夢の最果て
Chapter5 [2/6]
ヒスイは後ろを振り返った。
たった今歩き出したその場所で、はだかんぼうの人間どもがクローブの死体をはだかんぼうに剥いていた。たったきのう死んだばかりの人間を、腐ってしまうと食べられなくなるからというそれだけの理由で歯を突きたてて肉を食いちぎってぴちゃぴちゃ舐めていた。
はだかんぼうの人間どもが只の食料と化した人間を集団で裸に剥くおぞましさ。一瞬で喉が渇ききったのがわかった。あれは既に人間ではない。人間ではないのに戦慄のなかで自分と同じ生き物だということを悟る。肉に歯を突き立てて手も脚も顔も性器も胸も腹も始めからそこに人間などいなかったかのように喰らい尽くす、もうひとつの人間の姿。
……クローブさん。
この世のものとも思えない絶叫がクローブからでなく自分の臓腑から出ているのは一体どういうことだろう。頭が真っ白になって、気がつくとクローブの死体の上まで駆け戻ってナイフを振り回していた。自分の口からは完全にケモノの叫びが洩れ、ケモノたちは遠まわしに自分たちを警戒こそすれ、散っていこうとはしなかった。胸元ではサンゴが泣き叫んでいる。突然ケモノと化した自分に怯えてしまったのだ。
ヒスイはしばらく言葉を失っていた。何を言おうとしてもケモノの声しか出てこない。ケモノたちは自分が去っていくまであの場所で待っているつもりなのだ。亡骸を埋めても掘り返してクローブを食べる。今いる連中を皆殺しにしても別のケモノがやってきて死体を喰らう。たとえ亡骸を燃やしたとしても、この場所のたかが知れた火力では連中に提供するものが焼いた人間に変わるだけのことだということか。爺さんもあの時喰われてしまったのだ。そしておそらくキャラバンの人々も。
それはずっと昔から繰り返されてきたことに違いなかった。
キャラバンの人々に海を目指させたもの。爺さんに人間を忌み嫌わせたもの。かつてクローブが親友の前で同じように絶叫していた、決して捨てることのできなかった、狂気の記憶。
クローブの腹は見るも無惨に食いちぎられぬるぬると黒ずんだ内臓が飛び出していた。頬の肉を食われたのだろう、その顔も今や変な場所から口の中身が見えている。血の匂いが鼻腔から口の中にまで充満してくるのを感じながら、外へゆるゆると洩れてくる内臓を元に戻そうとして何度も手を突っ込む。自分の手が地肌も見えないほどどす黒く染まってゆく。
途中のどこで自分の気がふれたのか解らないまま、ヒスイはケモノの声で泣き崩れた。何度も何度も何度も狂ったように泣き叫んで、それでも最後にはクローブを置いていくしかなかった。
* * * * *
そうして大人になったヒスイの上に、月日はうっすらと残酷さを帯びて降りそそぐ。
数年後ドリームアイランドのどこかの大地の上にはやっぱり海を目指して歩く二人組の姿があった。片方はまだぎりぎり若いと言われる風貌の男で翡翠色の目をしており、もう片方は珊瑚のような色の目を持った少女になっていた。
「にいちゃーん、おれ疲れたよう。休みたい」
ヒスイから言葉を習ったサンゴは今ではすっかり男言葉で話している。彼女の成長する姿が実はヒスイのささやかな楽しみであることをサンゴは知らない。人よりその成長のスピードは遅いがサンゴは日に日に前へと進んでいるのだ……大きなヒスイの背中を追いかけて。
「もうちょっと歩こうな。サンゴは辛抱足らんからなぁ」
「だって暑いんだもん」
「海へ着いたら涼しくなるぞ」
「石見たい」
「それはおあずけだ。とっておきだから」
ヒスイは、出会った頃のクローブと同じくらいの歳になっていた。世界はやはり少しずつ死に絶えつつあるようで最近では同じ年頃の人間もあまり見ないけれど、それでも彼は旅を続けている。クローブの死に様についてはサンゴには話していない。ただ自分たちを育ててくれた偉大な人がいたと言うだけだ。そして誰かがこの先の旅路で死ぬようなことがあっても、ヒスイはやはり「子どもは後ろを振り返るな」と言うだろう。
「ねえお兄ちゃん」
「うん?」
「ヒトは何で服を着ていると人間で服がないとケモノっていうのかな」
「それは……」
子どもの質問は時々鮮烈に胸を焼く。ヒスイ自身昔は同じように大人が身震いするような質問をしていたのだろう。今になってサンゴと一緒にそれを考えてみると、その答えは近づくどころか遠のいてゆくばかりだ。
「お兄ちゃん、目がきれいだ」
「うん?」
「すぐに消える朝焼けの空のいろ」
「そうかな」
「そうだよ」
サンゴが蒼い目をするようになったら、それはやはり”夕暮れのあとの消えそうな空のいろ”になるのだろうか。その時サンゴは果たして何を見ているのだろう。
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