轍《わだち》 [4/8]


 画廊の受付以外にも居酒屋で働いて、働いて、お金を貢いできたけれどそれでもすぐ無くなってしまう。ついに居酒屋の仕事はキャバクラに変わった。それでも足りない。彼を応援してあげたいので画廊の仕事を辞め、キャバクラ一本にしていこうかと思っている……といった結論に達するまで紆余曲折三十分以上は余計な話を聞いたと思う。ショコラちゃんはとにかく恋愛のことになるとよく喋った。安易にラベルをつけるなら彼女は恋愛中毒症で、何度相手が変わってもダメ男に貢ぐダメ女だったが、案外そんな環境も自傷と変わらないのかもなと思った私は彼女を弾劾もせず話を聞いていた。
「デートすると、お金がないから近所の公園とかそんなんばっかりなんです。もっとお金がないと家で。家で二人きりでいるときってぇ、なんかもたないじゃないですかぁ。間が。だからすぐエッチになっちゃってぇ。終わると彼すぐ寝ちゃってぇ。ショコラも一生懸命話するんですけど話うまくないからつまんないみたいでぇ。結局話すことなくて寝ちゃってぇ。やっぱり軽い女に見られてるんですかねぇ? ショコラ悲しい……たまに外からおみやげ持ってきたりするんですけどパチンコかスロットの景品っぽいし。
 あ、でも仕事終わって帰ってくるとたまにごはん作ってくれるんですよぉ。今はちょっと、元気がないだけなんですよ。時々なんか傷ついた顔して、その時の目が超カワイイっていうか、母性本能? くすぐられるんですぅ。きっとミュージシャンになって売れるんだってショコラも信じてます」
 ショコラちゃんは可愛い。格好は今時の子だけど、こういう無人の画廊でも愛らしさを失わずにじっと座っていられるのには独特の素養が必要だ。才能があるのにキャバクラ一本にしようだなんてもったいないなと思う。私と厚子さんは花やお菓子を愛でるようにしてショコラちゃんを可愛がる。
「ショコラちゃんは恋に生きる人なんだ」
「え? ……あ、はい」
「もしそれで画廊辞めてキャバ一本になって、それでもうまくいかなくて、最終的に今の彼と別れることになったとしても後悔しない?」
 ショコラちゃんの綿菓子のような顔が不安げにゆれた。ゆれて、やわらかに戻ってくる。そのやわらかさが自分には足りないなと感じる。
「しません! それよりもぉ、今彼に何もしてあげられないで、捨てられることのほうが嫌です」
「捨てられても誰も恨まない?」
「うらみません! ミストさん、ひどいです」
 泣き出しそうな声でうつむくショコラちゃんを見て、私は傷痕の残る手で彼女の頭を優しく撫でた。頭をこつんと突き合わせ、猫をなだめるように声をひそめる。
「ごめんね。捨てられるなんて嘘よ。それに戻ってきたくなったら、いつでも戻ってきて構わないんだから。厚子さんも私もショコラちゃんがいなくなったら寂しくなっちゃうわ。本当は辞めないでいてくれるのが一番なんだけど」
 私はおかしいから切る。ショコラちゃんはおかしいから愛する。私の中で普通の人の閾値《いきち》はどんどん下がってきていた。この世の中に生まれたこと、生きているという始点はみな同じだ。世の中の人間が異常だと思って喜んでいることのほとんどは、実は普通の枠組みから抜け出せていないんじゃないだろうか。そんな思いが去来するようになったころ私は手首を切らなくなった。ショコラちゃんもいつかわかってくれるだろうか。わからないだろうか。
 ショコラちゃんと私は身を寄せ合ってパウダーみたいなぬくもりに身をゆだねていた。ショコラちゃんが不安で涙のしずくを落とし、私が彼女の頭を抱いてハンカチを貸してあげる。今月のシフトは組みあがってしまっていたから、何をするにも厚子さんに相談して来月からにしようと二人で決めた。ショコラちゃんが仕事を終えて画廊を離れると私はそのまま無人のギャラリーの受付に座り続け、お客さんが入ってくるのと共に画廊の風景の一部になって、紛れた。



 私も厚子さんなしでは生きられない時代があった。
 一時的にでも誰かに完全に依存しないと駄目な時代が誰にでもあると思う。多くの人は赤ん坊時代に母親とそういう関係になって、私のようにはぐれた人間が大人になってからもそれを追い続けるのだろう。0を1にしようとする本能的な試みだ。厚子さんやショコラちゃんが実際どうなのかは知らない。
 この画廊に勤めて、厚子さんに一つ一つ手ずから仕事や絵画のことを教えてもらうのが嬉しくてたまらなかった。仕事を始めてから顔が明るくなったと母親に言われ、偽善者ぶりに哀しくなって、腹が立ってまた手首を切った。厚子さんは私が手首を切ったことを知っても何も言わなかったが、忘れた頃に貯まった給料で一人暮らしをしてみたらといって私を実家から遠ざけてくれた。
 ショコラちゃんが人に撫でられるのが好きなように私も厚子さんに触れられるのが好きだ。頭を撫でられたり、肩や腰にぽんと手を置かれるとぞくぞくする。厚子さんと私との間には秘密がある。ショコラちゃんも厚子さんの家族も厚子さんの友人も知らない秘密が。

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