Disk1
7:Houmei Kim [2/3]
煙草の煙がたちこめる薄汚れたバーだった。男はホウメイと一緒にカウンターに座り、安い酒をおごってくれる。
「そういえば未成年だったっけ? ジュースにするか?」
「平気です。一緒に飲みましょ」
テーブルに置いた標本には「オオムラサキ」という小さなラベルがついている。紫の羽がイブニングドレスのように美しい。
「中国にもこの蝶います。懐かしいです」
「そう。どうしてアメリカに来たんだい?」
「お金を稼ぎに。英語が少しできるから……」
男は彼女ののろい英語をゆっくり聞いてくれる。彼自身の英語はとても発音がはっきりしていて聞きやすかった。
「出稼ぎか。でも、何も水商売じゃなくてもいいんじゃないか?」
彼はごく普通の良識人のように思える。そんな台詞を自分にかけてくれるから。だけど……
「堅気の仕事探して、早くこんな仕事はやめた方がいい。今ならまだやり直しがきく」
……だけど、この人に何が解るというのだろう……。
ホウメイは、感情をその場に押し殺してしまった。標本の蝶の顔になってしまった。
「綺麗言で生きていける生活って、楽しいでしょうね」
男が言葉を失う。
「やり直しのできない傷ならもう数え切れないほどあります。でもそうしなきゃ家族が生きていけないんです」
笑わない娼婦の顔。
男はそれ以上説教がましいことは何一つ言わなかった。酒を飲み干すまで、どれだけ長い時が流れただろうか。男は名刺を取り出して裏に何か書いている。
「一応渡しとくよ。何かあったら電話してくれて構わない。裏はポケベルのナンバーだから」
ホウメイは名刺を受け取ると男の顔を見た。
――米軍研究所研究員、ジョージ・ユーグリッド。
「ユーグリッドさん?」
「ジョージでいい。君の名前は?」
「……ホウメイ。ホウメイ・キム」
私に普通にしてくれるひと。顔には出ないが、それだけで嬉しすぎるほどだ。
「じゃあな、ホウメイ」
慣れないアルコールのせいで顔が赤かった。ジョージはその顔を笑って、そのまま帰ってしまった。
「今年のクリスマスは研究所に来いよ。この近くにあるから、君も知ってるだろ?」
ホウメイはすっぴんのまま買い物袋を抱えてうなずいた。ジョージは夕方にも顔を見せるようになっていた。彼の気安さも、ますます深くなったような気がする。
「いいんですか? 私なんかと……」
「おいおい、『なんか』なんて言わないでくれよ。俺は一人でいるより君といたいんだから」
こんな台詞には慣れているはずなのに。このひとはあっけらかんと正直に言ってのけるから怖い。
「ホウメイは素顔の方が似合ってるよ」
ジョージはそれだけ伝えるためにわざわざ来たらしかった。
「化粧してると赤いほっぺたが見えないしな」
ホウメイはないことに慌てて、買い物袋で顔を隠した。
十二月二十三日、クリスマス前日。ホウメイは今まで少しずつ切りつめて貯めたお金で、新しいベージュのワンピースとプレゼントのマフラーを買った。
本当は客を取るのが耐えられなかった。それでも、家族にクリスマスプレゼントを贈るために仕事をした。酔っぱらいや金をちらつかせてへらへらしてる若者。
「おら、早く脱ぎなよお嬢ちゃん。金欲しいんだろ?」
夜の蝶だなんてとんでもない。ただただ痩せぎすの身体をさらすだけの商売。標本の蝶の方がまだましだ。
「俺も明日はクリスマスだってのにさ、どうしてここにいるかわかる? 慰みが欲しい時期なんだよねえ」
金で慰みを売り買いすることのむなしさ。万民の幸せなんて、祈るだけのもの。
……明日だけは私もジョージさんといられるんだから。明日だけは、明日だけは……
見知らぬ男たちに売るのは娼婦の身体だけだ。いくら積まれても、金で心は売らない。
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