轍《わだち》 [5/8]


 画廊の白い壁にかけられた抽象画を見つめながら、厚子さんはつぶやいたものだった。
 ──どうしても生きられなくて、立ち上がれないと思ったとき、私はお腹を切ることにしてるの。本当に切ったりしないわよ。空想でね。真剣に、江戸時代の武士みたいに切腹するの。自分の下から床が真っ赤になっていくわ。濡れたお腹がマグネシウムを焚いたように熱くて、中から切断された内臓がどろどろと引きずり出される瞬間、鮮烈な感覚に頭が焼けつく。生きているって感じるのね。そうなったら立ち上がれるわ。大体のことはできるようになる。
 銀座の店で見つけたプレタ・ポルテ(高級既製服)を着て、ボルドーの口紅を塗った唇に微笑を浮かべて。年齢でたるんだ顔の輪郭ですら飾りに見えた。画廊の売り上げで脇差を買おうかと思ったがやめたらしい。二人きりの場所で彼女の嗜好を打ち明けられたとき、私は厚子さんに認められたと思った。
 彼女に見つめられ、はしゃぐのも違う気がして粛々とうなずいた。厚子さんは微笑んだまま、うん、とうなずいてまた通常の業務へと戻っていった。ラベルをつけることは簡単だ。でも私はそれを拒んだ。私は厚子さんと対等になるために、あいまいであることに耐えられる強さを身につけたいと初めて考えるようになった。
 何年も厚子さんと一緒に仕事をして、時々一緒にお酒を飲み、画廊のこれからを語り合った。仕事仲間から一線を超えない関係。それでも私にとって厚子さんはいつも憧れで、特別な人だった。
 私が手首を切らなくなってから迎えた最初の誕生日に、厚子さんはショコラちゃんに内緒で私をホテルのディナーに誘ってくれた。もう何年も前から厚子さんとショコラちゃん以外の人間には祝われたことのない記念日だ。展望レストランの窓際席には一面にガラスが張り巡らされており、眠らない街の光を色とりどりに煌々と輝かせていた。一方で目を凝らせば遥か下の地面を歩く人間の一人一人まで見えた。
 厚子さんは、二人席のテーブルを挟んで目の前にいた。
「おめでとう」
 にっこりと微笑む。ありがとうございますと返す。運ばれてきたディナーにお互い手をつけながら視線を忍ばせ、何も起こらないと決まっているあやうい雰囲気を楽しむ。何年も一緒にいて相手のことは何でも知っているような気がするのに、ちょっと皮をめくってみると私は彼女について知らないことばかりだ。厚子さんは自らが独身だったこともあり、私に決して結婚の類の話題をふらなかった。
 これからも、ずっと一緒に仕事をしていけたらいいなと思っていた。シャンパンと一緒にディナーを済ませると蝋燭を挿したバースデーケーキが運ばれてくる。蝋燭を抜いたら穴だらけになるであろうティラミス。わかっていても蝋燭の色と炎の色が引き立ってきれいだと思った。
「わあ、綺麗」
 ウェイターと一緒にバースデーソングを歌ってもらって、火を吹き消した。こんな風に祝福される日がこようとは思いもよらなかった。火が消えると拍手があがり、私は厚子さんから祝福の言葉を添えて小さなプレゼントの包みを貰った。
「開けてもいいですか」
「いいわよ」
 品のいい包装紙をなるべく破らないように丁寧に剥がす。中から出てきたのは白金の高級腕時計だった。銀座のどこで仕入れても超一流のブランドであることは間違いない。レディースらしい細く優雅なブレスレット・スタイルに、控えめにいくつものダイヤがあしらわれていた。
 こんなにも高い時計を嵌めたことがなかった私には、溜め息が出るほどのデザインだった。
「いい子でしょう。普段遣いでいっぱい使ってあげてね」
 はっとした。
 時計を単体でしか見ていなかった私は、リストカットの痕が醜いすだれのように残っている自分の手首を思い出して愕然となった。時計にも似合わない手首があるのだ。まるでドレスを着た醜女が滑稽であるように。
「霞」
 厚子さんの声が私の心臓を掴んだ。私が思わずひどい顔を上げると、厚子さんは何も言うなと視線で私に訴えかけてきた。それから苦笑してみせた。私をなだめるように。
「いい? なるべく毎日つけるのよ。美しいものを身に着けることに慣れなさい」
「厚子さん」
「大丈夫。あなたは美しいんだから。つけてみせて」
 乾いた傷痕の上にこの時計をつけろというのだ。私は厚子さんに見守られ、おそるおそる時計を取り出した。タグがついたままの時計をそっと手首にはめ、胸元にかざす。厚子さんは私の一部始終を瞬きもせずにじっと見つめていた。
 とても個性的な手首だった。時計はきらびやかで、サイズはぴったりだ。下地にある傷痕は消えない。私の私たる由縁。
「ほら。やっぱり綺麗。思ったとおりだったわ」
 時計のあまりの綺麗さに、不似合いに感じながら私は涙ぐんでいた。厚子さんが傷痕のことを知らないわけはなかった。厚子さんの目が時計だけでなくその下の傷痕までしっかり見てくれていることを、私ははっきりと悟ったのだった。

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