名もなき……。

 どうも、若い時分から見れば信じられないような愚かなことばかりをしている。
 仕事の合間、次の客との面会までに少し時間が空いたときに俺は携帯のメールもチェックしないで近所の神社でじっと手を合わせていた。減らした煙草のヤニの匂いが沈着し閉じた口のなかににじんでいる。境内は冬晴れに恵まれ、木枯らしを吹かせつつも使い込んだコートの上に暖かな日差しを落としていた。
 俺が最後に見た自分の子どもはまだできあがって四ヶ月ほどの胎児で、母親の腹の中に納まって脈だけをうたせていた。二十年ほど昔、社会人になって三年ほどした頃だった。記憶もおぼろで名前すらない。当時の女の腹を鬼のように蹴って無理やり堕ろさせたそれはこの二十年俺の記憶にすらのぼってこなかった。思い出して神社や寺を見つけると拝むようになったのはごく最近のことだ。一度思い出すと、とりつかれたように毎日そのことを思い出した。
 二十代や三十代の時には勢いがあり、死んでも考えまいと思っていたあの時の水子を今の俺は少し年寄りくさいと思いながら初めて供養しようという気になっていた。水子の名前がわからず──そんなものはあの時からずっと無かったのだが──なんと呼べばいいのか、そんなことばかりが切羽詰まったように気にかかって、あちこちで拝むたびになんともたまらない気持ちになった。
 当時の女とは、腹の子が流産した後数ヶ月して別れた。当時二十代半ばだった俺はそこに命があったことも認めようとしなかった。仕事もわかってきていてこれからだったし、女とは付き合いにまかせて勢いでやって、外に出したつもりだったのにずるずると生理不順が続いた後妊娠を打ち明けられた。何もかもこれからだった俺の足を引いて墓場に引きずり込むような女の俗な願望を当時の俺は引き受けきれなかった。なんとなくの女と結婚なんて冗談じゃなかった。
 もう一度あの時に戻れたとしても、当時の条件なら俺はやはり逆上して俺の子を孕んだ女の腹を蹴っただろう。
 当時の女とはなかなか連絡がとれなかった。時間のあるときに昔の友人や知人の筋をあたっていたが、もうみんな全国に散り散りになっている。俺は老化防止の漢方薬を内科医から処方された持病の薬と軽い抗うつ薬と一緒くたに飲み干しながら、どうにか日常を現状維持させ続けている。


 俺が知人から女の連絡先を手に入れたのは、彼女を捜し始めてから四ヶ月ほど経った後のことだった。昼食時に神社を参ってそこから彼女の家に電話をかけると、苦い記憶を彷彿とさせる懐かしい声が電話口の先から朗らかに新しい姓を名乗った。
 同一人物の声なのに少し違っていた。歳をとって母性を帯びたせいだろう。声が低く聞こえた。俺が自分の名を名乗ると、彼女は警戒して声を潜め守るもののある強い調子で俺の声をはねつけた。
『あなた、どういうつもりなの。もう電話してこないで。私にはもう主人も子どももいるの』
「済まない。遅いかもしれないけど、どうしても一つだけお前に訊きたいことがあって。もう電話しないよ」
 二十年ほど前に流産した子どもを水子供養したいと俺が切り出すと、彼女は突然の申し出にしばらく電話口の向こうで黙っていた。
『どうして?』
 俺は年月をかけて多層的に背中に重なった理由を、全て彼女に教える気にはなれなかった。彼女が亭主や子どもと築き上げた生活の中に俺が厄介者であるように。
「ここのところあれの名前がわからなくて、ずっと気にかかってる」
『私も名前なんてつけてないわ。あなたもようやく自分が人を殺したんだってわかったの』
 抗うつ薬の効きが弱い気がする。彼女の言葉は嫌味や憂さ晴らしに近い質のものだとわかっていたのに、歳のいった心にずきりと響いた。
『私は何年も苦しんだんだから、あなたももう少し苦しめばいいのよ。あなたのほうはもう結婚はしたの』
「お前には関係ないだろう。どうせもう電話しないんだ」
『あら、そう? そうね。もうあなたに関わりたくないわ』
「いいからあれを供養したのかどうかだけ教えてくれよ」
 声がふるえた。神社の境内でもこんな話ができてしまうあたり、俺はやはり無宗教なごく普通の日本人だ。あの水子さえ供養できれば何でもよかった。西洋式より日本式のほうがしっくりきたから日本式にするし、神社と寺とどちらが水子を扱うのかも知らない。扱ってくれるほうへこれから行くつもりだ。
『手を合わせたりお水をあげたりはしたけど、ちゃんとした供養はしてないわ。あなたがやってくれるなら任せます。悪いけど、今の家庭を大事にしたいの』
「わかった。供養したら、何か知らせようか」
『何も知らせなくていいわ。私も思い出したら手を合わせておくから……ごめんなさい、やっぱりお寺と戒名だけ知らせて』
 彼女は数年ぶりに水子のことを思い出したのか、電話口の先で涙ぐんでいた。やはり自分の腹を痛めた子への情は父親よりも母親のほうが数倍強いのか。
「区切りがついたら、またこの時間帯にかける」
 俺はそれ以上どう配慮するでもなくそのまま電話を切った。若い日々のことを忘れないようにしていたつもりでも、一度今の彼女と話してみるとそれはやはり遠い過去だ。過去のことを一方的に俺が手元へ引き寄せているだけなのかもしれないと思うと自らの弱さに身が凍える。


 あの子どもの名前はなかった。二十年間近く必要ないと思って、ないままでここまで来てしまった。本当なら要らなかったのかもしれない。俺がこんなにも気になって仕方がないということがなければ、徐々に忘れ去られていって美しく思い出の中に薄まっていってくれたことだろう。男だったのか女だったのかもわからない。あの子どもの名前が何だったかという疑問が湧いてから魂が日に日に重さを増して背中にのしかかってくる。まるで見えない胎児が育っていくように。
 それが重くて、俺は仕事帰りに付き合いで焼酎をがぶ飲みしたりウイスキーと抗うつ薬を一緒に飲んだりしてみる。この歳で何かしら薬を飲んでる奴など珍しくもなんともない。俺は仕事ができる奴と見なされているし、同僚や部下にも話のしやすい人間だと思われているようだ。
「うちなんてよお、子ども受験だから俺ぁ息もできねーよ」
「ああ、あるある。僕のとこはもう熟年離婚かもしんない」
「こっちだってインスリン打ちながら仕事してんのになあ」
「なあ。……ほんとお前のとこがうらやましいよ。とっかえろよ」
 俺はすっかり酔いの回った顔で笑いながら同僚たちの愚痴をきいてやる。彼らだって俺の過去のあやまちは話せば聞いてくれるだろう。わかっているのに酒が入っていても言えなくて、なんとなく黙っているうちにまた彼らの愚痴を聞く側にまわることになる。
「ほんとうにな、おまえんちが、うらやましい。奥さんよくしつけてるよなあ」
 同僚の目が痛い。苦しい。
「昔はどっちも引く手あまた、モテモテだったんだろう。あーいいなあ。うちのかあちゃんととっかえてほしいや。ハハハ……」
 長い付き合いの同僚になると俺の背中に積もった事情は承知積みで、上手い具合にぬるい距離でこちらを持ち上げてくるのだ。俺はそれに笑っていなければならなかった。
 息が詰まって、酔いつぶれたふりをしながら何度もその場にうなだれた。
 あの水子の名を、二十年も経ってから俺は考えていた。流したときにだって俺には子にすべき何の仕事もなかった。初めてで最後の仕事だ。あれが最後に見た俺の遺伝子の末節だったと思い知らされたのは、ごくごく最近のことだ。


 ある春の日曜日に、ちょっとでかけてくるよと言って、玄関まで送りに出てきた妻の歳いった顔に耐えられなくなった。
「どうしたの、あなた」
 同じ年代のよその主婦より五つは若く綺麗に見える。自慢の妻で、若いときには一緒に修羅場を見てきた。
「お前、やっぱり一緒に来てくれないか」
 女にしては頭の切れるところに惚れた。妻は俺の言葉にじっとこちらを見て、少し待つように言ってから急いで化粧をしに部屋へ戻っていった。
 車に乗って供養をしてくれる寺に向かいながら、俺は二十年前のことや水子のことを洗いざらい妻に話していた。先方の女が既に家庭を持っていて供養に来れないことも、処理をこちらに任されたことも。若いときにはどちらも公然と遊んでいた。戦友のような妻は俺の話をじっと聞いて、俺の一番嫌だった意味のない嫉妬だけはせずに男のような渋い面で静かに俺の話を納得してくれた。
 俺たちの間には、まだ子どもがなかった。
「私のほうの水子も一緒に供養してもらえるかしら」
 話を聞き終えた妻がぽつりと言った。俺と妻の間の水子ではない。それは、俺と妻の間では随分昔から了承のあった事柄だった。
「ちゃんと位牌を作ってもらうのに、日にちがかかるらしいよ。でも一緒にやってもらおうか」
 俺はハンドルをきりながらそういった。妻は助手席で小さくうなずくと、あとはずっと硬い顔をして窓の外を眺めていた。
 妻と一緒になったとき、互いの事情がわかっていてもそれを苦に思ったことはなかった。互いに異性絡みでのトラブルが絶えず、勢いがあって、むしろ一番理解のある相手だと思っていたぐらいだ。それは普通のカップルが恋愛の末に結婚するのとは少し違っていたかもしれない。
 最初から素直に子どもを愛するような女では、俺の場合駄目だったのだ。妻は俺が他の女の腹を蹴ったことを知りながら俺と一緒になってくれた。自分のように情の薄い女でよければと最初に前置きして。
 予約を入れてあった寺に着くと、妻は新たに三人の水子の供養を住職に頼んで畳の上に深く頭を下げた。俺も一緒に頭を下げた。住職が何もいわずに供養を引き受けてくれたことが、俺にはつらかった。
 俺のほうの水子には勝手に女の子扱いをして、沙羽と名前をつけた。仕上がった位牌の戒名にもきちんと名前が入っている。法要の間俺が神妙にしていたのはもちろんだが、妻も隣で沙羽のことをわが娘のように悼んでくれた。多分妻のほうの水子の位牌が仕上がったら俺も同じような気持ちで流れた子らのことを悼むのだろう。
 考えてみると俺たちには四人も子どもがいた。子沢山だ、と、法要の間わずかに可笑しい気持ちになった。

 法要が終わったあと位牌を寺に納めたので、外に出たとき俺たちの手元には何も残らなかった。俺と妻は外に出た後も無心に賽銭箱の前にゆき、随分長いこと手を合わせてその場に立ち続けていた。
 愚かしいことだった。神仏にものを頼むなんて、二十代や三十代の頃ならその弱さに軽蔑して決してやりはしなかった。妻も価値観が似ていたから多分そうしていたことだろう。
「ねえ」
 妻の声がして、俺はようやく目を閉じて拝むのを中断した。横に立つ妻の顔は何かを俺に渡さぬように硬くこわばっていた。
「私が、あなたと結婚する前に三度も子どもを堕ろして、子どもを産めなくなったのは別にあなたのせいじゃないわ」
 一度目は知り合いに強姦まがいのことをされて。二度目と三度目は自棄になって。結婚する前から知っていて合意の上だった。勢いのあった俺は子どもが嫌いで、子どもの産めない女と結婚することを望んでいた。
 俺は声をかけてきた妻に顔に出てるかどうかもわからない微笑みを返すしかなかった。
「うん。別に、お前のせいでもないよ」
 ただ、誰を責めたらいいかわからなくなった。全部わかっていて結婚したから水子を供養したいなんて話は今日までおくびにも出せなかった。結婚したときは強かった妻の手が歳をとるごとに弱く、やさしくなってきて、ふと水子の名前が何だったかと思った瞬間にその考えがずっと頭から離れなくなった。
「ばちが当たったと思ったんだよ」
 今までずっと言えなかった思いを打ち明けられて、俺は年甲斐もなく涙ぐんだ。妻の顔がますます硬くなって、感情を内へと封じ込めたのがわかった。
「子どもが欲しくなったんだったら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「うん」
 妻のことだからためらわず養子なり離婚なりを切り出してくるだろう。女にしては理知的だが、俺がお前とのほんとうの子どもが欲しかったなどと言ったら自分ばかりを責めて陰で泣くような女だった。俺はそれだけは言わずに、水子への思いを打ち明けられただけでよしとした。
「うつのせいかな。最近涙もろくなったよ」
「あなたのは違うわよ。歳のせいよ」
 まだ歳のせいだと自分で認めたくはない年齢だった。背中をさすってくれる妻の手がたまらなくて、昔のように冗談交じりで抱きしめてやると妻は俺の胸の中で「ごめんね」とつぶやいた。俺はしばらく何も言えずに首だけを横に振った。


 妻のほうの水子にそれぞれ名前をつけて法要を終えたときには、季節はもう夏にさしかかっていた。俺はといえば胸の中のわだかまりが溶けていくにつれて少しずつ抗うつ薬の量が少なくなり、昔のようにとはいかないが、四人の子の父親になったのだと思い直すようにして妻とまた外へ出かけるようになった。
 妻の顔も前より硬いものがとれて楽になったようだった。もともと顔のつくりはいいのだ。
「ねえ。外国では赤ちゃんを捨てられるポストがあるんですって。そういうところの前で待っていたら、子どもってもらえるものなのかしら」
 ハンドルを切りながら、信号待ちのところで俺は横目に妻を見る。今の俺たちならどうするだろうか。いくら犠牲を払ってでも、血を吐くようにして”ください”と、頼み込むのだろうか。
「物騒だってわかってはいるのよ。やめましょう。私たちは年寄りらしくペットでも飼いましょう」
「いや、いいんじゃないの。五人目。いや一人目か? 第一まだそんな歳じゃないし」
「私とあなたじゃろくな養育者にならないわ」
「うーん、でもなぁ……」
 最近、俺は小さな旅をしながら妻とそんな話ばかりをしている。日本人の平均寿命を半分まで折り返して少ししか経っていなかった。まだ老後と決め込むには長すぎる時間が、俺と妻とをとりまいて夏の光のように車内に満ちていた。


「名もなき……。」

●Novegle対応ページ ◎作者:桔梗鈴◎カテゴリ:恋愛◎カテゴリ:現代◎長さ:中短編◎状況:完結済◎ダウンロード◎あらすじ:二十年ほど前に堕胎させた水子の名前がわからずに苦しむ男。失われてゆく若さの中で男は軽蔑していた神仏にすがる。

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