轍《わだち》 [3/8]
私は家族や友人を鑑みた。私が三度目にリストカットバレを経験したとき、多分ほとんどの人間が私が正常であると認識するのを諦めてしまった。家庭の機能不全が解消されないまま私は異常者になった。家庭をとりまく社会にも多分おかしいところがあるままだった。腫れ物に触るような友人たちの態度が、問題の争点にも気づかぬままむやみに私という命の大切さをうたう周囲の対応が、無念だった。
「弱いことが許せない?」
許せない? あなたは強いの? と、暗黙のうちに訊ねられているようだった。口が閉じて自分の体が硬くなるのがわかった。
「私も、弱いです。でも誰も許せない」
間違っているとヒステリックに叫ぼうとして、いらいらして手首を掻いた。間違っているのは私だ。でも世の中の間違いはもっと非人道的だと感じる。厚子さんの横にいると、そんな自分が汚い部分からまるごと肯定されていくようでリストカットをする気力が抜ける。
隣から、すっと厚子さんの手が伸びてきて手首を掻く私の手を止めた。四十代前半ぐらいだと思われる彼女の手は手入れされていて、ベルベットのように滑らかなぬくもりを帯びている。私はその繊細なタッチに驚き、重ねられた手が急に恥ずかしくなってその場に固まってしまう。
厚子さんは、何も口にしなかった。言葉にすれば逆効果になることをわきまえていた人だった。代わりに私が落ち着くとそっと手を引き、経験深い穏やかな口調でカクテルの追加をするかどうか訊いてくれた。彼女と目が合ったときに、何も言わないで二秒間見つめあっていられた。厚子さんの微笑。私たちは二十歳近い年齢差を飛び越え、長年の親友のように通じ合って会話ができる仲になった。
大学を休学していた私に、厚子さんはリハビリ代わりでいいから画廊のアシスタントとして働いてみないかと声をかけてくれた。私は興味本位でその話に賛同し、週三日午前中のみのペースから少しずつ働き始め、どうにか大学を卒業して現在に至る。
私がエレベーターを使って棗ビルの四階まで辿り着くと、ギャラリートラックの受付ではショコラちゃんがたっぷりボリュームのある睫毛を伏せてうとうとと身体を揺らしていた。髪のカラーリングを変えたみたいだ。おとといまではキャラメル系の髪色にしていたのに今日はきれいなピーチページュに変わっている。
「ショコラちゃん」
目の前で潜めた声をかけると、ショコラちゃんははっとして目をぱっちりと開いた。一重の目をアイプチで二重にしている。まずいことをしている割に反省の色はなし。いつも私の顔を見ると愛らしい微笑みを見せるので、私も先輩ながら叱る気になれない。
「ミストさーん」
「お疲れ様です。カラーリング変えた?」
「はい! そうです、変えたんですよぉ。触ってください触ってください」
毛先までトリートメントの行き届いたロングヘア。指先でいじってあげるとショコラちゃんがくすぐったそうに笑う。画廊は平日ということもあって客が入っていなかった。受付の一番大事な仕事は画廊に客がいるときに存在感を隠し沈黙を保つことだ。なので、ショコラちゃんのようにうとうとしていてもどうにか勤まる。
ショコラちゃんは年中何かしら仕事を掛け持ちし寝不足を抱えていた。彼女の本当の名前は千代子という。チヨコをもじってチョコ。だからショコラ。名前にコンプレックスのある私は彼女がくれたミストという仇名を容認し、一緒に彼女のショコラという名前も容認していた。
「ミストさん。ショコラ、もしかするとここの仕事辞めることになるかもしれないです」
「どうして」
受付の席に二人並んで座りながら私はショコラちゃんに聞き返してしまった。ショコラちゃんはいつも唐突だ。それでいて、仕事の絡む話でも話し口が回りくどい。
「三ヶ月前にぃ、彼氏と別れて。そのあとすぐ新しい彼氏ができたんですけどぉ。その人が、夢追ってる人でぇ。ミュージシャン目指してるんですけどお金がなくてぇ」
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