夢の最果て
Chapter1 [4/4]
「アイも歪んだ時代になっちまったなあ」
「アイって?」
「……何だお前。アイを知らないのか」
「うん。爺ちゃんが嫌いだって言って教えてくれなかった」
クローブはそれを聞くと爺さんの思いを理解したのか、ヒスイには何も言わずにそのままいつもの大きな歩幅で先へと歩を進めはじめた。爺さんほどではないにしろ、クローブもまた「アイ」があまり好きではないのかもしれないとヒスイは思った。
「クローブさん待ってよ。アイって何!」
海と共にヒスイの前から消えた言葉。
「それもゴミか何かなの?」
「……そうかもしれない」
ヒスイが見た背中の向こうでクローブもまた迷っていた。
自分は何のために海を目指して歩くのか? 歩き続けることをやめたりはしないけれど、果たしてこの旅の終わりはいつ来るのか。そしてこの旅は一体誰に対してどんな意味を持つのか。クローブも大人であると同時にまた一人の若者だった。幼いヒスイほど無垢ではないかわりに、彼の内面は深海の如く底が見えない。自分が旅を続けること自体に疑問はないとしても……。
「ねえクローブさん。クローブさんのポーチにはどうしてそんなにたくさんの耳が入っているの」
以前ヒスイはそんな質問をしたことがある。クローブはめったに悲しい話をしなかったけれど、ヒスイに耳のことを訊ねられた時だけは違った。クローブが持ち歩く耳にまつわる話はヒスイが聞いた話の中で一番悲しいものだった。
それはかつて海を目指していたキャラバンの話。
海が消えてからも彼らは海を探して、ゴミの大地の上をラクダを引いて歩き続けたのだそうだ。絶望しかなかった故郷より明日に賭けた人々。海への道標は極めて細く頼りないものであったけれど、誰も故郷へ帰ろうとは言わなかった。彼らの顔は立ち寄るどの町の住人のそれよりも強くて、まなざしはみな蒼くて、どこか必ず明るかった。大人は子どもたちに古えの世界を語り聞かせ、子どもたちはみなそれを信じた。子どもたちはやがて大人になり自分の子どもたちに同じものを伝えていった。
どこかに海が必ずあると信じていたキャラバンの人たち。彼らは歩き続けることを決してやめなかった。一人また一人と力尽きて死に絶えるまで、ずっと。
「みんな死ぬときは綺麗な顔をしていた。生きている間は辛いことばっかりだったってのに、何であんなにやすらかな死に顔になるのか……俺は不思議で不思議でたまらなかったよ。それで残った奴らは死んだ奴の耳を削いでまた旅を続けるんだ。子どもはその時後ろを振り返ってはいけない。誰もその理由は教えてくれない。いつか子どもが自分で悟るその日までな」
海なんてどこにも無いんじゃないだろうか。
キャラバンの人間たちがその疑問を持たなかったわけではない。むしろ彼らは誰でも一度はその可能性を考え、ゴミの大地の中で立ち止まる。そして旅の意義を自ら掴み取って進んでいくのだという。
「クローブさんも一度は考えた?」
「考えたよ。旅をやめようかと思ったこともある」
家族も友人たちも恋人も、みんな死んでしまった。誰もがまだ見ぬ海の存在を信じていた。みんな自分の命より大切なものがあると信じて疑わなかった。クローブがそれを「大切な人の命なんじゃないのか」と訊ねてみても、返事はなかった。答えは沈黙の中から自分で掴み取るものだと言わんばかりに。
「俺が一番強かったから最後まで生き残った。それだけのことだ。両親が死んでいって、兄弟が死んでいって、恋人も死んだ。最後に親友が死んだ。……俺は最後に親友の耳を削いだよ。そうして最後に後ろを振り返って」
言葉は不意にそこで途切れた。クローブはすまなそうにヒスイの顔を見ると両目を閉ざして静かに首を振り、それ以上ヒスイに何も見せようとはしなかった。
クローブの胸に静かに収まっているいくつもの死。崇高で言葉にできない彼らの死とて、自分が力尽きればそれまでだとクローブは言う。
「それまでじゃないよ。おれが伝えるよ」
ヒスイがそう言った時クローブは心底嬉しそうだった。
「ありがとう。でもな、だからといって旅は終わらない。俺は歩き続けにゃならんのだ」
お前にも、いつかわかるよ……クローブのその言葉はとても深くて、けれんみのない音をしていた。
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