もしどうしても苦しくなったら手首を切る前に何か鍋で茹でなさいと厚子さんに言われて、私はパスタ用の湯を沸かしていた。沸騰する透明な液体とステンレスの鍋の上に手をかざす。傍からはわからないのにそこはとても熱くて、熱気で手全体が痛みを持った。痛みが二秒三秒と続くうちに私ははっと覚醒して、目覚めきった気持ちで手を引いた。切らなくてもそれで足りた。もう少し手をかざし続けていれば間違いなく手が焼け爛れ命に障るという感覚が、苛立ちと不安に侵されていた私の精神を強く牽引したのだ。
窓から昼の光がダイニングキッチンいっぱいに差し込んでいた。
こんなことで落ち着いてしまうなんて、歳だと感じた。周囲は笑うかもしれないが私の青年期は終わりかけているのかもしれない。火傷とも呼べない火傷で私は満足する。そのまま煮えたぎった湯にパスタを放り込んで、アルデンテでざるにあげて、オリーブオイルとたらこソースで和えて食べる。
私の両手首には最近までやっていたリストカットの痕が幾条も残っている。シマウマのように切るたちだった。今はもうやっていないが元々肌が白いし、痕は一生残るだろう。自業自得。でも不快には思わない。責めるようだと多分永久に切り続けているから、私は加齢と共に羞恥心を捨てた。今日は今日で午後から厚子さんの経営している画廊へ行って受付の仕事をする予定だった。あの職場は私のような女性にとって理解がありすぎると言わざるをえない。夏でもクーラーがやや寒いくらいにきいていて、従業員が年中長袖でいることも認められている。午前と昼の担当はショコラちゃん。またカウンターのところでうとうとしているのかしら。
──ミストさん。低血圧なのはわかりますけどぉ。お願いだから遅刻しないでくださいよぉ。ショコラ時々寝てることあるから、ミストさんが起こしてくれないとマジ次の仕事に遅刻しちゃうんですよぉ。イチレンタクショーなんですから。ねっ。
ショコラちゃんの口調は甘ったるい。でも実際性格は私よりしっかりしていると思う。もちろん私はミストなどという名前ではない。ミストはあだ名だ。私の本当の名前は霞という。
私が、まだあの画廊の客に過ぎなかったころ、私は精神的に不安定で毎日のように手首の肉を切り刻んでいた。カッティングには安全カミソリを使う。切っている瞬間には世の中から意味が消えている。──牽引。一瞬でも生死に触れているスリルと充実感。最初は不安が一掃され束の間満足したものだったが、段々死なない程度がバレてくると浅く切る程度では満足できなくなった。切らないときでも塞がってる傷口が痒かったりして、痛みと共に傷口をこじ開けるのが気持ちいい。
「霞、手首はやめなさい」
「いい加減にして」
とにかく母親の声が不愉快だった。血管が切れて出血がひどくなると医者に行って縫ってもらい、精神安定剤の処方を変えてもらう。携帯で写真を撮ってインターネットのサイトにアップすることも忘れない。薬の処方をミリグラム単位で書き留めることも。中学時代に親からパソコンを買い与えられた私はリストカット系のサイトに入り浸り、学校よりも多くの友達をネットの中で作った。
初めて行った心療内科で自殺衝動があるねといわれた時、ちょっと、すごくと言うとカッコ悪いからちょっとカッコいい気がして、世界が開けたように見えた。平凡であることを認められなかった自意識。家族は甘えるなとかお前はずるいとか私をことあるごとに罵倒したが、当時の私に言わせれば手首を切った人間に向かってそんなことを言える家族のほうが異常だった。家族の情なんて三回もリストカットがバレればどんな家でも簡単に化けの皮が剥がれる。私はムカつくと切った。それまでも家族の存在に傷ついていたのに切らなかったことのほうがおかしかったんだ……などと自分を可愛がるのは大抵パソコンの前で、自分の部屋や洗面所で切った直後は蛍光灯の下の自分の体が真っ黒で自分のおかしさが際立って自己嫌悪に陥った。ネットの友達は「死なないで。あなたが大切だよ」と正確なレベルで私の欲しい言葉をくれた。
すっかりリストカッターであり、精神病患者として自他共に定義されていた。私。小・中学校の頃カス美と呼ばれていじめられた。私の名前に美しいなどという漢字は入っていなかったのに。生ゴミみたいなイメージを美という漢字に抱いて、私は今でもそれを引きずっている。
厚子さんの経営する画廊「ギャラリートラック」は銀座駅から十分ほど歩いた棗ビルの四階にあった。銀座は高級ブランドだけの町ではない。少し路地に入れば小さな画廊が多いことでも知られており、大通りから外へ目を向けるとハイソな通行人たちに混じって貧乏そうな学生もうろついている。当時大学を休学していた私は実家に籠るでもなく外をふらつき、画廊巡りをしているうちにギャラリートラックへ入り浸るようになった。
ギャラリートラックの、重苦しくも前衛的な個展が好きだった。研ぎ澄まされた感性の上にある幻想的な淡い色調の個展も好きだった。週ごとに変わっていく展示物はどれも作者たちの孤独を手を変え品を変えうかがわせるもので、退屈な主婦っぽい芸術にはついぞ一度もお目にかからなかった。受付のところでもらえるパンフレットには轍《わだち》のロゴマークが印刷されていて、私はそれも好きだった。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
一年ほどギャラリートラックに通い続けて、初めてオーナーに声をかけられた。ストイックな黒のスーツに真珠をあしらった紫のコサージュ。シニョンに結った髪に落ち着いた微笑みがあり、厚子さんは私の目に四十代くらいに映った。私は酷い格好だったと思う。「はあ」と返事はしたが、ネイルが割れていたことしか覚えていない。
「閉館まで、いつも見てくださっていますよね」
厚子さんがそう言ったのは私が毎日閉館まで画廊で時間を潰していたからだ。一枚の絵の前で何時間でも意識を飛ばしていられた。個展は毎日遅くても夜の六時半には終わる。
「家に帰りたくないんです」
やつれた私を見つめる厚子さんの目は美しかった。リストカッターで精神病患者である私は、厚子さんの前に名刺の無い女として存在していた。厚子さんは一度ぐらい私の手首の傷痕を見たことがあっただろうに、手首のことはろくに聞きもしないで平然と話を続けた。
「絵画はお好き?」
私は、他者からつけられるラベルに依存して楽に生きようとしていた。ラベルを外して生きるのが難しいからそうするだけだ。特にリストカッターや精神病患者などというラベルは剥がしづらくて、自分一人ではどうにもならなかったんじゃないかと思う。
厚子さんは閉館後に私を近くのショットバーへ連れていってくれた。年配の女性と二人で飲むのは初めてだったが、私と厚子さんとは不思議と気が合ってすぐに慣れた。最初は絵画の話だったのに厚子さんが静かにこちらの話を聞いてくれるので私は自分の家庭環境やリストカットのことを話してしまった。途中何度も嫌じゃないかと確認しながら。
「別に生きているなら許容範囲よ。あなたは、何かおかしいことがあって切っているのでしょう」
「まあ、そうですけど」
「うん。それならいいんじゃない。心配はするけど、特別おかしいとは思わないわ」
話をしながら飲んだシー・ブリーズのせいで私の両手首には赤々とリストカットの痕が浮かび上がっていた。長袖の端からこぼれるのだ。厚子さんは赤いシマウマのようになった私の手首をじっと見つめ、お酒混じりになぜか微笑んだ。私は思わず言葉を失った。
「生きたい人か死にたい人か。敵か味方か。──他人の二元論には随分泣かされてきたわ。自分が二元論で決めつけられると腹が立つのに、他人も同じように考えるものだってことにはなかなか考えが及ばないものなのよね」
生きたくて死にたい人。それでいいじゃないか。善悪で区切らなくてもみんな「死ぬかもしれない人」でいい。厚子さんは私の横のカウンター席でモスコー・ミュールを口にしながら深みのある視線を奥へ流す。
「だけど大切な人ほどそれでは耐えられない。ずうっと、死ぬかもしれないだなんて中途半端なままでは」
「そうでしょうか」
「ん?」
「弱いだけだと思います。自分が傷つきたくないだけ」
私は家族や友人を鑑みた。私が三度目にリストカットバレを経験したとき、多分ほとんどの人間が私が正常であると認識するのを諦めてしまった。家庭の機能不全が解消されないまま私は異常者になった。家庭をとりまく社会にも多分おかしいところがあるままだった。腫れ物に触るような友人たちの態度が、問題の争点にも気づかぬままむやみに私という命の大切さをうたう周囲の対応が、無念だった。
「弱いことが許せない?」
許せない? あなたは強いの? と、暗黙のうちに訊ねられているようだった。口が閉じて自分の体が硬くなるのがわかった。
「私も、弱いです。でも誰も許せない」
間違っているとヒステリックに叫ぼうとして、いらいらして手首を掻いた。間違っているのは私だ。でも世の中の間違いはもっと非人道的だと感じる。厚子さんの横にいると、そんな自分が汚い部分からまるごと肯定されていくようでリストカットをする気力が抜ける。
隣から、すっと厚子さんの手が伸びてきて手首を掻く私の手を止めた。四十代前半ぐらいだと思われる彼女の手は手入れされていて、ベルベットのように滑らかなぬくもりを帯びている。私はその繊細なタッチに驚き、重ねられた手が急に恥ずかしくなってその場に固まってしまう。
厚子さんは、何も口にしなかった。言葉にすれば逆効果になることをわきまえていた人だった。代わりに私が落ち着くとそっと手を引き、経験深い穏やかな口調でカクテルの追加をするかどうか訊いてくれた。彼女と目が合ったときに、何も言わないで二秒間見つめあっていられた。厚子さんの微笑。私たちは二十歳近い年齢差を飛び越え、長年の親友のように通じ合って会話ができる仲になった。
大学を休学していた私に、厚子さんはリハビリ代わりでいいから画廊のアシスタントとして働いてみないかと声をかけてくれた。私は興味本位でその話に賛同し、週三日午前中のみのペースから少しずつ働き始め、どうにか大学を卒業して現在に至る。
私がエレベーターを使って棗ビルの四階まで辿り着くと、ギャラリートラックの受付ではショコラちゃんがたっぷりボリュームのある睫毛を伏せてうとうとと身体を揺らしていた。髪のカラーリングを変えたみたいだ。おとといまではキャラメル系の髪色にしていたのに今日はきれいなピーチページュに変わっている。
「ショコラちゃん」
目の前で潜めた声をかけると、ショコラちゃんははっとして目をぱっちりと開いた。一重の目をアイプチで二重にしている。まずいことをしている割に反省の色はなし。いつも私の顔を見ると愛らしい微笑みを見せるので、私も先輩ながら叱る気になれない。
「ミストさーん」
「お疲れ様です。カラーリング変えた?」
「はい! そうです、変えたんですよぉ。触ってください触ってください」
毛先までトリートメントの行き届いたロングヘア。指先でいじってあげるとショコラちゃんがくすぐったそうに笑う。画廊は平日ということもあって客が入っていなかった。受付の一番大事な仕事は画廊に客がいるときに存在感を隠し沈黙を保つことだ。なので、ショコラちゃんのようにうとうとしていてもどうにか勤まる。
ショコラちゃんは年中何かしら仕事を掛け持ちし寝不足を抱えていた。彼女の本当の名前は千代子という。チヨコをもじってチョコ。だからショコラ。名前にコンプレックスのある私は彼女がくれたミストという仇名を容認し、一緒に彼女のショコラという名前も容認していた。
「ミストさん。ショコラ、もしかするとここの仕事辞めることになるかもしれないです」
「どうして」
受付の席に二人並んで座りながら私はショコラちゃんに聞き返してしまった。ショコラちゃんはいつも唐突だ。それでいて、仕事の絡む話でも話し口が回りくどい。
「三ヶ月前にぃ、彼氏と別れて。そのあとすぐ新しい彼氏ができたんですけどぉ。その人が、夢追ってる人でぇ。ミュージシャン目指してるんですけどお金がなくてぇ」
画廊の受付以外にも居酒屋で働いて、働いて、お金を貢いできたけれどそれでもすぐ無くなってしまう。ついに居酒屋の仕事はキャバクラに変わった。それでも足りない。彼を応援してあげたいので画廊の仕事を辞め、キャバクラ一本にしていこうかと思っている……といった結論に達するまで紆余曲折三十分以上は余計な話を聞いたと思う。ショコラちゃんはとにかく恋愛のことになるとよく喋った。安易にラベルをつけるなら彼女は恋愛中毒症で、何度相手が変わってもダメ男に貢ぐダメ女だったが、案外そんな環境も自傷と変わらないのかもなと思った私は彼女を弾劾もせず話を聞いていた。
「デートすると、お金がないから近所の公園とかそんなんばっかりなんです。もっとお金がないと家で。家で二人きりでいるときってぇ、なんかもたないじゃないですかぁ。間が。だからすぐエッチになっちゃってぇ。終わると彼すぐ寝ちゃってぇ。ショコラも一生懸命話するんですけど話うまくないからつまんないみたいでぇ。結局話すことなくて寝ちゃってぇ。やっぱり軽い女に見られてるんですかねぇ? ショコラ悲しい……たまに外からおみやげ持ってきたりするんですけどパチンコかスロットの景品っぽいし。
あ、でも仕事終わって帰ってくるとたまにごはん作ってくれるんですよぉ。今はちょっと、元気がないだけなんですよ。時々なんか傷ついた顔して、その時の目が超カワイイっていうか、母性本能? くすぐられるんですぅ。きっとミュージシャンになって売れるんだってショコラも信じてます」
ショコラちゃんは可愛い。格好は今時の子だけど、こういう無人の画廊でも愛らしさを失わずにじっと座っていられるのには独特の素養が必要だ。才能があるのにキャバクラ一本にしようだなんてもったいないなと思う。私と厚子さんは花やお菓子を愛でるようにしてショコラちゃんを可愛がる。
「ショコラちゃんは恋に生きる人なんだ」
「え? ……あ、はい」
「もしそれで画廊辞めてキャバ一本になって、それでもうまくいかなくて、最終的に今の彼と別れることになったとしても後悔しない?」
ショコラちゃんの綿菓子のような顔が不安げにゆれた。ゆれて、やわらかに戻ってくる。そのやわらかさが自分には足りないなと感じる。
「しません! それよりもぉ、今彼に何もしてあげられないで、捨てられることのほうが嫌です」
「捨てられても誰も恨まない?」
「うらみません! ミストさん、ひどいです」
泣き出しそうな声でうつむくショコラちゃんを見て、私は傷痕の残る手で彼女の頭を優しく撫でた。頭をこつんと突き合わせ、猫をなだめるように声をひそめる。
「ごめんね。捨てられるなんて嘘よ。それに戻ってきたくなったら、いつでも戻ってきて構わないんだから。厚子さんも私もショコラちゃんがいなくなったら寂しくなっちゃうわ。本当は辞めないでいてくれるのが一番なんだけど」
私はおかしいから切る。ショコラちゃんはおかしいから愛する。私の中で普通の人の閾値《いきち》はどんどん下がってきていた。この世の中に生まれたこと、生きているという始点はみな同じだ。世の中の人間が異常だと思って喜んでいることのほとんどは、実は普通の枠組みから抜け出せていないんじゃないだろうか。そんな思いが去来するようになったころ私は手首を切らなくなった。ショコラちゃんもいつかわかってくれるだろうか。わからないだろうか。
ショコラちゃんと私は身を寄せ合ってパウダーみたいなぬくもりに身をゆだねていた。ショコラちゃんが不安で涙のしずくを落とし、私が彼女の頭を抱いてハンカチを貸してあげる。今月のシフトは組みあがってしまっていたから、何をするにも厚子さんに相談して来月からにしようと二人で決めた。ショコラちゃんが仕事を終えて画廊を離れると私はそのまま無人のギャラリーの受付に座り続け、お客さんが入ってくるのと共に画廊の風景の一部になって、紛れた。
私も厚子さんなしでは生きられない時代があった。
一時的にでも誰かに完全に依存しないと駄目な時代が誰にでもあると思う。多くの人は赤ん坊時代に母親とそういう関係になって、私のようにはぐれた人間が大人になってからもそれを追い続けるのだろう。0を1にしようとする本能的な試みだ。厚子さんやショコラちゃんが実際どうなのかは知らない。
この画廊に勤めて、厚子さんに一つ一つ手ずから仕事や絵画のことを教えてもらうのが嬉しくてたまらなかった。仕事を始めてから顔が明るくなったと母親に言われ、偽善者ぶりに哀しくなって、腹が立ってまた手首を切った。厚子さんは私が手首を切ったことを知っても何も言わなかったが、忘れた頃に貯まった給料で一人暮らしをしてみたらといって私を実家から遠ざけてくれた。
ショコラちゃんが人に撫でられるのが好きなように私も厚子さんに触れられるのが好きだ。頭を撫でられたり、肩や腰にぽんと手を置かれるとぞくぞくする。厚子さんと私との間には秘密がある。ショコラちゃんも厚子さんの家族も厚子さんの友人も知らない秘密が。
画廊の白い壁にかけられた抽象画を見つめながら、厚子さんはつぶやいたものだった。
──どうしても生きられなくて、立ち上がれないと思ったとき、私はお腹を切ることにしてるの。本当に切ったりしないわよ。空想でね。真剣に、江戸時代の武士みたいに切腹するの。自分の下から床が真っ赤になっていくわ。濡れたお腹がマグネシウムを焚いたように熱くて、中から切断された内臓がどろどろと引きずり出される瞬間、鮮烈な感覚に頭が焼けつく。生きているって感じるのね。そうなったら立ち上がれるわ。大体のことはできるようになる。
銀座の店で見つけたプレタ・ポルテ(高級既製服)を着て、ボルドーの口紅を塗った唇に微笑を浮かべて。年齢でたるんだ顔の輪郭ですら飾りに見えた。画廊の売り上げで脇差を買おうかと思ったがやめたらしい。二人きりの場所で彼女の嗜好を打ち明けられたとき、私は厚子さんに認められたと思った。
彼女に見つめられ、はしゃぐのも違う気がして粛々とうなずいた。厚子さんは微笑んだまま、うん、とうなずいてまた通常の業務へと戻っていった。ラベルをつけることは簡単だ。でも私はそれを拒んだ。私は厚子さんと対等になるために、あいまいであることに耐えられる強さを身につけたいと初めて考えるようになった。
何年も厚子さんと一緒に仕事をして、時々一緒にお酒を飲み、画廊のこれからを語り合った。仕事仲間から一線を超えない関係。それでも私にとって厚子さんはいつも憧れで、特別な人だった。
私が手首を切らなくなってから迎えた最初の誕生日に、厚子さんはショコラちゃんに内緒で私をホテルのディナーに誘ってくれた。もう何年も前から厚子さんとショコラちゃん以外の人間には祝われたことのない記念日だ。展望レストランの窓際席には一面にガラスが張り巡らされており、眠らない街の光を色とりどりに煌々と輝かせていた。一方で目を凝らせば遥か下の地面を歩く人間の一人一人まで見えた。
厚子さんは、二人席のテーブルを挟んで目の前にいた。
「おめでとう」
にっこりと微笑む。ありがとうございますと返す。運ばれてきたディナーにお互い手をつけながら視線を忍ばせ、何も起こらないと決まっているあやうい雰囲気を楽しむ。何年も一緒にいて相手のことは何でも知っているような気がするのに、ちょっと皮をめくってみると私は彼女について知らないことばかりだ。厚子さんは自らが独身だったこともあり、私に決して結婚の類の話題をふらなかった。
これからも、ずっと一緒に仕事をしていけたらいいなと思っていた。シャンパンと一緒にディナーを済ませると蝋燭を挿したバースデーケーキが運ばれてくる。蝋燭を抜いたら穴だらけになるであろうティラミス。わかっていても蝋燭の色と炎の色が引き立ってきれいだと思った。
「わあ、綺麗」
ウェイターと一緒にバースデーソングを歌ってもらって、火を吹き消した。こんな風に祝福される日がこようとは思いもよらなかった。火が消えると拍手があがり、私は厚子さんから祝福の言葉を添えて小さなプレゼントの包みを貰った。
「開けてもいいですか」
「いいわよ」
品のいい包装紙をなるべく破らないように丁寧に剥がす。中から出てきたのは白金の高級腕時計だった。銀座のどこで仕入れても超一流のブランドであることは間違いない。レディースらしい細く優雅なブレスレット・スタイルに、控えめにいくつものダイヤがあしらわれていた。
こんなにも高い時計を嵌めたことがなかった私には、溜め息が出るほどのデザインだった。
「いい子でしょう。普段遣いでいっぱい使ってあげてね」
はっとした。
時計を単体でしか見ていなかった私は、リストカットの痕が醜いすだれのように残っている自分の手首を思い出して愕然となった。時計にも似合わない手首があるのだ。まるでドレスを着た醜女が滑稽であるように。
「霞」
厚子さんの声が私の心臓を掴んだ。私が思わずひどい顔を上げると、厚子さんは何も言うなと視線で私に訴えかけてきた。それから苦笑してみせた。私をなだめるように。
「いい? なるべく毎日つけるのよ。美しいものを身に着けることに慣れなさい」
「厚子さん」
「大丈夫。あなたは美しいんだから。つけてみせて」
乾いた傷痕の上にこの時計をつけろというのだ。私は厚子さんに見守られ、おそるおそる時計を取り出した。タグがついたままの時計をそっと手首にはめ、胸元にかざす。厚子さんは私の一部始終を瞬きもせずにじっと見つめていた。
とても個性的な手首だった。時計はきらびやかで、サイズはぴったりだ。下地にある傷痕は消えない。私の私たる由縁。
「ほら。やっぱり綺麗。思ったとおりだったわ」
時計のあまりの綺麗さに、不似合いに感じながら私は涙ぐんでいた。厚子さんが傷痕のことを知らないわけはなかった。厚子さんの目が時計だけでなくその下の傷痕までしっかり見てくれていることを、私ははっきりと悟ったのだった。
このまま終わりない日常に包まれて生きてゆく。私は時計を貰ってからしばらくの間、夜になるとパジャマ姿で時計を嵌めて眠った。私と厚子さんとは死に近いところで親和性がありすぎた。時計によって傷痕が存在意義を残したまま封印され、私が生きることに力を向けられるようになるまで。
私は厚子さんと一緒に死を選ぶ妄想を見なくなった。手首に嵌められた時計が夜でもきらきらと、完全に輝いていて、あらゆる不安や死の影から私を守るのに十分役立ってくれた。時計を与えられて数日もすると私は急速に不眠や不定愁訴も起こさなくなり、今までと違う華やかなタイプの化粧も試すようになってきた。
画廊の静かな日々は続く。ショコラちゃんはまだ迷っているようで辞めない。シフト表は次の月も欠員を出すことなく仕上げられ、ルーチンがこなされるとまた翌月分も滞りなく仕上げられた。その月の途中で私は仕事後に厚子さんの手を引き、ギャラリーの近くのビルに入っているカフェへと入った。
「霞、どうしたの」
「いいですから。内緒です」
厚子さんの手はいつも熱が控えめで、握っていて気持ちがいい。私の手首には時計が光をこぼしている。苦笑する厚子さんと一緒に予約してあった席まで向かうと、テーブルではショコラちゃんが誕生日用のホールショートケーキを前にして今にもはじけそうに笑っていた。
「誕生日おめでとうございますぅ!」
クラッカーを鳴らす代わりに二人で目一杯拍手の音を立てた。厚子さんの誕生日だ。厚子さんは、「まあ」と困ったような声を出した後、口元に手をやって照れ笑いを浮かべた。年齢とは関係ない本数の蝋燭に明かりがともされ、厚子さんが二回に分けて吹き消す。私たちは祝福と共にプレゼントを渡した。ショコラちゃんからは椅子に座れるほどの大きなテディベアだ。私からは花束とお財布。「持ちきれないわ」と笑う厚子さんの声が本当に朗らかで嬉しくなった。
「これからも一緒によろしくお願いしますね。私もショコラちゃんもついていきますから」
厚子さんの微笑みに一瞬影が落ちた、気がした。
ショコラちゃんは気づいていない。少し具合が悪いのかもしれない。厚子さんはすぐに笑顔を取り戻して私とショコラちゃんを可愛い子呼ばわりしてくれたが、私は厚子さんを気遣ってあまりパーティーを長引かせないようにしようと内心に決めた。
「厚子さん、大丈夫ですか?」
「え? うん、大丈夫よ。ありがとう」
「え、オーナー具合悪いんですかぁ? 具合悪いんなら今日は早めに切り上げてもいいですよ。また別の日に二次会でも」
「二人とも心配しすぎよ。あなたたちと違って、おばさんは歳をとりたくないのよ」
「えー? ショコラだってもうおばさんですよぉ。高校生が過ぎたら女の子なんてみんなおばさんじゃないですかぁ」
私と厚子さんとでムキになってショコラちゃんをいじり倒す。ショコラちゃんはぎゃーぎゃー叫んでいてもやっぱり可愛い。ショコラちゃんを二人していじっているときの私と厚子さんは友達みたいだ。
私はリストカットや死を忘れた場所で自然に厚子さんと付き合えるようになっていた。誰にも気づかれぬまま、自分でも気づかぬままに。時々振り返ってみたときにわかるのだ。人間の顔というのは普通こんな風に見えているのかと。いつか寂しくなるからという理由でリストカットの記憶も思い出さなくなるだろう。それくらい何者かに守られていると感じた。
私はおそらく、安定し、完結して、厚子さんと遊離した。
誕生日パーティーが終わり、休日をはさんで次の営業日に画廊へ行くと受付ではショコラちゃんがまた花のように座ってスキのある微笑みを振り撒いていた。声をかけて眠っていないのを褒めると、ショコラちゃんは厚子さんから連絡をもらったといって内容を私に伝えてくれた。
「何かぁ、急にお得意どころの画家さんから電話が入ったらしくてぇ。買い付けに行っちゃったらしいんですよぉ。今日はここに寄れないからミストさんにあとは任せるって」
「そう」
従業員が少ないこともあり、私も画廊の閉館処理をするのには慣れている。伝言を了解して私が受付を代わると、ショコラちゃんは帰りがけに私の顔を覗きこんでまたとりとめもない言葉を漏らした。
「ミストさん、最近彼氏さんでもできたんですか?」
ありふれた話題のはずなのに突拍子もなく感じた。つい驚き顔で否定し、どうしてと聞き返すと、ショコラちゃんはあの甘ったるい口調でつらつらといくつかのどうでもいい理由を並べた。メイクが変わっただの料理に詳しくなっただの。
「それに、ほらその時計ですよぉ。あそこのブランドのですよね? いいなあ。彼氏さんのプレゼントだったらショコラの彼氏よりずっとお金持ちなんだなぁと思って」
「ああ、これは……」
厚子さんからもらった、とは言えなかった。ショコラちゃんが同額程度のものをもらっていなければ不平等になるから。こちらを見る目が、妬ましげに見えた。
「……これは、自分で買ったの。高くついたけどご褒美」
「あ! そうなんですか?」
ショコラちゃんの反応はわかりやすかった。綺麗でしょ、と見せびらかすと一緒になって綺麗と誉めそやしてくれた。少し寂しかったけど構わない。ショコラちゃんも彼氏から買ってもらえるといいねと付け足すと、彼女は残念そうに「いつか」と微笑んで猫みたいな仕草をした。
厚子さんは翌日の朝も来なかった。今度はショコラちゃんへの連絡もない。私はショコラちゃんと代わる代わる厚子さんの携帯へ電話を入れたが、返ってくるのはいつまでも留守番サービスのテープ音ばかりでメールが来る様子もなかった。
「何かあったんですかねぇ」
ショコラちゃんが首をかしげ、私は本気で「どうしたんだろうね」と小市民的な考えをめぐらせていた。思考のねじれを拒絶する手首の硬質な時計。自分なりに確立し、まっすぐに生きろという、厚子さんの澱みない声が白金とダイヤの中に固められている。
「個展を中断させるわけにはいかないし、帰りに家のほうに行ってみるわ。ショコラちゃんも何か厚子さんから連絡入ったら教えて」
「ショコラが行きましょうか? 住所がわかるなら大丈夫ですよぉ」
「ううん、いいの。前にも行ったことがあるから」
私はショコラちゃんと別れた後閉館まで画廊に居座り、六時半になって画廊を閉めるとその足で厚子さんの家へ向かった。仕事の手伝いや飲み会のあとの付き添いで何度か訪れた家。銀座から地下鉄を乗り継ぎ、県境に近いある駅で降りて歩く。
オートロックつきマンションの四階に厚子さんは一人で暮らしていた。下のエントランスでインターホンを押すが返事はない。管理人も不在だった。ずぼらな管理体制なのかたまたま来た時間が悪かったのかはっきりせず、私は管理人室のインターホンを押しながらエントランスで管理人が戻ってくるのを待っていた。
手首の時計の文字盤が八時を差して、縁取りをきらきらと輝かせる。エントランスに置かれたベンジャミンの鉢を眺めながら私が壁際に肘をつくと、そのうちサイレンの音が聞こえてきてマンション前にパトカーが停まった。私はパトカーから降りてきた警官がまっすぐにマンションの中へと入ってきて、降りてきた管理人にすぐさま誘われてエレベーターの中に入ってゆくのを見ていた。
通報したのは厚子さんの部屋の階下に住んでいる住人だった。夕食の支度をしているとダイニングキッチンの床に何かがぽたりと落ちてきて、見上げたら白い天井に大きな赤い染みができていたという。驚いて管理人を呼び出し、管理人と二人ですぐ上の部屋に踏み込むと真っ暗なダイニングの中央に誰かが身体を折って崩れ落ちていた。びっくりして駆け寄ったとき足元からぴちゃりと音がして、見下ろすとフローリングの床の上に吐き気を誘う臭いの液体が、黒い池を作っていた。電気をつけると黒かったものは一気に鮮血の赤へと色を変えた。厚子さんは包丁で腹を横一文字に掻っ捌き、切れた内臓をはみ出させたままダイニングの床に崩れ落ちて死んでいた。居間には大きなテディベアのぬいぐるみとブランドものの財布が綺麗なまま放置され、花束がテーブルに置かれたままでしおれていた。
葬式が始まっても私はまだ泣けないでいる。事態を聞きつけ、信じられない気持ちで部屋に踏み込んで動かない厚子さんを見てから。夢中で触れた厚子さんの体がもはやぬくもりを持たず、氷とも呼べないような気持ち悪い冷たさに明け渡されたと知ってから。
理由はわからない。
あいまいなまま生きてゆけと、厚子さんは諭す。手首の腕時計を借りて。厚子さんの死体に触ったときに血がついたはずなのに、もうきれいに脂まではじいて消えてしまった。私はもう死なない。時計をもらう前なら、なぜ置いていったのと泣き喚いて今度こそ後を追ったかもしれない。厚子さんがこれ以上ないほど生死を感じようとしてうっかり引きずり込まれ、死んでしまったことに必死に意味を作ろうとしたはずだ。
だがこの死には、もう意味がない気がした。
一滴も涙をこぼさない私の横でショコラちゃんは喪服姿のまま始終泣きじゃくっていた。私以上に厚子さんがなぜ死んだのかわからないショコラちゃん。厚子さんの美学を理解できないショコラちゃん。かわいそうだった。
夜になっていた。葬式客たちが参列を終えて散会していく中で、私は目を真っ赤に腫らしているショコラちゃんにハンカチを貸してあげた。
「これ使って」
自分自身、どうしてこんなに心が静かなのか不思議なくらいだった。ショコラちゃんはハンカチを受け取ると目元を何度も拭う。
「オーナー、なんで、なんでっ。なんで? なんであんな死に方……ショコラ何にも気づいてあげられなかった……なんで……」
誕生日のときの厚子さんの顔。思い出す。幸せに生きられるようになって、擦り切れて、失われてしまった私の感性。きっと理由がわからないみんなは、厚子さんの死に様に意味を見出そうとする。あんな死に方をしたのだから。そうして勝手に答えを出して、納得して、心の平静を取り戻して、生きていこうと努力するのだ。
「なんでお腹を切るだなんて怖いことしたんだろう。切腹みたいじゃないですかぁ」
「陳腐よ」
「え?」
私はショコラちゃんの頭を抱き寄せ、目を閉じた。線香の匂い。近づいてくる雨雲の匂い。そうして、いつまでも目頭を押さえながら闇の中を透かし見ていた。
なんて陳腐な死に方をしたんだろう、あの人。そう言い切ってやることが一番厚子さんのためになるような気がした。どんなまともな理由もない。あの人は陳腐に、無意味に、一番重苦しい形で死んだ。私と厚子さんとは遊離してしまった。気づけなかったことが心の底から悔しかった。
「意味なんかなかったのに」
死ぬことに意味なんかなかったのに。切ることに、この身を流れる命を感じることに意味はあっても。
たがが外れる。私は感情を制御できず、ショコラちゃんを抱きしめた腕を放すとその場にいられなくなって早足に外へ歩き出した。ショコラちゃんがわけがわからないまま追いかけてくる。どういうことですかという呼び声が夜空に響く。
「ミストさん。ミストさんは生きてくれるんですよね? もう大丈夫ですよね? もう完璧に、治ったんですよね!? もうショコラを置いてかないんですよね? もう手首切らないんですよね? ミストさんは治ったんですよね!?」
思わずかっとなって足を止めた。私は振り向くと、追いついてきたショコラちゃんに何の前置きもせず、彼女の頬を思いきり平手打ちした。手が真っ赤になるほど強い力で叩いたせいで大きな音が鳴り、ショコラちゃんが呆然とする。やがてその両目に雫が溢れ、声が漏れてショコラちゃんが盛大に泣き出す。
「今度また言ったらひっぱたくからね! 二元論は、もううんざり」
怒鳴った途端、涙が溢れて声が詰まった。
私は生きる。厚子さんの後も追わず。ショコラちゃんを伴ったまま歩き続け、泣き続けて、いつしか自分の涙が腕時計を濡らしているのに気づいた。白金のベルトからは磨きぬかれた雫たちが流れ落ちる。後から後からとめどなく光り、手首の傷痕を濯いでゆくのだ。凍みるような新しい痛みと共に。
死んではいけないと思った。
「轍《わだち》」