鎖とその男に関する記録
Chapter3-6 [3/3]


「さあ、今日はこれを食べてもう寝よう。明日のことは、明日だ」
 彼はしなびた小さなゆでイモをさらに半分に割って――正確には、半分に割ったうちの大きいほうをタオにやって――それをタオといっしょに食べた。
「マリノ様、皮と芽のところは食べないでくださいね。毒がありますから」
 彼女は少しずつイモを食べる。塩が効き過ぎてしょっぱい。
「失敗作だな」
 マリノは全部食べてからしょんぼりしてタオの顔色をうかがった。
「おいしいですよ。とても」
 なぜか彼女はにこにこしながら食べている。
「お前塩辛いのが好みなのかい?」
「そうじゃありません。マリノ様が作ってくださったのが、嬉しかったからです。本当にありがとうございました」
 彼女は皮を皿に置くと、ぺこりと頭を下げてから布団に潜りこんだ。マリノはそれを台所に戻し、それからタオに気取られないようにもう一度だけ食べ物を隅々まで探してみた。
「まったく、私もどうかしているよ」
 もう何も残っていなかった。しかしそれを顔に浮かべたくはない。
「タオ、おまえは昔の暮らしに戻りたいかい?」
 マリノは急にそんな質問を投げかけて彼女の隣に寝そべった。
「マリノ様は戻りたいのでございましょう?」
 タオはいつもそう言う。家来としては当然の返答といえた。
 いつもそうだ。家来はみんな主人のご機嫌をとるように教育されている。マリノは不意に虚しい気分に襲われた。
「本当にそう思うか?」
「え?」
 彼女が困惑した顔になると、彼は毛布の中に入って手をつないだ。
「目をつぶって聞け。寝てもいいから」
 彼女はますます混乱したが、それでも言われたとおりに目をつぶってうなずいた。
 しばらくの間、沈黙が続いた。
「……私は貴族として生まれ、何の不自由もなく育てられた……と思う。あの環境が普通で、こんな暮らしは劣悪だと思っていた。人々はみな華やかな服を着て、暇を持て余して茶を飲み、くだらない話にふける。そういうものだと思っていた」
 手に力がこもるのがわかる。手が自分に「寝ないで聞いて欲しい」と言っている。
「……だがこのむなしさは何だ? 金と権力を失ったら、お前しか戻ってこなかった。私はあらゆるものを憎み、憎しみを心の中で火にくべて生きるしかなかった。あの暮らしに戻ったら、私は同じことを繰り返してしまうような気がする」
 沈んだ声だった。いつもの得意げな口調ではなく、飾り気のない声だった。
「結局一番大切なことは、あの暮らしの中には見つからなかった。私は何もかも失ったら、自分のこともわからなくなってしまった」
 手を握り返して「聞いていますよ」と応えると、向こうも握り返してきた。
「私はとんでもなく無力だった……。一番大切なことは、ここにしかなかった。 もうあの生ぬるい棺桶には……二度と帰りたいとは思わない。かといってすぐにはこの気性を捨てられそうもない。また貧しさに音を上げて戻りたいと言いだすかもしれない」
 あまりにも弱気な声は、そこで途切れた。
 しかしマリノは何度もタオの手を握る。
「……マリノ様。私はそれでも構いませんわ。他には何か……?」
「……いや、別にいい。……おやすみ」
 何かつっかかった声だった。
 タオは眠ってしまった。しかしマリノは眠れずにいた。
 たった一言が言えなかった。思いの半分も伝わらなかった。
 彼は自分が貴族だったということを心底後悔した。たったで一言でいい、「すまない」と謝りたかった。けれどもすんでの所でプライドが邪魔をする。言ったが最後、自分の「家来」はいなくなって、この手もほどけてしまうのではないか。
 たった一人の人間にさえ心を許せない。
 そんな自分が無性に悲しかった。

 翌日タオが起きてみると、マリノの姿は消えていた。枕元に水がコップ一杯置いてあるだけで、何もなかった。

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