日常という名のエレジー [4/6]
それから冬が来て、春が来て、俺は中学三年になった。俺はあとからあとから湧きあがってくる様々な感情を自分への筋トレにぶつけるようになり、妙子はある日大量の金と離婚届を持って俺に付き合えと言ってきた。最後は家族全員の合意で別れようということだった。
「伴也、あんた新しいお父さん欲しい?」
「別に」
妙子はもの凄く気合の入ったメイクをして、身体のあちこちを装飾品で飾りつけ、玄関のところでハイヒールの色を選んでいる。好きな赤色のハイヒールか黒のハイヒールかを迷っているようだ。
「あいつ以外に惚れた男ができたんなら、勝手に結婚でも何でもしろよ。まだ”俺のため”とか言うようだったらいい加減出てくぜ」
「うん、そうだね。いつかいい人ができたら。どうも一生無理な気もするけどねぇ。男はちょっと、こりごりだわ」
あんただけでいいや……綺麗な黒のハイヒール。
「お父さんもねえ」
「止めろ」
「……あの人もねえ、昔はきれいな顔してたのよ。すねた顔がいつもすごく寂しそうで、でもそれを知られるのをとても怖がってた。弱かったのね。この人なら一緒に堕ちていってもいいやって思えるくらい、可哀想なふるえ方。今はもうやけっぱちになってしまっているけれど、中身は変わらない」
これでもう誰もあの人を助けてあげられないね。
十四年間虐げられてきて、不条理に金取られて体を貪られ続けてきてなお妙子はそんなことを言う。どうして俺のように憎しみだけにとどまらないのか俺には不思議でならなかったし、それはそれでお互いに憎み合う両親を持つよりマシだったのかなと、思う。
「でも、おしまいにしなきゃね。これ以上あんたを犠牲にできない」
何を今更って感じだよねと自嘲する妙子に返す言葉がない。うつむいて歩きながらポケットを探るとクールミントのガムが手にあたる。あの時と同じだ。黒味がかった青と黄金色のペンギンのパッケージを見ていると、イカれた日常の中に凛とした一筋の清涼感をおぼえた。
「なあ、ペンギン、いるだろ」
妙子が唐突な俺の話に目で疑問符を飛ばす。
「ペンギンだよ。何で羽根があんのに空飛べないんだろう、あれは?」
「太ってるからでしょ」
氷海の中を群れて飛ぶ鳥。一生を何度も吹雪の中で耐えて生きる鳥。そのくせ滑稽なくらいにユーモラスな体の流線型。それくらい自然に生きていけたら、案外人間というのも満足して、同じようにゆるやかに太ってしまうのかもしれない。
いつか見たあの貧乏アパートの前で話し合いは行われた。不健康に痩せた哲也は妙子が切り出した離婚話になかなか乗ろうとしなかった。哲也としては都合のいい金づるを失うんだから当然だろう。焦ってる本心を隠しながらいつものように妙子をなだめすかしにかかる姿を見ると反吐が出る。
「なぁ、頼むよ。俺も性根入れなおすから」
ずっと見続けてきた暴力的な態度から掌を返したように豹変する哲也の顔。奴がその裏で狡猾に笑っているのが同じ目を持った俺にはよく視えた。妙子は同じ目を持っていないから、それが見えない。見えないから信じようとするのだろう……彼女の態度は硬化したものから徐々にぐらついている。
俺は途中で二人の間に割って入った。
「いい加減にしろよ」
だらしのない親を持ったもんだ。口癖になるほど「いい加減にしろ」と繰り返している俺がいる。
「何だお前」
哲也の目は北国の狼のようだ。今はまだ幼い俺の目をずる賢くねめ回して、見えない牙を剥きながら笑ってる。
”伴也。強くならなきゃあ、駄目なんだ。弱ければ全てを奪われるんだぜ。この乾いたすがたが本当の家族のすがただ──隙があれば喰らい合うのが親子だ。隙があれば喰らい合うのが人間だ。この世界に子どもなんてものは存在しない。お前や俺の子ども時代なんてものは、母親の腹から生まれ落ちた瞬間に終わったんだ”
親子だなんて事実はチリほどにも役に立たない。非情の闘いができない狼は、たとえ家族であっても牙を剥くことのできない狼は喰われて死ね──俺が親父から受け取った無形のメッセージの中でたった一つ了承したこと。
「伴也、父さんと遊びにでも行くか」
「二度と俺の前でそんな台詞を吐くな」
哲也が静かに眉を寄せて冷たい目で俺を見ているのがわかった。父親としての自分を見透かす俺の目をこの男が認めたことなど、多分一度もない。これからもないだろう。俺も。
妙子を背中で守るようにして、そのまま視線をぶつけ威嚇した。威圧的な相手に負けないように全神経を目にこめていた。そんな風に必死になっている俺を哲也は鼻であざ笑う。
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