夢の最果て
Chapter3 [2/4]


 ほぎゃあ。ほぎゃあ。ほぎゃあ……。



 生きるためなら



 生きるためなら……。



 死をめぐる狂気の記憶があった。
 自分の命の下に積み重なった命の存在をクローブは知っている。
 最後に後ろを振り返ったあの日から



 その時、昇り始めた朝日の中でヒスイは確かに見た。サンゴを見つめるクローブのまなざしから体温がどんどん無くなっていくのを。
 クローブ自身が意図的にそうしたのだ。生き延びるために。
「サンゴを捨てていく」
 それは悪魔の決断だった。そして、クローブならそれができることをヒスイは他の誰よりもよく知っていた。
「嫌だ」
「三人共生き延びたいならそうするしかない。二つしかないマスクを交代でつけても町に戻る前に共倒れになる。サンゴ一人なら最低でもケモノに喰われることはない」
「嫌だ!!」
 我が儘な子どもがだだをこねているだけなのか。ヒスイは自分のマスクをむしり取ってサンゴにあてがうと彼女を強く抱きかかえ、血が流れたままの右足を引きずって二・三歩後ずさった。
「死ぬなら俺が死ねばいい。こいつを犠牲にするくらいなら死んだほうがましだ」
 暗い火花。若すぎる台詞がクローブの記憶をかすって激しく爆ぜる。何かが彼の理性のタガを外し、眠っていた奔流のような怒りを蘇らせるのがわかった。
 何の躊躇もなかった。彼はサンゴを無理やりヒスイからひっぺがすとそのまままるでゴミのようにその辺へ投げ捨て、さらに掴みかかってきたヒスイを容赦なくゴミの上に殴り倒した。ヒスイはクローブに真剣に殴られるのも初めてなら、クローブが逆上したのを見るのも初めてだった。
「今死ぬって言ったか」
 死ぬって言ったかよ。おい。
 ……手負いのヒスイをクローブは殺す気で殴り続けた。マウント・ポジションをとって上からのしかかり、無我夢中で身を守ろうとするヒスイの腕を折らんばかりの勢いだ。朝日が二人を無視してどんどん昇ってゆく。
「お前死ぬことがどういうことか解ってんのか? 人の死ぬところなんぞ知らんくせに、お前は今自分が死んでもいいって言ったのか」
 だったら今死ね。俺が殺してやる。
 気がつくとヒスイは必死でクローブの攻撃を逃れようとしている。口の中が切れ、飲み込みそうになった血を咄嗟に目の前のクローブに吐き出した。無数の鮮血が一瞬宙を彩ってクローブの目を潰した。
「俺だって死にたくねえよ!!」
 叫んだ後に思いきり吸いこんだ腐敗ガスの圧倒的な不味さ、苦しさ。この世界のどこにも澄んだ空気などありはしないがそれでも澄んだ空気を求める肺。こんな時どうすればいいか、何もかもヒスイは目の前の男から見て学んだ。巻き込むようにして無理やりポジションをひっくり返し、クローブの襟元を掴んでたぐり寄せ拳で喉を潰す。むせ返ったクローブから逃れたヒスイは、もう少しで、クローブから防塵マスクを奪って逃げ出すところだった。
 ヒスイがそうせずにクローブの前で身構えるだけに留めたのは彼がまだクローブとの対話を望んでいたからだ。また、そうしなければ彼は自分の誇りを守ることができなかった。彼が一人の人間としてクローブと対峙するためには誇りという後ろ盾がどうしても必要だった。
「そんな、なりふり構わず生きるとか、そんなんじゃない。生きるためだったら何やってもいいってのが許せないだけだ」
「今のお前にはそれさえできてないんだよ」
 今まで一度でも俺が自分から死ぬって言ったことがあるか。サンゴもそうだろう。今まで一度でもあいつが自分から死を選んだことがあったか……クローブのまなざしは爆発を終えた後も蒼く燃え続けてヒスイの目を射すくめる。
「お前はまだ人の死の重さを知らない」
 磐石の重みがある台詞。
 彼の執念を止められる人間などもはやこの世にはいないのかもしれない。クローブの魂はいよいよ鬼気迫って、触れるものを跡形もなく消し飛ばしていく。型通りの正邪も欲望も道徳も破壊する。
「俺は海へ行く。こんな所で死ぬわけにはいかない」
「あるのかよ海なんて」
 それでもヒスイはクローブの狂気の前に立ちはだかった。クローブの真っ蒼な目を見据えると足が震える。魂の迫力でとうてい敵わないことを知っていて、それでも立ち向かう。

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