夢の最果て
Chapter5 [4/6]


 最後の日になったら、話そうと思っていたことがあった。多分自分があの塀を越えて海を見つけても、自分たちが生きている間に世界は変われないということ。
「それは世界が悪いんじゃなくて、俺たちがちっぽけなんだ。そこらへんのムカデとかが俺たちなんかよりずっと早く死んでしまうのと一緒で、俺たちは世界の寿命よりうんと早く死ぬ」
 だから自分たちが世界に裏切られたなんて思いながら死んでは駄目だ。世界に対しては無条件で信じろ。そのために俺たちは子どもを作っていのちを繋げていくことを許されている。
「明日、俺はサンゴを塀の向こうへは連れていかない。三日して戻ってこなかったらお前は町まで引き返してそこで生きていくこと。それでも、どうしても塀の向こうが見たかったら、条件を満たしてから来い」
 一人でいいから命を育ててみろ……サンゴの緋色の目を静かに見つめるヒスイの目は、幼いサンゴが見とれるほど深く澄んでいた。「捨て子を拾ってもいいし、サンゴは女の子だから大きくなってから自分で産んだっていい。そうやって俺がお前にした話を全部話して聞かせてやれ」
 ヒスイはそれまで大切に持っていた「賢者の石」を懐から取り出すとそれをちいさなサンゴの手のひらに収めて、彼女の手をしっかりと包みこんだ。
「お前にやる。返さなくていいからしっかり持ってろ」
 サンゴはそれがヒスイとの永遠の別れになってしまうかもしれないことをようやく実感し始めたのだろう。急に「いやだ」と言って、泣きだす。
「こわいよ。ひとりで生きてくのこわい」
 幼いサンゴにはこの世界は凶暴すぎる。怖がるのも泣きだすのも無理はなかったし何より独りになってしまうことが痛ましかった。ヒスイは町まで戻って誰かに彼女を預けることを考えたが、サンゴは最後までついて行くと言ってきかない。塀の向こう側まで一緒に行くと泣きながら言った。ヒスイもそれだけは許してやれなかった。



 深夜、ランタンの光にくるまれて泣き寝入りしてしまったサンゴをヒスイはずっとあやし続けていた。最近ではやらなくなっていた子守唄を歌ってやっていると、サンゴがうんと小さかった昔を思い出す。
 しばらくしてドアをノックして昼間の小男が部屋に入ってきた。まるで年中背をかがめているみたいな猫背だ。どうやらヒスイを説得しに来たらしかった。
「北の子守唄か」
 あんたどこから来たんだという問いに、ただ「北から」と答えた。北といってもこの広い大陸の、どこかという程度である。直線距離ではないにせよもう何十万キロメートルも歩き詰めてきた。クローブはさらにその北からやってきたし、キャラバンの人間たちはきっとさらにその北を知っていることだろう。
「昔は、世界の十のうち七が海だったそうですね」
 今はどのくらいの比率なんでしょうかと聞いてみると、小男は暗いがはっきりとした言い方で比率が逆転しているだろうなと呟く。とにかく世界中の気温が昼には摂氏五十度を越えているし、大地が広がったことで内陸部はさらに暑くなった。海は干上がって塩分と有毒物質を凝縮した状態になっているのではないだろうか……。
「たとえ海があっても死の海だ。僕たちには住めない」
 小男は執拗に悲観的な予想を立ててはヒスイを思い留まらせようとする。久しぶりに人が来たせいもあるのだろう、ひどく饒舌な男だった。残されたサンゴが可哀想だろうという台詞はさすがにこたえた。何も今じゃなくてもいいじゃないかとも言われた。
 ヒスイはずっと静かに男の話に耳を傾けていた。反論せず、逃避せず、波を立てない湖のように透き通った目で男に喋りたいだけ喋らせてやった。明日には誰の言葉も聞けなくなるかもしれないと思うと、どんな人間のことばもいまいましいと思わずに聞いていられた。
「あんた、それでも行くのかい。明日行くのかい。僕はあんたのこといい人だと思うよ。だからあんたが戻ってこなくなるのは、寂しいんだよ」
 昨日まで見ず知らずだった人間でさえ、居てくれてよかったと思うようになる。旅立つ前の人間はしあわせだ。

次[#] 前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴