旅人はその猫のことを一生忘れないだろう。
その世界一美しかった硝子の猫のことを。
旅人と猫が出会ったのは都会から田舎へと伸びる駅の前だった。おりしも時世は戦争の後。旅人は故郷への道を歩いていたのだ。
猫は待っていたかのように信号機の傍にいた。
「”あなたも線路の上を歩いて帰るのですか”」
八月の熱い風の中で、そこだけがまぼろしのように冷たく見える。旅人が驚いたのも無理はない。その猫の体は透明な硝子でできていた。硝子の瞳をまばたきさせながら尻尾をゆらす、アンティークの置き物に命が宿ったような、硝子の猫。
「うん、まあね。せかせかと行くのが……むなしくなったのだよ。それに旅というものはいつでもできるものではないからね。この際にんげんというものが何なのか、考えながら行くつもりさ」
もちろん猫は猫らしく鳴いただけであった。けれど、旅人には猫の心がわかる気がした。
線路脇の草原からひょいと出てきてあたかも十年来の知り合いのように歩きだしたのがはじめだ。いつしかかれらは”みちづれ”となり、何ともなしに連れ立って旅をすることになった。
敗戦の傷跡、残された人々と焼け落ちた尊厳。一人と一匹の前を日に何度も汽車が通り、大きな群れとなった人々は時間の流れを見ることも忘れてそれぞれの待ち人のもとへと帰ってゆく。葦やススキやありとあらゆる草木の原っぱは線路の両脇に果てなく生い茂り、列車の往来と共に穏やかに歌っていた。
「おまえは一体どこで生まれたの」
――「”わたしは、ある工房でアンティークとして生まれました。よほど強いねがいをこめて作られたんだと思います。そういう人形は命を得て歩き出すと聞いています”」
透きとおるしなやかな脚。硝子の猫が鉄の線路を踏んでも音がしないのは、彼が足の裏に透明な肉球をきちんと持っているからだ。まるで西洋の横笛のようなよく通る声で鳴く。
「おまえはこれからどこへ行くの」
――「”さあ、解りません。そもそも何で生まれたのかも解りませんし”」
硝子の猫は立派な野良だった。黒目も白目もない滑らかな眼をぱちくりさせて、猫らしい自立心を持って歩く。旅人が歩きながらそんな彼を見ると太陽の光がそのまま跳ね返って、美しい土の色が透けるのだ。
光を当てれば当てるだけ眩しく輝く体。
夜は夜で空の闇と無数の星明りに輝く猫。
旅人はこんなにも美しい猫に出会えた奇跡を心の底から喜んだ。そうして、この猫をこのままずっと自分の猫にできたらどんなにいいだろうと叶わぬ思いに心を馳せた。
そのままの姿で生きた宝石であり、生きた芸術品。この猫を見ていると至高の誉め言葉などいくらでも出てくるような気がしてくる。
「おまえの名前は?」
旅人が硝子の猫を抱き上げてみると、猫はただ何も描かれていない深いまなざしで旅人を見つめ返して、静かに咽喉を鳴らしただけだった。
「私なんかに名乗る必要はない、か」
どんな名前もこの猫の美しさにはかなわないような気がして、旅人はとうとう猫に名前を押しつけなかった。その猫を芸術品として愛した者たちはみなその猫の名前を知りたがらない。ただアンティークとして彼を愛したからだ。美しい景色に名前がないように、純化された美の前に名前は不必要である。
硝子の猫は鳴きこそすれ、自らの名前に対しては沈黙を守った。旅人はそんな猫を一時でも自分の所有物にできたことに満足し、何度も話しかけては空想の返事を楽しんだ。
「”別にあなたの所有物じゃない。
私はただあなたと同じ道を歩いているだけにすぎませんよ”」
硝子の猫はまだ独りで旅をしていた。
愛されるために生まれたのならこれ以上自分の進む場所はどこにもない。自分の生きている理由は、きっと他の場所にあるに違いなかった。
いくつ線路沿いの町を抜けて歩き続けてきただろう。硝子の猫がその雌猫を見初めたのは九月のある日のことだった。
「ん? どうしたね」
旅人が硝子の猫の視線を追うとそこにはセピア色の上品な洋風作りの家があり、開かれた窓の中で白い猫がずっと外の世界を見ていた。雪のようなやわらかい毛並みと窓際の植木鉢をひっかくときに見える桜色の肉球。おっとりしたつぶらな眼が旅人の目にも箱入り娘のようだ。
硝子の猫はしばし彼女の姿に見入っていたかと思うと、旅人の足元からあっという間にその猫のいる窓の桟へと登っていってしまった。なぜか彼女を見つめながら窓の前で硬直している。硝子の体なのに強張っているというのもおかしな表現だが。
白い猫が窓の中で珍しそうに硝子の猫を見つめ、一息おいてからやさしく鳴くと、硝子の猫はとたんに視線を真下に逸らし尻尾をもじもじと振り始めた。硝子の猫は恋をしたのだ。
窓の枠越しに見つめ合っては気恥ずかしそうにうなだれる猫の背中。二匹は触れ合うのが恐ろしいのか、互いにちょこんとその場に座ったままだ。恐る恐る硝子の猫が優しい声で鳴く。白い猫はもっと優しい声で鳴く。
白い猫と出会ったその日、硝子の猫はとうとう旅人のもとには帰らなかった。旅人は一人虫の鳴く線路脇で飯盒飯を炊きながら、硝子の猫に振られたさみしさを静かに噛みしめるしかなかった。
もしかしたら自分はあの猫のことを勘違いしていたのかもしれない。旅人は置き物の猫に対しての愛情と、硝子の猫へのそれとの違和感に気づき始めていた。
翌朝硝子の猫は旅人が出立の仕度をしているところへしょんぼりした姿で帰ってきた。
「ねえ。私って一体何のために」
生まれてきたのでしょう……旅人の幻聴。
一瞬本当に猫が喋ったような気がして旅人が聞き返すと、硝子の猫は元気のない声で小さく鳴いて、自分の透ける前足を暗い面持ちで眺めているのだ。旅人がトランクを持って歩き出しても猫はその場を動かなかった。未練のたっぷりと残る哀愁の背中に物寂しい町の色が深く映りこむ。
「あの白い猫かい?」
硝子の猫は、確かにこくんと頷いた。
「ゆきこさんというんです。とってもこころのきれいなひとで、そっとかおをなぜたらとてもあたたかかった」
私はがらすだから駄目だといわれてしまいました。わかっているのです、私のからだは冷たいから。あたたかいひとに触れたときほど自分のからだがつめたい。夜は日のひかりが、あたらないし。
「だけどゆきこさんはがっかりした私の鼻をなめて、いっしょにかなしそうなかおをしてくれた。
うれしかったです。もう少しだけ、いっしょにいたい」
胸を締めつけるちいさな思慕の鳴き声。
それは旅人の頭にじかに聞こえてくる声のようなもの。旅人は長い人生の中で、旅をする時間にはこういうことがしばしばあるのを知っていた。
「少し泊まろうか」
旅人はぱっとこちらを振り向いた硝子の猫に笑いかけた。
「何事もそうだ。いつもできることではなくて、巡り合わせというんだね。雪子さんなんて可愛らしい名前じゃないか。気の済むまで一緒にいておやんなさい」
すがるような、うかがうような声で猫が鳴く。やはり耳で聞こえている言葉ではないのだ――鼓膜で知覚できるのはどこにでもいる猫の鳴き声のみだった。
今日もまたがたんごとんと列車がゆき過ぎる。猫と旅人を同じように凪ぐ列車のディーゼル排気の匂い。
「私にはもう何もないからね。君につきあうよ。愛するひとは大事にしなきゃ」
愛のなかった時代を誰もが超えてきた後のことだ。本当の意味での出発地も行き先も、旅人にはなかった。
暮れなずむ秋の中でそれから何日も硝子の猫と雪子さんとの逢瀬はつづいた。硝子の猫は溜め息をつきたくなるほどの外見の美しさにも関わらず、雪子さんの前ではひどく奥手だった。冷たい前足でそっと雪子さんに触れて雪子さんの温かさを感じるのは硝子の猫にとってこの上ない至福であったけれど、雪子さんはその後必ず冷たさに体を少し震わせる。そのことが彼には悲しくて、またこわくて、たまらなかった。
「旅人さん、おねがいです。たいおんがほしいんです」
硝子の猫が旅人にそう懇願したのはいつのことだったろうか。ひたむきで健気な硝子の猫の姿に旅人は心をうたれた。硝子の猫の言葉は徐々に旅人には聞こえなくなってきている。それでもよかった。
旅人はいろいろと考えた後で自分の真ちゅうの水筒に目一杯湯を沸かし、それを硝子の猫の背中に背負わせてやることにした。たった数時間で冷めてしまうかりそめの体温だったが、硝子の猫は嬉々として自分からそれを背負った。
水筒は硝子の猫の背中と擦れ合って猫が歩くたびにがしょんがしょんと変な音を立てる。しばらくしてそれには腹巻きからこしらえた手作りのリュックサックがついた。
それからしばらくすると硝子の猫には”てん”やらダチョウやらの何やらあやしげなけものたちの襟巻きがつき、そこにどこかから拾ってきたらしい土鳩の羽などもつき、さらに仕立て屋の捨てた色とりどりの布切れが加わった。全部猫が自分で拾ってくるのだ。もはや硝子の猫というより何の生き物だか分からない。しまいには何にも描かれていない硝子の眼が嫌だからといっておもちゃの鼻メガネまでかける始末。
旅人も正直最後にはそのおかしな姿に吹き出してしまった。けれど硝子の猫ときたらそんなことにはまるで気づかないで、
「ゆきこさんは喜んでくれるかしら」
「ゆきこさんは笑ってくれるかしら」
と、そればっかり考えていたらしい。
人は、もしそれが美術商なら、失われていく彼の高貴な美しさを嘆いたかもしれない。硝子の猫は何をまとわずともそのままの姿で宝石のように美しかったのだから。
しかし旅人は硝子の猫を責める気にはなれなかった。硝子の猫にはきちんと魂が宿っており、少なくともそれは旅人の日々を暖かい物語で埋めてくれた。
「たびびとさん。いつもゆたんぽをつくってくれて、ありがとう」
いつしか長居するようになった宿の一室。水筒に湯を沸かす旅人の隣で、小さなもじゃもじゃの道化服を着た猫が鳴いている。
「わたしのなまえは”そうじろう”」
コンド、オヨメサンヲトルコトニナリマシタ……
……旅人が耳を疑って喜びと共に聞き返したけれど、それっきり硝子の猫は旅人に言葉を返すことはなかった。
次の日、硝子の猫はあの真っ白な猫を旅人のいる宿へと連れてきた。二匹とも猫のくせにとても気恥ずかしそうに揃って旅人に挨拶をし、そのくせとても仲睦まじい姿を見せる。雪子さんは出会った頃より不恰好になった硝子の猫のことをちっとも気にせず、むしろ自分から破れた道化服のような彼のコートを繕ってやっていた。コートを繕ってもらっている間の硝子の猫の顔の嬉しそうなことといったらなかった。
「やあ、なかなか品のある夫婦じゃないか。おめでとう」
旅人が祝辞を述べると宗次郎と雪子さんはにゃあと鳴いた。雪子さんは文字通り宗次郎の所に嫁入りしてきたようで、以後自分の実家に帰ることはなく宗次郎と一緒に旅人の棲家に居着くようになってしまった。
しばらくして、二匹の間には仔猫が生まれた。
半ば夢のような話だった。旅人は最初雪子さんの腹が大きくなるのを見て雪子さんが腹水でも起こしたのかと思ったが、その割に雪子さんが元気そうだったので放っておいたら生まれていた。赤ん坊はどれもみなとても美しい仔猫だった。母親譲りの血の通った体に、部分部分で父親譲りの透ける体まで受け継いでいた。尻尾が透明なのや、首から上が透けているものや、後足だけ靴下を履いたように透明なものもいる。一匹だけ育ちが悪い末っ子は足の裏の肉球だけが透明だった。
一匹として母猫のぬくもりを失わずに生まれてきた仔猫たちのことを宗次郎がどれだけ喜んだか、想像するのは難くない。仔猫たちは硝子の体でできた自分の父親のことを決して怖がらなかった。そうして宗次郎は妻と子どもたちの待つ自分の巣に何気なく帰っていき、子どもたちとじゃれあって眠る。
とても幸せそうな姿だった。
彼はかつて硝子の猫と呼ばれていた。名前はなく、立派な野良で、その美しさゆえに多くの人間に愛された。誰にも心を許さず、これからも気高い心持ちのままで――冷たい体を疑問にすら思わずに生きていくはずだった。
旅人は涙する。なぜかは分からない。
いつしか、旅人は旅をやめていた。宗次郎と、雪子さんと、子どもたち。彼らに囲まれて生きる小さくとも暖かい喜びの前に、彼の旅の理由は気がつくと失われていた。
旅人は、忘却することでしか幸せにはなれないと思う。どこかで旅をすることを忘れることができたら、それはきっと幸せなことだ。できることなら悲しみを踏みしめることなく生きていきたい。
それから二ヵ月後に、宗次郎は家族を失った。
年の瀬で氷のように冷たい雨が降っていた。宗次郎は旅人と一緒に街へ買い出しに行き、年明けに備えて大きな荷物を抱えた人々を見上げながら旅人と家路についた。
家の庭の端に血にまみれた真っ白い猫の死骸があった。仔猫たちを守ろうとして人間と格闘したのか、体中に棒で殴られたような痕があった。仔猫たちは全員心無い人間たちに攫われたのだろう……影かたちひとつ残さずに、全員消えてしまっていた。硝子の猫と普通の猫との間に生まれた美しい子どもたち。それに対して人間がとった結果がこれだった。旅人は仔猫たちが二度と戻ってこないであろうことを現実とともに悟った。
旅人の横では宗次郎が置き物になりかけている。時が止まったように、声ひとつ上げないで目の前の光景を見つめていた。二人が雨の中でそうやってどれくらい真っ白い猫の死骸を放ったらかしておいたのか、旅人には判断できなかった。
「埋めよう。雪子さんを、埋めてあげなくては」
言葉を発した途端に狂って叫びだしそうになった。硝子の猫は喋らない。そうして唸り声を堪える旅人の横で、どんな生き物よりも透明な眼をして遠くを見ていた。
「どうしてなんだ。おまえはどうして私に訊かないんだ。どうして雪子さんが殺されたのか私に訊かないんだ」
「宗次郎」と、その名を呼ぶ。
雨は灰色に澄んで旅人と猫と死骸を濡らす。硝子の猫は答えを待つ旅人を捨てて白い猫の死骸に歩みより、ぬくもりを探すようにいつまでも彼女の体に触れ続けて、やめようとしなかった。
部屋の中でか細い鳴き声が聞こえた。硝子の猫と旅人が鳴き声の方を向くと、末っ子の仔猫だけが体を震わせて荒らされた家具の陰から飛び出してくる。肉球だけが透明の、育ちの悪いこの子がその時の彼らには唯一の救いに見えた。
旅人と硝子の猫の会話は、その日を期に水を打ったような静けさにとって代わった。そうならざるを得なかったというのが正直なところだろう。硝子の猫は人間に対して心を閉ざしかけており、辛うじて猫を世話してきた旅人だけが猫の側にいられる恩恵にあずかっている。
仔猫は硝子の猫と旅人の世話ですくすく大きくなり、徐々に育ちの悪さを脱していった。健気な足取りで父親の硝子の猫の後をずっとついてゆく。硝子の猫も唯一生きのこったこの仔猫が哀れで、愛おしくてたまらないようでどこへでも連れて歩いた。もっぱら人の居ない場所を選んで歩いているようで、旅人は宿で留守を守っていると時々彼ら親子が二度と戻ってこないのではという錯覚に襲われた。逡巡しながら宿で眠りにつくと、起きた時には猫たちが部屋に戻ってきている。
春の訪れまでまだ遠い夜に、旅人は暖炉の火を消して寝床に入る。硝子の猫と仔猫が部屋にいる時だった。硝子の猫が床に丸まって寝ようとすると仔猫がその懐に潜りこんで小さな体を丸める。
夜が深くなるにつれ硝子の猫の硝子の体からは急速に温かみが失われていく。硝子の猫が夜中に目を覚ますと、仔猫は硝子の猫の懐の中で寒さにぶるぶると身を震わせていた。
硝子の猫は体温のない自分の体を心の底からのろった。
彼はねぼけている仔猫をそっと口にくわえると、旅人の眠るベッドに飛び乗って旅人を起こした。
「どうした。宗次郎」
硝子の猫は旅人の体温がのこるシーツにそっと仔猫を下ろし、旅人の顔をじっと見つめて何かを伝えようとしていた。それまで震えていた仔猫が旅人の温かいシーツの上で震えを止め安らかな寝息を立てはじめたのを見て、旅人は仔細を尋ねるのをやめた。
旅人と硝子の猫と仔猫は一つのベッドで眠るようになった。この冬を越えれば仔猫は一匹で眠れるようになるだろう。だが今はまだ仔猫は硝子の猫にくっついて眠っている。硝子の猫はそんな仔猫を遠ざけることができずに隣りで眠る。そしてそんな二匹を包むようにして旅人が眠る。
幸福な生活が慣れによって薄まってゆき、明日への不透明さの前に消えつつあった。一人と二匹の行く手には灰色の木枯らしが長々と待っていた。旅人は帽子を被ってコートのすそを占め、仔猫は置いていかれないように必死で歩きながら眼を細めて風に耐えていた。硝子の猫は寒さに対して無生物の強さを持っていたが、冷え切った自分の身体を気高く見せる気は皆無らしかった。
冬の間、旅人は硝子の猫と仔猫を連れてよくかまどの前を通った。宿からよく出歩く街の一角に紙ごみを燃やすためのかまどがあったのだ。買い物の行き帰りにかまどの前で立ち止まっては暖をとったり、街で買った芋を一緒に焼いたりしてもらった。
かまどの口は使用人の老人が開けるたびに鉄の箱の中から原始の火をのぞかせた。箱の中にしまわれた純粋な火は見る者の心をとろかし、いつしか人の心に宿る苦悶のいびつな塊を焼き溶かしてゆくようであった。
一人と二匹が暖を取っている間、硝子の猫の目はずっとこの火に捕らわれていた。
炎の息吹と引力に意識を漂わせながら、硝子の猫は死んだ白猫のやさしい眼を思い出していた。ゆきこさんのてと、こどもたちのてや、おなかや、しっぽをおもいだしていた。そしてそれが過ぎ去ったことを再確認した。
行動は硝子の猫が一匹で起こした。宝石のように一片の傷もない彼のまなざしの中には、決して何者にも侵すことのできない決意が宿っていた。
彼は仔猫の目を見て何かを強く言いきかせているように見えた。他の者はおろか旅人ですらもわからなかったが、仔猫は父親のまなざしに深い愛情と大いなる勇気を見ていた。両親の品のよさを継いだちいさな猫背をまっすぐ父親に向け、石のようにそこに座って動かなかった。
旅人は硝子の猫が仔猫に背を向け歩き出した瞬間に気づくべきだった。硝子の猫は二歩か三歩目で一気に駆け出し、勢いをつけて使用人が開け放したかまどの業火の中へ飛び込んでいった。
燃え上がる硝子の猫。威嚇する姿勢のまま眼をつむり、紅蓮に硬直し、満ち満ちた炎に呑まれていなくなる。
気づいた時には旅人の全身を死の怖気が駆け上っていた。汗が不自然に冷たい。
「火を止めてください」
あたふたしている使用人に悲鳴とも怒号ともつかぬ大声で喚き、熱せられた鉄のカンヌキに手を掛ける。指が一瞬焦げて煙をひいた。旅人が苦痛と本能に抗えず手をひっこめ、使用人が慌てて火を落とすまで数分のときを要した。
「宗次郎」
旅人はまだ熱気を放っているかまどの燃えかすを払いのけ、自分がすすまみれになるのにも構わないでかまどの中をほじくり返した。灰と炭ばかりが触るたびに砕けて目の前の塊から剥がれ落ちてゆく。旅人が手を火傷だらけにしながら掴んだのはもはや猫ではなく、溶けた硝子が鉄の床で山を成しただけの、廃棄物だった。
旅人は硝子の塊を引きずり出して腰を抜かしへたり込んだ。どうして最後に自分に何も伝えてくれなかったのか。自分と宗次郎とは、まがりなりにもみちづれではなかったのか。硝子の──猫ではなくて、それは、もの言わぬ塊になってしまった。
言葉を失っている旅人に仔猫が近寄ってくる。旅人は仔猫の存在を思い出し少なからず動揺した。灰をかぶった硝子は旅人の腕の中でまだ暖かく熱を発していた。仔猫は不思議そうに硝子の塊に顔を寄せていたが、やがてその大きな塊が暖かいのを知ると身を摺り寄せ、旅人の茫然とした顔を見上げた。
”旅人さん、おねがいです。たいおんがほしいんです”
硝子の猫の言葉が閃光になって旅人の意識を突き抜けていった。
硝子の猫は、死を選んで火の中に飛び込んだのではなかった。
「体温が欲しかったんだ」
たった一匹残された子どものために、己の体に体温が宿ることを信じて火の中に飛び込み、待ち続けて──硝子の猫は溶けてしまったのだった。
ちいさな仔猫はあたたかい硝子の塊にくっついてぬくまりながら、父がどこへ行ってしまったのかとさかんに首を回し続ける。旅人は硝子の塊を抱いて泣き崩れた。硝子の塊は表面に旅人の涙を受け、その身をすすぎながら旅人と我が子の身体をいつまでもあたため続けていた。
硝子の塊を埋めるという奇妙な葬式のあと、旅人は再び旅へと出ることにした。それまでと同じように淡々とした、あてどのない旅。みちづれは側に立つ一匹の仔猫のみだ。
「おまえにあげる」
旅人は道端にしゃがみ込み、硝子玉のついた首輪を仔猫の首につけた。硝子の猫の欠片である。彼を焼いたかまどの灰が混ざっていて、透明であるとはいえない。それは温かい硝子だった。周囲の人間がその玉の美しさに首をかしげても、彼は黙して微笑むだけだろう。
「温かい硝子」 / 天津彦さんの企画。こちらの話は桔梗鈴自身が書き起こしたものです。
同原案の天津彦さんによる書き下ろしバージョンはこちら→「ガラスの猫と旅人と」
今はHPはありませんが、天津彦さんに敬意を表してこの作品を捧げます