎ダウンロード◎あらすじ:霊感のある青年につきまとう猫の霊。猫が成仏できずに青年に願っていたことは、何だったのか。静かな話。

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