Disk1
5:May Plecia [2/2]


 十一月十五日、メイは娘の手を引いてワシントン国際空港に来ていた。
「プレシア様……ですか?」
 内心びくびくしながら搭乗手続きをしたが、特に怪しまれた様子はなかった。娘は何も知らずにはしゃいでいる。メイは搭乗手続きを済ませると、娘を連れてレストランに入った。

 娘を利用する。嫌な響きだったがメイには他に術がなかった。娘がひろげたコンパクトの中身からヘアピンを取って、裏に黒いチップをつける。無邪気な娘の笑顔が罪悪感をいやがおうにも掻き立てた。
 それから出国手続き。パスポートを持つ手がこわばった。審査官はメイの顔をじろじろ見ている。
「どうぞ」
 そう言われるまでが長かった。彼女は審査官から逃げ出すようにして早歩きで立ち去った。

 飛行機の座席に着いてメイは身体の力がすっかり抜けてしまった。今になって自分がどれだけ気を張りつめていたか、ようやく思い知らされた。
「お母さん。あの車、ちゃんと逃げていくね」
 離陸準備が始まったらしい。彼女は娘と一緒に窓の外を眺め、離れていく車が今までの不幸を連れていってくれるのを安堵の目で見送った。この飛行機が陸を離れてさえしまえば、自分と娘は安住の暮らしを手に入れたも同然だ。これで楽になれる。
 乗務員のアナウンスが入る。もう大丈夫。もう怯えなくていい……
「プレシアさん」
 ――血の気が引いて、視界が狭くなった。通路に「誰か」いる。
「プレシアさん。申し訳ありませんが、こちらへご同行願います」
 低く、落ち着いた悪魔の呼び声。何かが脆く崩れ落ちていった。



 白い無機質な壁と、今座っているパイプ製のイスと、二人の黒服の男たち。それ以外何もない部屋だった。
「あれをどこへやった!」
 血気盛んな方の一人が耳元で怒鳴る。メイが答えずにいると、もう一人の冷たい目をした男が端的に言った。
「そうですか。お嬢さん、どうなってもよろしいんですか」
 メイは目の色を変えてうろたえた。
「や、やめてください! あの子は何も……」
「じゃあどこにあるか言うんですね」
 声の冷たさに息が詰まる。彼女は状況がいかに絶望的か噛みしめるたびに震えていた。
 ――どうして私だけが、こんな目に遭わなきゃいけないの……?
 男たちの存在感が胸を圧迫する。逃げられそうにもなかった。緊迫した無音の時間が延々とたたずんでいた。男たちは何もしない。ただ立っている。いつまでこの身体が持つだろう。救いの手はない……。
 ドアを叩く音。入ってきた男は笑み一つ浮かべない。喋ったのは彼の手の黒いチップのように思えた。
「あんな所に隠してあったとはな」
 メイは息を呑んだ。娘の姿が頭をよぎった。
「お願い、あの子には手を出さないで!」
「じゃあ言え。どこに雇われた?」
 どこに?
「……わからないわよ……」
 誰にも、わかりはしない。
「……おねがい、……あの子を……返して……」
 このくるしみは。
「そうか。もうお前に用はない。……来てもらおうか」
 メイの手は手錠の冷たさに縛られた。心の中に鍵がかかった。
「……あの子にはもう会えないの?」
「ああ。あの情報に関わった以上はな」
 彼女が何か言おうとした瞬間、横から銃が突きつけられた。
「空港にメイ・プレシアと言うS級政治犯がいると今朝密告が入った」
「……!」
 冷や汗が、したたった。
「メイ・プレシアという人間は利用され、売られ、娘と共に……」
 ――娘と、共に?
 なんてひどいことを
「今消され」
 小さな銃声。「た」の発音は聞こえなかった。自分が床に倒れる音がする。肺に血が満ちてきて、息ができない。
「……どうして……わたし、たちが、……こんなめに?」
 耳が熱い。答えが聞こえない……
「……どう、し、て?」
 答えはなかった。

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