夢の最果て
Chapter5 [5/6]


「海の色をね、確かめなければいけないんですよ」
 最後にヒスイがぽつりと洩らしたのはそんな台詞だった。
「今まで人生の半分以上を歩き続けてきたけど、俺は海を見たことがないから明日が初めてなんです。それにあんたは向こう側が怖いっていうけど、それでも梯子を最後近くまで上ったんでしょう?」
 たとえ向こう側に何があっても、それでも人間は梯子を上る。そうやって最後には塀を越えていく。
「俺を生かしてくれた人たちや、育ててくれた人たちがいたんです。みんなこの塀の向こうを夢見て、辿り着く前に死んでしまった。優しくて、強い、本当に強い人たちでした。俺はあの人たちの夢を叶えてあげたいんだ」
 あらゆる狂気と汚濁を抱えて、なお人間は美しい。
 ヒスイがそう思うのも彼らの生き様があるからだ。
 たとえ塀を越えた途端にこの世からいなくなることがあっても。それでも最後まで前を見て歩いていける人生をヒスイはしあわせだと思う。
「今こうやって息してるだけでも幸せですよ。だからあの人たちもきっと幸せだったと思うんだ」
 初めてサンゴ以外の人間にクローブのことを、キャラバンの人間たちのことを話した。微笑みながら涙をこぼすヒスイの顔は、哀しいのに心の底から幸せそうだった。



 それまでと変わらないいつもの朝が来て、ヒスイは淡々と身支度を整えていった。紫外線を浴びないように長袖を着て、長いズボン。何十足めかの古びた厚手の靴を履いて革のグローブをつける。最後にいつもより軽いリュックをしょって耳の入ったポーチを腰にくくった。遅れて起きてきたサンゴは、すっかり口をつぐんでうつむいている。小男もそれ以上ヒスイを引き止めない。
「いい奴からいなくなっちまう。だからここはいつまで経っても苦界のままなんだ」
 半ば小男自身へと向けられている述懐をヒスイは複雑な顔で受け止めた。
「苦界に残ることも勇気かもしれないですよ」
 ただ俺には行かなきゃいけない理由があって、あんたにはない。ヒスイは塀の上まで行かなかった小男に優しく微笑みかけた。そのまま梯子のところまで、立ち止まることもなく歩いていく。
「俺が戻らなかったらサンゴを頼みます」
 サンゴは口元をきゅっと結び、緋色の眼を大きく見開いてヒスイのことを見ていた。何か喋ったらそれが最後の言葉になってしまうような気がして、何も言うことができずにいる。子どもの運命に逆らう力はとても弱い。いつも、自分が生きていくことで精一杯だ。
 今はそんなサンゴの姿を世界一大切に思う。
「大丈夫だ。サンゴは強いから」
 ヒスイがサンゴを最後に抱きしめてやると、サンゴは無言のままで泣きはじめた。しかしヒスイはしがみついてきた彼女の小さな手を残酷に振りほどいていく。夢を叶えるためにそういう道を選んだことを、彼は心の中で詫びた。
「大丈夫だから泣くな。……戻ってくるよ」



 ヒスイは梯子に手をかけると、目を潰すほど眩しい空を見上げてどんどんそれを上りはじめた。黒い鋼鉄の上を踏みしめていく金属的な足音がサンゴの前からどんどん遠ざかってゆく。
「おい」
 小男がヒスイの顔を見たのはそれが最後だったと思う。
「上りはじめたら、もう絶対に下を向くな。足が竦むと最後まで上れないからな。それが最後まで上りきるひけつだ」
 屈託のない笑顔と共に大声で「ありがとう」という返事が返ってきた。それからは本当に馬鹿正直に上だけを見て梯子を上ってゆく。ヒスイの姿はやがて豆粒のように小さくなり、あるかなきかの塵のようになって、二人の前から消えてしまう。
「海を見つければ死なないでも恐ろしい人生に堕ちるのに」
 海を見つけて、その後あいつはどうするんだ……小男が毒づくと横からサンゴに思いきり叩かれた。サンゴは息まで止めそうな面持ちで押し黙って、ヒスイから譲り受けた「賢者の石」の色のうつろいを確かめていた。

次[#] 前[*]
戻る[1]
Copyright © 2009 桔梗鈴