鎖とその男に関する記録
Chapter3-1 [2/2]


 叩きつける雨に洗い流されて、垢が落ちていく。マリノの顔は四年の間に脂ぎった醜さがすっかり抜けて気品だけを残していた。優美ささえ漂っているような気がした。タオはこの悪名高い男に魅せられていた。プライドの裏の脆さ、素直さに盲目になっていた。
「家へ案内しろ。新しい服が欲しい。それから身なりを整えてくれ」
 何の代償もない勝手な命令さえいとおしい。彼女はそれにうなずくと雨の中を歩き出した。
 奇妙な光景だった。奴隷たちは自由の喜びで舞い上がっているというのに、この二人は何の抵抗もなく古い身分の中へ身を投じていく。踊る奴隷たちを横目に見ながら、小さな家へと歩いていく。
「身分が無くなるはずなどあるまい。主人なくして奴隷は生きられないのだから。お前もそう思うだろ、タオ?」
「……私は貴族なら誰でも仕えるわけではありませんわ。あなた以外の方には、私も自由でありたいと思っています」
 小さな意見の相違。
「まあよい。礼を言うぞ」
 マリノはそれでも満足だった。たった一人でも家来がいてくれるのは、それまでの四年間を思えば実に頼もしい限りだった。

* * * * *


 反乱軍の中では酒宴が行われていた。
「ははははは! もっと祝おう!」
「おい、飲み過ぎるなよ」
 四年経ってもカドゥーミとバールはやっぱり変わらない。彼女の方は仲間たちと大酒を喰らい、彼の方はほどほどに、といった調子である。
「ヴィークラムは飲まないのか?」
「俺は下戸なんでな。……ちょっと一人にしてもらえねえか? ヘトヘトなんだ」
「そんなこと言ったってなぁ……。今はどこへ行ってもお祭り騒ぎだしなぁ。大体お前代表なんだから付き合えよ」
 バールが特上品の酒を突き出して口元で笑う。
「今夜の酒は格別美味いぞ」
 微笑のあと、それでもヴィークラムは手をひらつかせて酒宴を後にした。
 道にいる人々が次々に彼を称え、酒宴の中へ誘おうとする。英雄の登場を酒の肴にしようとする。まったくもって人々のイメージというものは恐ろしい。まるで神様のように彼を拝みだす人を見るたびに、ヴィークラムはぞっとした。
「頼むから一人にしてくれ」
 そう言って自分にあてがわれた部屋に閉じこもり、彼はやっと息をついた。
 奇妙な光景だった。彼にあてがわれた部屋はかつての王族の、それも王の部屋だったらしく……自分たちで占領したとは思えないくらい贅沢な調度品が置かれている。あまりに何もかも高級過ぎて落ち着かない。
「明日になったらこんな部屋は全部ブッ壊そう……眠れやしねェ」
 ヴィークラムはいまいましそうに超高級なベッドの上に倒れこんだ。絹の中にきっと高価な鳥の羽でも入っているのだろう。実に優しく体が沈んでいく。自分の身の上を考えるたびに彼は思う。運命というやつは物好きだ……と。
 本来、彼は代表になどなる気は全く無かったのである。彼としては前線で戦い続けようと思っていたのだ。確かに始めのうちは前線にいた。生まれてから働き詰めで何も知らない奴隷たちの中で、平民出の彼の機転は初期の勝利に大きく貢献した。しかしそれはやがて彼に人望を集め、次第に高い地位へと押し上げていった。……彼の意思に関わらず。
 挙句の果てが数十万のてっぺんである。
「何で俺が偉くならにゃいかんのだ」
 ヴィークラムが愚痴を吐くと、こつこつと扉を叩く音がした。
「一人にしてくれ!」
 少し声を荒げると、音がやむ。
「それじゃ、後でみんなのとこへ来てね。これからのこと話し合うって」
 残念そうな声である。
「……ちょっと待て!」
 ヴィークラムは重い体を起こしてドアを開けた。
「悪かった。疲れてたんでな」
「いいの。おじさんは頑張ったもの。疲れるほうが当然だわ」
 七年前のすすけた髪はすっかり長く美しく伸び、小さかったはずの背はいつのまにか大人と同じところまで高くなっている。
 年月は誰より彼女を変えた。
 十七歳のセフェリはもう少女ではなかった。
 ヴィークラムと彼女の関係はその後も限りなく「家族」に近いもので、周りは二人のことをすっかり親子だと見なしている。セフェリといる最近の彼はどうにも「父親の哀愁」が漂っているような気がしてならない。
「これでやっと普通に暮らせるんだね」
 セフェリの微笑みを見て、やっと彼は肩の荷が降りたような気がした。それは何よりも彼に平和の訪れを知らしめた。
「そうだな。もうお前も奴隷扱いされなくて済む」
 すっかり大きくなった「娘」の肩を叩き、部屋の外へ出る。
 出会ってから七年が経つ。
 ヴィークラムは今、三十七歳である。

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