私は旅をしていた。猫とだ。一人と一匹だけで。
私は猫と旅をしていた。
珍妙な猫だった。その猫はとても美しい青色のガラスで出来ていた。太陽の光を浴びても、月の光を浴びても、美しくきらきら輝いた。私は猫の美しさに不思議なほど心を奪われ、ガラスで出来た猫など奇妙極まりないことではあったが、私にはそれはどうでもいいことのように思われた。私はその猫にただただ惹かれ、そしてその猫は何も言わず、私に付いて来た。
「君をずっと見ていてもいいかい?」
そう尋ねた私に、猫はガラスとガラスを触れ合わせたような美しい声で、返事をするように一度鳴いた。猫をまるで人語を解しているようだった。私に付いて来た猫に、私は名付けることはしなかった。何故だか私はこの猫には既に名があるような気がしたのだ。そして、いつか猫は私に名を名乗ってくれる、そう感じていた。
猫は私に触れられることを酷く嫌がった。猫は自分の身体がガラスで出来ていていつもとてもとても冷たいことを気にしていた。私の体温を持つ温かな手が冷たい猫の体に触れることで冷えてしまうことを酷く気にしているようだった。触れようとする私からするりと逃げて悲しそうな瞳をする猫に私は心が痛んでいたが、そのあまりに悲しく切なすぎる瞳に私は何の言葉をかけてやることも出来なかった。
しかし、それでも私はこの永久不滅であるだろうガラスの美しさをもつ猫はとても幸せな存在であると、何処か心の奥で何故だかそう信じていた。
私とガラスの猫は旅の途中で、ある街にたどり着いた。その街は外面も内面も酷く寂びれた街であった。レンガ造りの街並みはすっかりくすみ、街全体に灰色の印象を与えていた。人々の瞳もどこか虚ろで、輝きというものを感じることの出来ない街だった。
街の通りを歩きながら、私はガラスの猫と共にいることを内心で喜んだ。この輝きの感じられない街の中で、ガラスの猫だけが美しく輝いていた。猫の目も確かに虚ろなものではあったが、ガラスで出来たその瞳は虚ろであってさえもなお美しかった。猫は私を静かに見つめ、悲しげに美しい声で鳴いた。触れようとする私の手からするりと逃げた。
その街でガラスの猫は恋をした。私は酷く驚いた。
くすんだレンガの通りを颯爽と駆け抜けて行く、その灰色の街の中においてはとても鮮やかに映える真っ白な猫に、ガラスの猫は恋をした。その猫は普通の猫の中では確かに美しい部類であったし、虚ろではない優しい瞳をしていた。
その真っ白な猫が優しげな声で一鳴きして駆け抜けた瞬間、ガラスの猫はその猫の後ろ姿を必死で追いすがるように駆け出した。そのガラスの猫の様子に呆然として立ち尽くした私の元にしばらくしてガラスの猫は戻ってきた。そのガラスの猫の足取りは酷く重く、その瞳は酷く悲しげだった。私の姿を見ると、悲しげに美しい声で鳴いた。その悲痛なガラスの猫の姿に私は酷く心が痛んだ。そして猫はまた触れようとした私の手からするりと逃げた。
そのとき以来、ガラスの猫は真っ白な猫を見つける度に一生懸命にその姿を追いかけた。そしていつも悲しげな様子で戻ってきた。
ある日、私はガラスの猫が真っ白な猫に近づくのを見かけた。ガラスの猫は美しい瞳を嬉しげに輝かせ、その足取りも軽かった。美しい青いガラスの身体で真っ白な猫に嬉々として近寄って行く猫の姿を私は微笑ましく眺めた。美しさではガラスの猫に劣りはするが、真っ白な猫も美しい猫ではあり、その光景はとても素晴らしいものであったから。
けれど真っ白な猫はガラスの猫が近づくことを拒んだ。求愛するようにおずおずと身を近づけたガラスの猫に触れた瞬間、真っ白な猫はその優しげであった瞳に明らかな拒絶の色を浮かべ、ガラスの猫から離れた。ガラスの猫の瞳は見る見るうちに悲しげな色に染まった。去って行く真っ白な猫の後ろ姿を追いかけることはせず、項垂れ、小さく小さく鳴いた。
私の頬を生暖かいものが流れ落ちて行った。それが涙であることに気が付くのに酷く時間が掛かった。私の瞳から止めども無く涙が流れ落ちて行った。
私はこのときになって初めて、ガラスの猫の美しさよりもガラスの猫をとてもとても愛しいものだと思った。そしてなんと私は馬鹿げた存在であったのかと、涙を流し続けた。
私の涙に気が付いたガラスの猫は心配そうな表情をしたまま、私により添っていた。そのガラスの猫の表情の愛しさに私はさらに涙を流した。
私はガラスの猫の幸せを願った。
涙を流す私の横に虚ろな瞳で寄り添うガラスの猫に私は触れた。ガラスの猫は反射的に体を引こうとしたが、私の手から逃れることはしなかった。
ガラスの猫の体はひんやりと冷たかった。これが本当に生きている物の体かと、私はその冷たさに酷く驚いたが、ガラスの猫から手を離すことはしなかった。確かに私の手は徐々に体温を失い凍えては行ったが、ガラスの猫を冷たい存在だとは思われなかった。私の手の中で小さくなって震えているガラスの猫はとても温かな存在に思われた。
髪を切った。
旅を始めてから一度も切ることのなかった私の黒髪をだ。何か願掛けをしていたというわけではなかったが、何故か切るに切れずに随分と長くなってしまっていた。それだけのことだったが、それでもすっかり短くなった髪の軽さに私は少し驚いた。
「これを君に」
私は私の黒髪の束をガラスの猫に差し出した。私にはこれくらいしかガラスの猫に与えてやれるものがなかった。これくらいしかガラスの猫を暖めてやる方法が思いつかなかった。
泣き明かしてしまったせいで目は酷く腫れぼったかったけれど、私はガラスの猫に静かに微笑みかけた。
「何の役にも立たないかもしれないけれど」
ガラスの猫は返事をするように小さく鳴いた。その鳴き声が何を意味しているのか私には分からなかった。そしてガラスの猫はもう一度、そのガラスの触れ合うような美しい声で鳴いた。
そして、小さな小さな美しい声で言った。
「ありがとう」
私は驚かなかった。ガラスの猫はきっと人語を話すことが出来るだろうと分かっていたから。私は返答代わりに微笑んだ。ガラスの猫の瞳が細くなった。まるで微笑み返したように私には見えた。ガラスの猫の表情は今まで見たどの表情よりも美しく、晴れやかだった。虚ろだったその瞳には美しい輝きが増していた。
「ボクの名前は、"blue"」
美しい声。ブルー。私は口の中でその名を反芻した。ブルー。ああ、君の美しいガラスの体の色だ。BLUE。私は何度も何度も繰り返した。それが君の名前。
知ってた?ガラスの猫は私の瞳をじっと見つめて言った。
「君の瞳の色はとても美しいブルーなんだよ」
だからボクは君に付いて来たんだ。ガラスの猫は言葉を続けた。
「君がボクと同じ色の、とても澄んだ美しい瞳をしていたから。君の瞳があんまり綺麗だったから、だからボクは君に付いて来たんだ」
ガラスの猫は私の黒髪を差し出した手にゆっくりと近寄った。
「ありがとう」
美しい声でガラスの猫はもう一度呟いた。そして、私の黒髪に口付けるように鼻先で触れた。
その途端、黒髪はまるで黒髪自身が意思を持ったかのように私の手からするりと離れ、ほのかな光を放ちながらガラスの猫の体全体をふわりと覆った。あのガラスの猫の美しい青いガラスはすっかり覆われ、まばらに見えるだけになった。
ガラスの猫は青いガラスのまだらを持つ黒い猫になった。
確かに美しくはなくなってしまったが、ガラスの猫の表情は虚ろではなかった。その表情はこの寂れた街の何よりも美しく輝いていた。
ガラスの猫の体は生きている物の証のように、温もりを持った。
そして、ガラスの猫はその寂れた街において鮮やかに映える真っ白な猫を見つけると、一生懸命にその姿を追いかけた。
ガラスの猫は真っ白な猫にゆっくりゆっくりと近づいていった。ガラスの猫は虚ろな翳りを無くした美しい瞳を喜びと緊張で輝かせ、その足取りも恐る恐るといったようにゆっくりだった。美しさを失ってしまった黒い毛で覆われたガラスの身体で真っ白な猫に新潮に近寄って行く猫の姿を私は微笑ましく眺めた。青いガラスの斑模様を持った黒い猫が、鮮やかで美しい真っ白な猫に近寄るその光景は、とても奇妙なものでありながらとても素晴らしいものであったから。
真っ白な猫はガラスの猫が近づくことを拒まなかった。求愛するようにおずおずと身を近づけたガラスの猫に触れ、真っ白な猫はその優しげな瞳にさらに優しい色を浮かべ、優しい声で鳴いた。ガラスの猫の瞳は見る見るうちに喜びの色に染まった。真っ白な猫はガラスの猫の顔をぺろりと舐めた。ガラスの猫は項垂れ、照れるように幸福そうな声で小さく小さく鳴いた。
私は旅をすることを止めた。決して旅をすることが嫌になったわけではない。
私はガラスの猫と真っ白な猫と共にその寂れた街に一軒の小さな小さな家を持った。
幸せな生活だった。
昔から家というものを持った記憶のない私にはその生活は違和感そのものであったが、誰かが待っていてくれる家というものの暖かさを私は初めて知った。
ただただ、その生活は幸福なものだった。
ガラスの猫と真っ白な猫は見ている私が微笑ましく思うほどに、優しく労り合う暖かな夫婦となった。そして二匹の間に子どもたちが生まれた。
美しい仔猫たちだった。ガラスの猫の青いガラスの体と、真っ白な猫の真っ白な毛。その白と青の対比が眩しいくらいに美しかった。ただその中に一匹だけ、黒と青のまだら模様になったガラスの猫を継ぐように、黒い猫が生まれた。私の髪によく似た黒い毛。ただ足の裏の肉球だけが青いガラスだった。
それでもそこにあるのは理想的なほどの幸福であった。
私の周りで、まどろみ、戯れ、優しい鳴き声を聴かせてくれる、暖かな猫たち。ガラスの猫と真っ白な猫は惜しみない愛情を全ての仔猫たちに平等に与え、仔猫たちはその愛情を惜しみなく受けた。
私はガラスの猫と真っ白な猫と仔猫たちと、この寂れた街で幸せすぎる生活を送っていた。
"幸福とは一時のまやかしである"とは良く言ったものだと思う。
幸福とは酷く儚い。まるで、まだら模様になる前のガラスの猫のように。幸福とは不幸と紙一重であり、幸福は酷く脆い。
仔猫たちは殺された。
私とガラスの猫が街に出ていた、その間に、だ。仔猫たちは殺されたのだ。そして仔猫たちを必死でかばって、真っ白な猫も死んだ。命もまた、酷く儚く、酷く脆いものだ。
あまりの辛さに私もガラスの猫も泣くことすら出来なかった。本当に辛いときには涙も出ない。それが真実だと知った。
殺したのは、在り来たり過ぎる金に目のくらんだ商人だった。体にガラスの部分のある猫など珍しすぎるものだ。捕らえて売り飛ばそうと考えるのは、人間として悲しいくらい正常なことだ。
あまりに激しく猫たちが抵抗したのだろう。商人たちは猫たちを捕らえることは出来ず、猫を殺してしまった。
猫たちは怪我をし、ぼろぼろになり、真っ白だった毛を赤く赤く染め、床に倒れていた。お互いをかばい合うように重なり合って。それは酷く悲しく醜くありながら、それでいて不思議と息を飲むほど美しい光景だった。
私とガラスの猫は泣くことすら出来なかった。
ガラスの猫はガラスを擦り合わせたような美しい声で涙をこぼすように小さく鳴いた。
その声が静けさの立ち込めた部屋の中でもの悲しく響き、そのときになって初めて私の頬を涙が伝った。
一度流れ出した涙を止めることは出来ず、私は猫たちの屍骸が置かれた部屋で床に倒れ伏したまま、一晩泣き続けた。ガラスの猫はまるで絵でも眺めているかのように遠い遠い虚ろな瞳で、ずっと部屋の中を見つめていた。
部屋の中に朝の白い日差しが差し込んでいた。もう猫たちが殺されてから何日も経てしまったような気になって、そこにまだ放置されたままの屍骸の山を呆然と眺めた。
屍骸が微かに動いている。
今までそれに全く気が付かなかった。しかし、屍骸の山が微かにごそごそと動いていた。私は泣き疲れた体を引きずるようにして、屍骸の傍に寄った。目を凝らす。赤く染まった白い毛の中で、震えている黒いもの。私の髪の色によく似た黒いもの。
「ブルー」
私は顔を上げてぐるぐると頭を巡らせ、ガラスの猫の姿を探した。ブルー。慌てていた。ガラスの猫の姿が始め視界に入らず、何度も首を回した。ブルー。名を呼ぶ声は徐々に掠れた小さなものから、震えた大きなものになった。
私はもう一度、屍骸の山を見つめた。確かに白の中に動く黒いもの。私は屍骸の中に恐る恐る手を入れた。掻き分けるようにして赤く白いものの中に埋もれた黒いものを取り出そうとした。折り重なった死体の中で、黒い仔猫が震えていた。生まれた仔猫の中でただ一匹黒い毛をした仔猫。私は黒い仔猫を抱え上げ、抱き締めた。あぁ、生きていたんだね。生きていてくれたんだね。私の頬をまた涙が伝った。
「ブルー」
ブルー。ガラスの猫を頭を巡らせて探した。ブルー。一際大きな声で叫んだ。
静かに静かにガラスの猫が鳴き声を上げた。足音も立てず、ガラスの猫は私の傍まで近付いた。そして黒い仔猫を虚ろな瞳で呆然と見つめ、また鳴いた。
私たちは、真っ白な猫と仔猫たちの遺体を埋葬することにした。
丁重に丁重に葬り、出来る限りの素晴らしい墓を作った。
墓の前で祈りのために手を組み跪くと何故だか酷く滑稽な気分に襲われた。私は一体何に何を祈ろうというのか。神がいようといなかろうと猫たちは死んだ。ガラスの猫と黒い仔猫だけを残して。
ガラスの猫の瞳から虚ろさが消えることはなかった。その姿は異様なほどに年老いて見えた。ガラスの猫は真っ白な猫と仔猫たちが埋葬されるときも、その上に墓を作るときも、私が祈っているときも、絵でも眺めているような遠い遠い虚ろな瞳をしていた。黒い仔猫が傍によると微かに穏やかな表情を作り、黒い仔猫の顔を優しく舐めてやったが、またすぐに虚ろな表情に戻ってしまった。
私にはどうするべきか分からなかった。与えてやれるものを何も思いつかなかった。私はガラスの猫に何をしてやることも出来なかった。
家に帰りつく。猫たちの流した血の生臭い臭いが部屋の中にこびりついていた。
私はかまどに火をくべた。何も食べたい気分ではないのに、体は素直に食べ物を欲しがっていた。どんなに辛くても悲しくても、結局、体は正常通りに動いていることに私はため息をついた。まだ小さな黒い仔猫は空腹のためかガラスの猫に向かって何度か鳴いた。ガラスの猫は悲しそうで虚ろな瞳をするだけで、黒い仔猫に食事を与えることは出来なかった。私は黒い仔猫のためにミルクを温めてやった。
黒い仔猫はよほど空腹であったのか、私が出したミルクを入れた皿に齧り付きそうな勢いでミルクを舐めた。勢い良く舐めるため皿の周りに白いミルクが次々と飛び、床にミルクが転々と零れた。その黒い仔猫の様子をガラスの猫は静かに見つめていた。私にはガラスの猫の顔がとても穏やかに見えた。とても穏やかな表情で静かに見つめている。その顔には"我が子を見る父親"という言葉が不思議なほど似合っていた。
黒い仔猫がミルクを飲み終えると、ガラスの猫は真っ白い猫が子どもたちによくしていた様に黒い仔猫の体を丁寧に舐めた。そして美しい声で鳴いた。
「……ねぇ」
ガラスの猫が私に向かって呼びかけた。その声のあまりの静けさに私は酷く驚いた。
「この子はこれからどんなふうに大きくなって行くんだろうね」
ガラスの猫は穏やかな瞳で黒い仔猫を見つめている。きっと世界一幸せな子になるよ。そんな月並な言葉を私に言わせる空気はそこには微塵も存在しなかった。私は言うべき言葉が見つからず、ただガラスの猫を見つめた。
「この子を頼む」
ガラスの猫が私の瞳を見返した。私にはガラスの猫が言っていることの意味が咄嗟には理解できなかった。
ガラスの猫が私の傍をすり抜けた。その光景はまるでスローモーションのように私の瞳に焼きついた。私の傍を駆けるようにすり抜けるガラスの猫の姿は私に、真っ白な猫を追いかけて必死で駆けていた、まだ美しい青色だったガラスの猫の姿を思い起こさせた。ガラスの猫は私の傍をすり抜け、かまどの炎の中に飛び込んだ。先程まで黒い仔猫のためにミルクを温めていたかまどの、その炎の中に。
私は頭の中が真っ白になった。視界に映るのは、ただ燃え盛る炎の中にガラスの猫がいる光景。
「ありがとう」
ガラスの猫の声が微かに耳に届いた。そしてガラスを触れ合わせたような美しい美しい鳴き声がした。遥か遠い空の彼方にまで響き渡りそうな、切なく、それでいてただひたすらに美しい声だった。
髪の毛が燃えたときの独特な嫌な臭いが鼻をついた。炎の中で、ガラスの猫の体は既に青と黒のまだら模様ではなくなっていた。私の瞳と同じ色をした透き通るような美しいブルー。ガラスの猫が一瞬こちらを見た気がした。それは奇妙なほど穏やかな瞳だった。静か過ぎる穏やかな瞳で私を見つめていた。炎の中でガラスの猫の体が溶け始めた。次第に形を失って行く。青いガラスが徐々に徐々にただの飴のように変わって行く。ガラスの猫のこれまでの原型など到底分からないほどに、青いガラスで出来た体は炎の中で溶けて行った。
「ブルー」
ガラスの猫の名を呼んだ。
「ブルー。ブルー。ブルー。ブルー」
かまどの炎を見つめ、ただただガラスの猫の名を呼び、叫び続けた。既にガラスの猫の体の名残を留めているものは何もなくなっていた。私の瞳から際限なく涙が溢れ出してきた。私は炎を見つめていた。
かまどの炎が燃え尽きたときには、私はすっかり声も涙もかれていた。
私はゆっくりとかまどに近付いた。かまどの中には黒ずんだ青いガラスが固まり張り付いていた。私はまだ熱をもつそのガラスに触れた。また瞳から涙が零れた。
私の背後でガラスを触れ合わせたような鳴き声がした。それはガラスの猫の鳴き声ととても似たもので、私は驚きのあまり振り返った。そこにいたのは黒い仔猫だった。黒い仔猫はもう一度小さく鳴いた。その小さな体を震わせて、黒い仔猫は鳴いていた。その黒い仔猫が傍にいたことすら思考から飛んでいた私を、私は心の中で酷く罵った。
「おいで」
私は黒い仔猫に手を差し出した。そして黒い仔猫を胸に抱き締めた。とてもとても暖かな体だった。
私と黒い仔猫は旅立った。
ガラスの猫も真っ白な猫も仔猫たちもいなくなってしまったこの寂れた街にいる意義など何一つなかったし、血生臭い臭いと紙の燃えた嫌な臭いがこびりついた部屋で暮らして行く気にはなれなかった。それに何より、誰も待っていてはくれない家を持っていることが耐えられなかった。
「旅に出ようか」
そう尋ねた私に、黒い仔猫はガラスとガラスを触れ合わせたような美しい声で、返事をするように一度鳴いた。そして何も言わず、私に付いて来た。
私は黒い仔猫と旅に出た。一人と一匹だけで。
私は黒い仔猫と旅に出た。
「ガラスの猫と旅人と」 / 桔梗鈴の原案で天津彦さんが書いて下さいました。
同原案の桔梗鈴による書き下ろしバージョンはこちら→「温かい硝子」