日常という名のエレジー [3/6]
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして
足が地面を踏むたびに心が同じ言葉を叫び続けるんだ。叫べば叫ぶほど言葉が激しく熱を帯びてきて止まらない。
途中で突き飛ばした人間たち。赤の他人、知り合い、友人たち。全部から逃げ出した。確か途中で知り合いのおっさんが腕を掴んだと思うけど。
「伴也、どうした?」
「おれのせいじゃない」
困惑するおっさんの手を怯えながら必死で振り切る。もう一人の俺が俺を後ろから指差して犯罪者のようだとせせら笑ってる声がする。会う人みんながその眼で俺を責めるから、誰もいない場所へ逃げなきゃいけないと思っていた。
そのおっさんは川まで追いかけてきて、もう一度俺の腕を掴んだんだ。
「どうしたんだよ、おい! 大丈夫か」
小さい頃から知ってる、近所のおっさん。
「おれのせいじゃない」
よほど怯えた顔をしてたんだろう。おっさんは俺が腕を振り乱しても、今度は腕を放さなかった。俺の足が自然に動きを遅くして止まるまで。
「何かあったのか」
「俺は、……俺はただ」
頭を抱えて狂気で叫びそうなのをこらえていた。自分で紡いだ言葉の続きが出なくて、小さく小さくその場にうずくまってしまう。
震えてる。どうして俺は
どうして俺はこんなに弱いんだろう。
誰にも言えない記憶はそのまま俺の胸の中で暴れて、心臓や内臓をえぐっていく。俺が暗闇の中で一人壁を作って閉じこもっているとおっさんは何も言わずに俺の横に座って、そのままそこにいてくれた。
「言いたくなきゃ、言わねえでいいさ。――おばさん元気か」
何も喋りたくない。
「俺もな、母親を亡くした娘と二人暮しだからよ、おばさんの苦労とかちっとは解るんだよな。娘を面倒見れねえ時に預かっててもらったこともある。おめえのことも他人にゃ思えねえしな。
生きてりゃ、そういうこともある。喋れないことが」
言えない記憶にのたうちまわる日がいつか来て、みんな誰にも言えないでのたうちまわって、苦しんでる。癒したり慰めたりすることはできても、それ以上のことはできない。人間は弱い生き物だから。
「だからまあ、俺はこうしてお前の横で座るだけだよ。とりあえずお前に家まで歩けるだけの気力をやれればいいなと思ってな。
とりあえず。とりあえずな。
その程度しかしてやれないけど、それを何回繰り返してやれるかってことが結局愛とかそういう話に繋がっていくんだろうなあ。俺も女房が生きてるうちに気づいてやれればよかったんだけどな。その辺、残酷だったな」
愛とかそんなものはきれいな場所から拾ってくるもんじゃない。愛は血とか狂気の中に落ちていて、拾いにくる哀れな人間たちを実は無機質にあざ笑っているんだ……俺は、そう思う。
「強くなりたい」
俺の小さな呟きにおっさんははたと口を止めた。
「……こんなことを、喋ること自体、俺が弱いって認めてるみたいで嫌だ。弱いって認めたらみんな壊れてしまいそうで」
妙子の悲しそうな顔とか、意外と善良で心を洗う日常の欠片とか。何一つ自分の力では守れなかったという、事実。何を守りたいのかは見えているのにこのイカれた日常はすぐにそれを見失わせる。世界は人間のことをいいやつだと言うけれど、少なくとも俺だけは違う。
「自分を守ることばっかりだ。他に気を回してる余裕が無いんだよ。卑しくて、小さくて、小さくてさ。そんな俺が嫌だ」
もっと力強く日常を歩いていける足が欲しい。
「何で俺はこんなに余裕が無いんだろう」
クールミントのガムを新しく噛みなおした。劣化した血の匂いがミントの味にかき消され、舌にすこしだけじんと響いた。
「なあに。必死で生きるってことは、そういうことだろ」
気にすんなよと俺の背中を叩いてくれたおっさんの手。こんな人が俺の親父だったら良かったのにと、少し思った。
帰ってみるとアパートはそれまでの事件が嘘のようにもとどおりの日常をまとっていて、ガスコンロの前で服を直した妙子が夕飯の煮物を作っていた。ただいまは言わない。無言だ。いつも。そうして四畳半の漆喰の壁に、楽しくもない面で座ってる。
日常は何も変わらない。それの変化はとてもゆるやかで、自分で変えていける場所は小さく限られている、けど。
「帰ってきたら”ただいま”は言いなさい」
妙子はいつもそういうことを注意してくる。
「あんた、”お父さん”とは本当に一緒に暮らせないのね?」
「ああ」
「そう。……わかった」
とてもゆっくりした口調だった。妙子は鍋の前で何かを受け止めるように目をつぶり、短く溜め息をついた。
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