鎖とその男に関する記録 Chapter3-7

 その頃のセフェリは毎日輝いていた。
「オズワルド殿、城下町に行きません?」
「今日も?」
「いいじゃないですか。さ、行きましょ!」
 相手は口数の本当に少ない男である。名前をオズワルド・キジキス。反乱軍の戦争の中で上手い具合に軍需を味方につけ一代でのし上がった大富豪・キジキス家の、彼は一人息子だった。
 城下町を歩くときはいつも質素な服を着て、普通の人になりすます。もう手馴れたものだった。
「姫は何でも知っているんだね」
「あら、そうですか? あなただって私の知らないことをたくさん知っているわ」
 城下町での彼女は水を得た魚だった。路端の怪しげな料理を食べ、道の上のこれまた怪しい道化師や踊り子の演技に見とれ、安っぽい髪飾りを見つけてはいちいち試してみる。
「似合いますか?」
「似合うよ」
「いっつも同じこと言うのね」
「いや、本当に似合うから……」
 同い年のはずなのにどうしてこうも違うのだろう。オズワルドは城下町には似合わない。どちらかというと書物に囲まれるほうが好きな男で、女の扱いも不器用そのものである。
「じゃあ本屋に行きましょうよ」
「――それはいいね。行こうか」
 大体において受け身な男だが、こと本に関しては立場が逆転する。
「姫、この本は知ってる?」
 セフェリはそれがどんな本であっても
「いいえ、ちっとも。教えてくださる?」
 と言う。そうすると彼は本を開いて内容を面白おかしく聞かせてくれるのだ。たとえそれがどんなにややこしい学術書でも、大長編の小説でも哲学書でも彼に聞けばわかってしまう。歩く図書館と話すようなものだった。ちなみに最近は伝記の中に『国王ヴィークラム』なんて本が平気で混ざっていて、読んでみるとヴィークラムが生まれたあたりから「大器晩成」とか「偉大な」とかいう用語がどしどし使われていて挙句の果てには「娘との生活」なんて項があってセフェリは死別した妻の娘とかいうことになっているから笑いが止まらない。大方は作者のでっち上げである。まあ彼女にとってはその方が助かるのだが……。
「伝記ってやつはあてにならないね。この本の君と目の前の君とじゃ別物だ」
 オズワルドは本を閉じるとそう言った。
「私を本だけで判断しないでね」
 そう答えてセフェリは本屋を出た。こうして短い外遊が終わるのである。後は大通りの中を連れ添って帰るだけ。人々の行き交う中を、なんでもない二人として歩くだけ。
「恵んでやる食べ物なんか無いよっ! あっちお行き!! しっ、しっ」
 全く無意識のつもりだった。ただちらりと見ただけのつもりだった。
 彼女は一瞬凍りついた。
「病人がいるんだ! 栄養のある食事が必要なんだよ!!」
「金持ってきな、金を!! そしたらそれ相応の食い物を売ってやる!!」
「貴族を侮辱するつもりか……?」
 忘れるはずがあるものか。
 あの居丈高な言動、平民服を着ながら自分を貴族と呼んではばからないプライド。
「姫?」
 オズワルドの声でセフェリは我に返った。
「やだ、ちょっとぼーっとしちゃって。オズワルド殿、帰りましょう」
 言いながら早足でその場を後にする。決して振り向かない。
 彼女はその時猛烈に嫌な予感にさいなまれていた。彼女にとって、あの男は悪魔でしかなかった。


「寝ぼけたこと言ってんじゃないよっ!!」
 そうやってまた追い出される。腐りかかった食べ物を投げられ、水をぶっかけられ、時には殴り合いになる。人々の目は果てしなく冷たい。マリノは片っ端から店を訪ねては同じ目に逢い、一日でボロボロになった。靴を履いていても足が痛い。大通りはもう当てにならなかった。
 金もないのに人に施しを受けるのは彼にとって当たり前の生活だった。人に物乞いと言われようが、変わらなかった。しかし今日ばかりはそうもいかない。
「うちに病人がいるんだ」
「ああそうかい。そんなのゴマンといるね」
 もうこの国に身分はない。金が無ければ何者も見殺しにするほかない。結局一日粘って、手に入ったのはしなびたイモと腐った野菜と無数の生傷だけだった。野菜は捨てた。
 どうして「仕事を下さい」と言えないのだろう。「お願いですから食べ物を下さい」とさえ言えれば、それさえ言えれば……
(私は貴族だぞ? そんなことができるか!)
 腹ももう鳴らない。スカスカで鳴りようもない。それでも外見上は背筋を張って歩く。醜い姿でいるのが耐えられないのだ。
 だが、家の前で彼は立ち止まった。
 中に入るのが怖かった。一日タオを放ったらかしにして出てきたのだ。食べ物も無しに。病気なのに。どうしても中に入る勇気がなくて窓の方へ回り込んでみる。目だけちらりと出して、中を覗いてみる。
 体の中から力が抜けていった。
 中を見ながらマリノはへたり込んでしまった。
 小さな薄暗い部屋の中で、タオは毛布にくるまって縮こまっていた。小さく小さく縮こまって、小動物のつぶらな目で床を見ているのだった。きっと自分を待っているのだろう。あの心細い目の前に戻る勇気がない。こんなしなびたイモでは申し訳ない。
 マリノは壁にもたれてイモを見つめた。
『……マリノ様。私はそれでも構いませんわ……』
 惨めだった。多分このイモを持って帰れば彼女はそう言ってくれるのだろう。そうして起き上がれなくなって、それでも自分を許して、おそらく死ぬ。
 一人で取り残されたら、どうやって生きていけばいいのだろう。あのまま彼女の手が冷たくなってしまったら、自分は……。

 また雨が降ってきた。町の家々に明かりが灯り、それでもなお灯のつかない家の前で彼は座り込んでいた。今のままではこの壁の中に入れない。
「マリノ。……お前の誇りとは何だ……?」
 本当の誇りとは何だろう。金も地位もない一人の人間として残された誇りとは何だろう。
「誇りとは、胸を張って歩くこと。……私の誇りとは」
 もう一度通りへと足を向けた。同じ言葉を何度も繰り返しながら、家路につく人々の間をすり抜ける。
「どんなに傷つこうとも、胸を張って生きていくこと」
 しなびた小さなイモを握りしめて、憎しみとは違う何かを火にくべて通りへと出る。雨の中でも通りは人で溢れている。彼はイモをもう一度握りしめて深く深呼吸すると、一番忙しそうな店を訪ねて店主に声をかけた。
「仕事をくれないか?」
 店主は眉をしかめた。
「お前はさっきの物乞いか。駄目だ。さっさと帰れ帰れ!」
「病人がいるんだ。金が要るんだ」
「それが人に物頼む態度か? どこのヘボ貴族だか知らないが、人は要らないよ」
 思わずかっとなりかかった。言い返そうとして、イモを持っていたことに気がついた。
 うわべは捨てろ。胸を張って帰れ。
 イモは無言でそう教えてくれた。
「……お願い……します」
「あ?」
 マリノはイモを握りしめた手を雨に濡れた地面につけて、初めて深々と頭を下げた。雨と跳ね返る泥水に体が汚れるのも構わずに、通りの人々の目の前で、初めて土下座した。
「お願いします、お願いします、お願いします!! 働かせてください!!」
 人々の視線を屈辱と思う暇もなかった。
 ほとんど夢中で叫んでいた。
「どうしても死なせたくない人間が家で待ってるんです!! たった一食分でいい、私に食べ物を買う金を作らせてください!!
 ……お願いします……!!」
 一瞬の静寂があった。
「……おい、雇ってやれよ。俺ここの商品買うからさ」
 人々は静かに、しかし暖かく集まってきてその店の商品を買っていく。土下座したマリノの上をささやかな好意が通り抜ける。店主はそれを見て肩をすくめた。
「兄ちゃん、顔を上げてくれ。お客様のご要望とあっちゃ雇うしかねえやな」
 彼が顔を上げると、人々は微笑んでいた。
 今までさげすんできた人々の顔を、彼はその時初めて痛いと思った。


 夜の町々の灯火の中を、男が駆けてゆく。
「ほれ、早く奥さんのところへ帰ってやんな」
 マリノは数時間の労働を経て、ようやく腕いっぱいのイモと果物を買うことができた。初めて働いて稼いだ金を全て食べ物に変えてしまったことにも後悔はしなかった。これでもうタオが飢えて死ぬことはないのだと心の底から安堵している自分。
 辛くなかったとは言わない。ただ、生きている感じがした。
 早く帰ってタオに今日のことをいろいろ話したい。働くということが、周りの人間に混じって生きていくということが、どんなことなのか、思いつくままに聞いてもらいたかった。タオを寝かせるのはそれからにしよう。自分は頭を下げる仕事にはあまり向いていないようだから、しばらく資金を貯めたらそれこそ彼女の言ったとおり私塾を開くというのもいいかもしれない。きっとそうなったら楽しいに違いない。タオも過労で倒れることもなくなるだろう。
 灯の消えた家の戸をそっと開けると、タオは眠っているようだった。マリノは彼女を起こさないようにそっと家の中に入ると、そのまま腕いっぱいの食べ物を抱えてタオの側へと寄っていった。タオが起きた時にどれだけびっくりするか今から楽しみでしょうがない。タオの目につくところに食べ物を並べて、家のランプにそっと灯をつける。
 家の中がぱっと明るくなって、タオの姿がくっきりと家の中に現れた。マリノは忍び足でタオの方へと寄っていき、彼女の体をそっと抱き起こした。
「タオ、起きろ。イモ買ってきたぞ」

「……タオ?」

 タオは、待ちくたびれてしまっていた。灯のない家で彼女は最後まで主人が帰ってくるのを待っていたけれど、彼の声に合わせて目を覚ますには彼女はあまりにも疲れ果ててしまっていた。
「イモ買ってきたぞ」
 マリノは同じ呼びかけを何度も続ける。彼女の体はまだ温かかった。たった一言「お帰りなさい」でも「ありがとう」でも「嬉しい」でも何でもいいから、
 何も言わなくてもいいから、笑ってほしかった。


「鎖とその男に関する記録 / 第三章」


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