鎖とその男に関する記録
Chapter3-7 [3/3]
マリノはイモを握りしめた手を雨に濡れた地面につけて、初めて深々と頭を下げた。雨と跳ね返る泥水に体が汚れるのも構わずに、通りの人々の目の前で、初めて土下座した。
「お願いします、お願いします、お願いします!! 働かせてください!!」
人々の視線を屈辱と思う暇もなかった。
ほとんど夢中で叫んでいた。
「どうしても死なせたくない人間が家で待ってるんです!! たった一食分でいい、私に食べ物を買う金を作らせてください!!
……お願いします……!!」
一瞬の静寂があった。
「……おい、雇ってやれよ。俺ここの商品買うからさ」
人々は静かに、しかし暖かく集まってきてその店の商品を買っていく。土下座したマリノの上をささやかな好意が通り抜ける。店主はそれを見て肩をすくめた。
「兄ちゃん、顔を上げてくれ。お客様のご要望とあっちゃ雇うしかねえやな」
彼が顔を上げると、人々は微笑んでいた。
今までさげすんできた人々の顔を、彼はその時初めて痛いと思った。
* * * * *
夜の町々の灯火の中を、男が駆けてゆく。
「ほれ、早く奥さんのところへ帰ってやんな」
マリノは数時間の労働を経て、ようやく腕いっぱいのイモと果物を買うことができた。初めて働いて稼いだ金を全て食べ物に変えてしまったことにも後悔はしなかった。これでもうタオが飢えて死ぬことはないのだと心の底から安堵している自分。
辛くなかったとは言わない。ただ、生きている感じがした。
早く帰ってタオに今日のことをいろいろ話したい。働くということが、周りの人間に混じって生きていくということが、どんなことなのか、思いつくままに聞いてもらいたかった。タオを寝かせるのはそれからにしよう。自分は頭を下げる仕事にはあまり向いていないようだから、しばらく資金を貯めたらそれこそ彼女の言ったとおり私塾を開くというのもいいかもしれない。きっとそうなったら楽しいに違いない。タオも過労で倒れることもなくなるだろう。
灯の消えた家の戸をそっと開けると、タオは眠っているようだった。マリノは彼女を起こさないようにそっと家の中に入ると、そのまま腕いっぱいの食べ物を抱えてタオの側へと寄っていった。タオが起きた時にどれだけびっくりするか今から楽しみでしょうがない。タオの目につくところに食べ物を並べて、家のランプにそっと灯をつける。
家の中がぱっと明るくなって、タオの姿がくっきりと家の中に現れた。マリノは忍び足でタオの方へと寄っていき、彼女の体をそっと抱き起こした。
「タオ、起きろ。イモ買ってきたぞ」
「……タオ?」
タオは、待ちくたびれてしまっていた。灯のない家で彼女は最後まで主人が帰ってくるのを待っていたけれど、彼の声に合わせて目を覚ますには彼女はあまりにも疲れ果ててしまっていた。
「イモ買ってきたぞ」
マリノは同じ呼びかけを何度も続ける。彼女の体はまだ温かかった。たった一言「お帰りなさい」でも「ありがとう」でも「嬉しい」でも何でもいいから、
何も言わなくてもいいから、笑ってほしかった。
次章[#] 前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴