轍《わだち》 [6/8]


 このまま終わりない日常に包まれて生きてゆく。私は時計を貰ってからしばらくの間、夜になるとパジャマ姿で時計を嵌めて眠った。私と厚子さんとは死に近いところで親和性がありすぎた。時計によって傷痕が存在意義を残したまま封印され、私が生きることに力を向けられるようになるまで。
 私は厚子さんと一緒に死を選ぶ妄想を見なくなった。手首に嵌められた時計が夜でもきらきらと、完全に輝いていて、あらゆる不安や死の影から私を守るのに十分役立ってくれた。時計を与えられて数日もすると私は急速に不眠や不定愁訴も起こさなくなり、今までと違う華やかなタイプの化粧も試すようになってきた。
 画廊の静かな日々は続く。ショコラちゃんはまだ迷っているようで辞めない。シフト表は次の月も欠員を出すことなく仕上げられ、ルーチンがこなされるとまた翌月分も滞りなく仕上げられた。その月の途中で私は仕事後に厚子さんの手を引き、ギャラリーの近くのビルに入っているカフェへと入った。
「霞、どうしたの」
「いいですから。内緒です」
 厚子さんの手はいつも熱が控えめで、握っていて気持ちがいい。私の手首には時計が光をこぼしている。苦笑する厚子さんと一緒に予約してあった席まで向かうと、テーブルではショコラちゃんが誕生日用のホールショートケーキを前にして今にもはじけそうに笑っていた。
「誕生日おめでとうございますぅ!」
 クラッカーを鳴らす代わりに二人で目一杯拍手の音を立てた。厚子さんの誕生日だ。厚子さんは、「まあ」と困ったような声を出した後、口元に手をやって照れ笑いを浮かべた。年齢とは関係ない本数の蝋燭に明かりがともされ、厚子さんが二回に分けて吹き消す。私たちは祝福と共にプレゼントを渡した。ショコラちゃんからは椅子に座れるほどの大きなテディベアだ。私からは花束とお財布。「持ちきれないわ」と笑う厚子さんの声が本当に朗らかで嬉しくなった。
「これからも一緒によろしくお願いしますね。私もショコラちゃんもついていきますから」
 厚子さんの微笑みに一瞬影が落ちた、気がした。
 ショコラちゃんは気づいていない。少し具合が悪いのかもしれない。厚子さんはすぐに笑顔を取り戻して私とショコラちゃんを可愛い子呼ばわりしてくれたが、私は厚子さんを気遣ってあまりパーティーを長引かせないようにしようと内心に決めた。
「厚子さん、大丈夫ですか?」
「え? うん、大丈夫よ。ありがとう」
「え、オーナー具合悪いんですかぁ? 具合悪いんなら今日は早めに切り上げてもいいですよ。また別の日に二次会でも」
「二人とも心配しすぎよ。あなたたちと違って、おばさんは歳をとりたくないのよ」
「えー? ショコラだってもうおばさんですよぉ。高校生が過ぎたら女の子なんてみんなおばさんじゃないですかぁ」
 私と厚子さんとでムキになってショコラちゃんをいじり倒す。ショコラちゃんはぎゃーぎゃー叫んでいてもやっぱり可愛い。ショコラちゃんを二人していじっているときの私と厚子さんは友達みたいだ。
 私はリストカットや死を忘れた場所で自然に厚子さんと付き合えるようになっていた。誰にも気づかれぬまま、自分でも気づかぬままに。時々振り返ってみたときにわかるのだ。人間の顔というのは普通こんな風に見えているのかと。いつか寂しくなるからという理由でリストカットの記憶も思い出さなくなるだろう。それくらい何者かに守られていると感じた。
 私はおそらく、安定し、完結して、厚子さんと遊離した。

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