鎖とその男に関する記録
Chapter3-9 [2/3]
マリノ・マリーニは彼にとって憎むべき敵の象徴である。金と権力の名のもとにセフェリを辱め、自分たちを殺そうとした。はっきり言ってもし本当にマリノがこの城へ入ってきて、セフェリやバールやカドゥーミがそれを見たら迷わず彼を殺すだろう。自分でも場合によってはやりかねない。
ヴィークラムは正面扉以外の扉にすべて鍵をかけ、刃物の類を他の部屋に移して大きく深呼吸した。これから会うのは一国民である。私情を持ち込んでは王の役目を果たせない。
扉をたたく音がした。こつこつと、落ち着いて二回。
「入れ」
扉がゆっくり開いて、平民服を着た質素な風貌の男がかしこまった足取りで玉座の前まで歩いてきた。
「ご機嫌うるわしゅうございます。久しぶりにお会いできて光栄です、陛下」
見かけこそ変わったが、完璧な礼儀作法といい、そこから生まれる皮肉といい、マリノ・マリーニ以外の何者でもなかった。それにしてもあのマリノが自分の下にひざまづいているというのも何だか嘘臭い。身の危険を冒してまで彼がここに来た、その本意が掴めない。
「久しぶりだな、マリノ。あんまりてめェに構ってると何もしねェで返せる自信が無くなってくるんでな。用件だけ聞こう」
ひざまづいていてもなお余裕を漂わせる男だった。城の調度品はヴィークラムよりもむしろ彼に合うようにできていて、平民服でもそれがわかった。
「それでは単刀直入に申し上げます。陛下は部下の犯した汚職にお気づきになられましたか?」
ヴィークラムは眉をしかめた。この男が放つ言葉は、いつも何かしら毒があった。
「汚職?」
「左様、汚職でございます。薬を独占し値を吊り上げている輩がいるのです。陛下は税金で薬を安くしようとなさったそうですが、はっきり言って今のところ無駄です。私共”平民”風情にはまだ薬が買えない」
――目を瞠った。
マリノが自分を平民呼ばわりしたのである。プライドが鼻につく口調はそのままに、彼はあっさりとそう言ってのけた。その鮮やかな変わりぶりはヴィークラムにとって予想だにしないものだった。
「なるほど、それはわかった。だが何か証拠はあんのか」
「薬屋の証言と私の経験が証拠でございます」
「経験?」
「左様。何せ旧知の人間でございまして」
マリノは笑わなかった。昔ならここで冷笑したに違いないが、彼は目を伏せて余計なことを言わないようにしている。
嫌な予感がする。
「誰だ? そいつは」
彼はしばらく間を置いて、それから茶化すこともなくこう言った。
「ビンラオ・キジキスという男です。今のキジキス家の当主にあたります」
ヴィークラムは息を呑んだ。
「本当か?」
「嘘をつけば私が殺されるでしょう?」
バルガスという苗字で呼ばれていた頃。
月に数回しか行かないマリーニ邸の庭で、ほんの数回だけ記憶の片隅に映っていた男の姿を、ヴィークラムは今こそ鮮明に脳裏に蘇らせる。
マリノに薬を売りつけていた卑屈な薬屋だ。
話をしたことすらなかったのに、あのヘコヘコした仕草をいつまでも憶えていた。それはバルガスと呼ばれたマリーニ家お付の鎖職人の記憶。非道な主人の所業を知りつつ、金と、身分と、権力の前に屈していた。もう一人の自分の記憶。
冗談ではなかった。確かに言われてみるとキジキス家には商才があったし、縁談を足がかりにして本来の薬関係の事業をさらに拡大している節もあった。実権は当主がそのほとんどを握り、息子は半ば傀儡として父の事業に加担していたと聞く。だがマリノの話が本当ならば……十中八九間違いないだろうが、キジキス家の信用は地に堕ち、当主は裁かれ、結婚は当然ご破算ということになる。
ヴィークラムには重い決断だった。王としてその汚職を許すことはできない。私人としてセフェリの思いを踏みにじったキジキス家が許せない。……だが、息子には、彼女の選んだ相手には、咎はないと信じたかった。
父親として、それができるのだろうか?
娘のようやく手に入れた幸せを取り上げることなどできようか?
思いを区切れよく分けることができたらどんなに幸せだろう。動悸がする。目の前の男がつくづく嫌になってくる。どうしてマリノ・マリーニという男は不幸ばかり運んでくるのだろう。昔は笑いながら自分たちの生活を踏みにじった。金と身分と権力を失った今でも、彼は自分たちを効果的に苦しめる術を知っている。
「楽しいか、マリノ……?」
「陛下?」
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