Credo
Chapter4 [2/3]


 由加里を抱きしめる体の中に過去が溶けこんでくる。
 若い日の大介と由加里は同じように孤独だった。精神的にぼろぼろになった大介の手を引きながら、由加里は自分の家の中が荒れているという話をした。両親の不和。夫の浮気を疑いながら精神を病んでいく母の姿。あっさりとした口調で。
 ──ねえ。こうして手をつないで歩くでしょう。そしたら嫉妬しないかな。大介さんの好きな人も、私の好きな人も。みんな心配して大声で喚くのよ。そうなったら、いいのにね。
 振り向いた由加里の儚い微笑みを前にして、魂の似姿を見た思いがした。今すぐ彼女を路地裏に引きずりこんでずたずたにしたいという欲望に駆られ、自己嫌悪で自らを責めさいなむ。あの男にやられたことの反復になるだろう。初めて抱き潰す彼女の体と心はどれだけ柔らかいだろう。あの男はどれだけ娘の悲劇を悲しむだろう。自分はどれだけ気持ちいいだろう。どうせこの肉体は世界の裏側にとらわれ、もう二度と戻れないのだから。
 ──由加里ちゃん。もう俺たち、二人きりで合うのはやめような。俺たち別に付き合ってるわけでもないんだから。
 邪な考えを知られる前に繋いだ手を離した。
 散文的な時間の流れ。たくさんの事柄が保留されたまま、一秒ごとに新たな現実を上へ積み重ねて変質していった。大介は数日後に小峰百合雄から別れを切り出され、別れたくない一心でジョーカーを切った。「別れたら由加里を強姦するぞ」と。一瞬小峰百合雄の顔が無感情な気味の悪い顔になった。彼は部屋を出るのをやめて大介のところへ身を翻すと、安堵して背中を見せた大介に後ろから花瓶を叩きつけた。
 あの日、頭から血を流して朦朧となりながら初めて見た百合雄の顔を大介は覚えている。逆鱗に醜く血走ったまなざし。自分の上に乗りかかってきた体の重さ。あの時は彼が自分の首を絞めたという事実が全てを物語っていた。鮮やかな苦しみと共に青年の中で信仰が潰えてゆく。いや、もともと彼の信じていたものは完全な神などではなかったと、思い知らされただけだったのかもしれない。
 百合雄は自分を殺さなかった。ぎりぎりのところで自分を見捨て、殺す価値もないと言わんばかりにして去っていった。殺されかけながら大介は、ただ、「生かされた」という感想しか持たなかった。
 胸の空洞の中に過去を思い出しながら、大介は敬虔な気持ちで暖かく由加里の体を抱き続けている。
「別にいいわよ。今ならあなたと寝ても」
 穏やかな声が官能の琴線ぎりぎりを通る。互いの体の引力に逆らい、大介は首を横に振る。由加里の声が震えて体が強張るのが全身に感じられた。
「何で父もあなたも、そういう回りくどい愛し方しかできないわけ。左手で傷つけて右手で庇うみたいな……強くなろうとしてたって、今はまだこれでいっぱいいっぱいなのよ」
「わかっている」
 愛しながら、喜びよりもはるかに多くの痛みや苦しみを与えてゆく。大介はあの時も今も由加里を抱けなかった。欲しいという気持ちより、彼女にこちら側の歪んだ地平へ来てほしくないという願いがいつも彼の中で絶対的な勝利を収めていた。
「向こうで娘が生まれたとき、君の名前をつけた。ゆかりって名前は俺にとって冒すべからざるものの代名詞なんだ。
 俺は間違っていなかった」

次[#] 前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴