1945
Chapter3 [2/2]
目が覚めると、私は診療所の壁に座らされていました。もう日がくれかかっていました。多美ちゃんの姿はありませんでした。
私はよろめきながら診療所の中を歩き回り、多美ちゃんの姿を捜します。多美ちゃんは無事なはずだから。信人兄ちゃんについては、内心もう長くないなと思っていたのです。たとえ死に目に会ったとしてもあの姿では口さえ聞けないことでしょう。手だってもうありません。後は私と多美ちゃんとで生きていくしかないのです。
多美ちゃんは思ったとおり信人兄ちゃんの側にいました。防災頭巾を首に掛けたままの姿で座っていたのです。私はその隣りに来て、初めて信人兄ちゃんが腕を両方とも切断されてしまったことを知りました。
私はそっと多美ちゃんの隣りに座りました。多美ちゃんは何も喋りませんでした。すっかり上半身を包帯で巻かれた信人兄ちゃんを見ても、涙はこぼしていないようでした。
「……多美ちゃん」
「お兄ちゃん、まだ生きてるもん」
多美ちゃんはそう呟いて私の膝の上に乗ってきました。体の震えが伝わってきます。こんな小さな子なのに、戦争は容赦を知りません。哀れむ人なんてどこにもいない。
「寒いね……」
私は途方に暮れていました。
こんな時に九十年代のドラマなら「死のうか」なんて言うのでしょうか。不思議なものです。今の私は「死」から逃げ出したい思いでいっぱいなのです。それも、膝の上に多美ちゃんがいるから。
「外人なんかみんな死んじゃえばいいんだ」
思いがけず多美ちゃんから出た凶悪な言葉に、私は現実を取り戻しました。
「お兄ちゃんは何にも悪いことしてないのに。みんなそうよ。みんな、何にも悪いことなんかしてないんだ。悪いのはみんな外人だよ。あいつらみんな死んじゃえばいいんだ。みんな、みんな……!」
「多美ちゃん」
多美ちゃんは切れそうなほどに唇を噛みしめて涙をこらえていました。私は、改めて信人兄ちゃんの無惨な姿を見ながら必死に多美ちゃんをなだめようとしていました。
かわいそうな多美ちゃん。
多美ちゃんの心はきっと何度も家族と一緒に「死んできた」のでしょう。生きていくために、多美ちゃんはきっと他の家族の何十倍もの痛みに耐えていかなくてはならないのでしょう。お婆ちゃんになって死ぬまでずっと。
彼女の凶悪な言葉を私は止めませんでした。ただ、ずっと思いに耽っていました。もうすぐ死んでしまうお兄ちゃんへの思いに。
……「奈津」と私を呼び続け、妹として可愛がってくれた信人兄ちゃん。自分の手を焼きながら瓦礫を持ち上げて私を助けてくれたお兄ちゃん。いつだって、弱音を吐かずに、笑顔で私たちを支えてくれた……。
本当の妹になれればいいと思っていたのに。
「なぜ」
私の両目の端から水がとめどなく垂れていくのです。多美ちゃんはそれを見てとうとう泣き声を上げはじめました。
――なぜ信人兄ちゃんは死んでしまうんだろう。なぜ、私たちはただ生きるという、それだけのために、こんなにも辛い思いをしなきゃいけないんだろう……。
私は元の世界で戦争について一通り簡単には教わりました。こうやって泣いている今この瞬間も外人は日本人を殺し日本人は外人を殺しているのだということを。悲しみは戦い続ける全ての国の人にあるのだということを。この悲しみは誰にも平等にあるって。
でもあの時は目の前に瀕死の家族なんていなかった!
「……お兄ちゃん、これじゃ無駄死にだよ……!」
歴史観念なんて最初から頭にないのです。ただ包帯に巻かれて腕の焼け落ちた信人兄ちゃんが、声も出せずに私たちの前に転がっているだけなのです。これで人は平等だなんて言える方がどうかしてる。
「お兄ちゃん、返事してよ。お願いだから何か言って。私たち、ここにいるから!」
掴む手さえあれば、お兄ちゃんが息絶えるまでずっと握っていてあげたかった。お兄ちゃんが生きようとする限り側にいてあげたかった。
多分お兄ちゃんはもう目を覚まさないでしょう。今動いてる心臓の音もとても小さいのです。それでも多美ちゃんはいつまでも叫び続けます。
――「まだ生きてるもん」と。
歴史の年表ならたった一行一ページにすぎません。でもそれで割り切るには、この世界はあまりに切ない。
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