夢を見た。
自分の周りに紫の花が咲いていて、マリノが隣に寝そべっていた。
「タオ、お前はきれいだねえ」
いきなりそんなことを言っては起き上がる。
「何だってかなえてあげるよ」
タオはそう言われて抱きしめられた。ところが泣き声が聞こえるのだ。
「マリノ様、あれは何です?」
「ん、あれかい? あれは惨めな私の声だよ」
確かにそれもマリノの声だった。こんなに惨めで悲しい声は聞いたこともなかった。心がかきむしられるようだった。
「あんなの放っといて、行かないか?」
「どこへです?」
かたや自分を抱くマリノの声は優しい。
「休めるところへさ。お前はただ私の胸の中にもたれていればいい」
求めていた優しさがあるような気がした。永久にこのままでもよかった。だがあの泣き声は何だろう。そのままにして行ってもよいのだろうか。放っておいていいのだろうか?
どうしてそんなに悲しい声を出すのだろう。一人だけ幸せになってはいけない気がする。
「マリノ様、泣かないでください」
「……タオ?」
向こうの声が応えた。
「やはりそっちを選ぶのだね」
優しい声だけが消えていく。夢の世界が消えて、自分が寝そべるように重力が変化していく。
そうしてタオは目を覚ました。
「……」
目を覚ましてもやっぱり抱きしめられていた。
なぜか、生きている実感があった。
「お前、目を覚ましたんだね……本当に」
自分を抱く腕に力だけがこもった。耳元で泣き声が聞こえた。
「マリノ様、泣いていらっしゃるの……?」
「ああそうだよ。お前が動かなくなってしまったから泣いたんだ。今は……どうして泣いてるのか、わからないが」
今までで一番みっともない声だった。なのにタオにはそれが恋の告白と同じくらい嬉しく聞こえた。
「ちょっと待っててくれ。食べ物を買ってきたからな。……今、作ってやるから」
「え?」
マリノが台所に立つ。また緊張した面持ちで、ゆでイモを作ってくれる。彼女は驚きの目でそれを見ていた。
「お金は? どこにあったんです?」
「軽蔑しないと誓うか?」
彼は鍋から目を離さずにそう言った。
「誓いますわ」
ゆでイモは二つあった。大きくて丸々としたイモだった。
「さっき、初めて働いて稼いだ。おかしいだろう? こんな大の男が今頃になって働くことを覚えるなんて」
彼は一人ではにかみ笑いをした。
彼女はまばたきしかできなかった。
「気品もへったくれもなかったよ。人にこき使われて、大変だった。けど、初めて金をもらった時、何だかとても胸を張って物を買えた」
マリノはそう言うとお守りのようにしてしなびたイモを一つ取り出した。
「こういう金で買うものなんだな。私にもようやくわかった気がするよ」
本当に長かった。こんな簡単なことに気づくのに、本当に何年もかかった。もし貴族のまま苦しみを知らずに生きていたら、自分は取り返しのつかない世代になって失意のうちに死んでいたかもしれない。自分はまだ若いのである。今からならまだ、やり直すことができる。
「このゆでイモは初めて買った私の誇りだ。しなびたイモは私の戒めだ。
さあ、食べてくれ」
堂々とした二つのゆでイモ。
タオはそっと一つを手にとって、皮をむいて、思いきりかじった。
「おいしいです。ありがとうございました」
塩加減もちょうどよかった。あんまり美味しかったので、涙が出てきた。
「おじさん、今日街へ行ってきたわ」
「ふーん、どうだった?」
「おじさんの伝記が出ててね、とっても面白かったから買ってきちゃった」
たとえ城の中だろうと夕食は二人でとる。召使いは一切置かない。
ヴィークラムはセフェリの差し出した本をちらっと読んで笑いだした。
「おいおい! 何かものすごい内容だな! 誰の人生だよこりゃあ、っくくくくく……」
馬鹿笑いするのをこらえると腹がよじれて苦しい。美化とか脚色とかいう次元を超えてほとんど笑い話である。
「こんなまがいモノが通用するんだから、くく、世の中面白えな、うくくく……」
自分の伝記がこれほど馬鹿馬鹿しくできているとは思わなかった。本によると自分は生まれた時に両目から光を放っていたとか、子供の頃から空を見て神と会話し帝王学を学んでいたとか、時の王が彼を見て驚きのあまり乗っていた象から落ちたとか無茶苦茶に書いてあるのである。ヴィークラムは腹の底から大笑いした。どんな本よりも笑えた。最後には笑い過ぎて、涙目になっていた。
セフェリはそれを不思議そうに見ている。
「はは、どうしたよ、何かついてるか?」
「おじさんがそんなに大笑いしたの、初めて見たから」
「はは、そうか?」
「だって最近おじさん自分から笑ってなかったもの。いっつも同じ顔で笑顔作るか、しかめっ面か、そうでなきゃ疲れてるかどれかだった」
不意に笑いが静まる。彼女は頬杖をついてヴィークラムをじっと見た。
「自分の伝記の感想はどうですか、ヴィークラム陛下?」
何だか皮肉っぽい気分になった。セフェリだけはいつも「おじさん」と呼んでくれていたのに、彼女の口から「陛下」だとは。
「笑えるくらいくだらねえ人生だ」
「どうして? みんなはおじさんのこと尊敬してるよ。きっと」
「お前はわかるだろ? 王様になると余計な悩みを抱えにゃならん。ちゃちい冠や尊敬だけで引き受けるには重過ぎらぁ」
力のない笑みだった。王になってから彼は年齢より数段老けた。心なしか白髪もぽつぽつと生えてきていた。
「お前の婿だってそうだ。金が絡むと人間ってのは脆いからなぁ」
「だからあの人はそうじゃないって」
「わかってる。お前の目は信用してる」
父親の目は時として哀しい暖かさを持つものらしい。
「……ただ、な。お前が嫁入りしたら昔みたいに一人で飯食うんだ。それだけのことだ」
気のせいだろうか。七年前よりずっとヴィークラムの背格好は小さくなっていた。鉄を打っている彼を見た時の憧れが、反乱を起こした時の熱い瞳が、砂になってこぼれ落ちていくのだった。
「お前は自由に生きてみろ。俺や今の身分に捕らわれんなよ」
自分が大きくなったということだろうか?
それが大人になっていくということだろうか?
「おじさんは、一人で大丈夫なの? お后さんとかもらったりしないの?」
セフェリがそう聞くと、彼はよそへふっと目をそらして呟いた。
「お前が嫁に行ってから、考えるさ」
翌日、ヴィークラムはまたいつものように仕事に取りかかることとなった。毎日毎日山のような書類にサインし、国民の謁見に応じ、大掛かりな儀式があれば出席する。忙し過ぎて右手の腱鞘炎に構っている暇もない。
「バール、薬の方は片付いたか?」
バールとカドゥーミは補佐としてよく働いてくれる。実に頼りになる。
「ああ。命令はしといたからじきに片付くと思う。今日中には売り出されるだろ」
「それよりさ、王女様の婚礼の話とかいろいろ相談したいことがあるって、あっちの方から連絡があったよ」
「相談?」
カドゥーミはそらぞらしくうなずくと身ぶり手ぶりを交えて話しだした。
「そう。あのキジキス家のオヤジがまた嫌ぁーな感じでさ。息子の方とは大違いなのよ。すぐにヘコヘコしちゃって、その実王女の舅になったら鼻が高いとか息子が王になるからもっと鼻が高いとか偉そうなこと言っちゃってさぁ」
反乱戦争の前と後で人生がまるで変わってしまった男。キジキス家の当主もまた自分と同じ平民の出だという。
キジキス家の当主が見合いを申し込む旧貴族たちにまぎれてヴィークラムの前にやってきた時、ヴィークラムは奇妙な既視感を覚えた。互いに初めて会う人間のはずなのに、そのヘコヘコした仕草にどこか懐かしい嫌悪感を感じたものだ。
鉄を叩いていた工房と砂色の外の光景。ぼんやりとだが何か嫌なことを思い出しそうな気がして、僅かに開きかかった記憶を自分で閉じる。
「それで息子の方は?」
カドゥーミの愚痴を聞いている時りがない。
「あ、オズワルド君? あれは母親似だね。あんたと違って体力なさそうなのが心配だけど、頭はよさそう。それほど地位とかこだわらないみたいだし」
ヴィークラムは適当な生返事を返す。まだ義理の父になるという感覚がなかった。
「あんたも直に会ってみれば? これから義理の息子になるわけだし」
バールとカドゥーミがもっともらしくうなずく。ヴィークラムはそれを見て不満そうにサインを書き出し早速とちってしまった。
「誰が行くか。向こうから来るのが礼儀ってもんだろ」
サインを書き直すのも腹立たしい。それは彼なりの焼き餅に見えた。妙に子供っぽい口調になってしまった。
その頃街の薬屋では暴動の火種がけたたましい音を立ててくすぶっていた。
「何で薬がそんなに高いんだよ!!」
「今日から安くなるんじゃなかったのか!?」
薬屋にくるのは病人だけではない。半分以上は病人のことを思う健康な人間である。彼らの怒りたるや尋常ではない。
「そ、それが、政府の方に問い合わせてみましたら、もう薬がないって」
「嘘をつくな。あの王様がそんなちゃちい真似するわけないだろうが!!」
「本当なんですよぉ――……」
薬屋の店主が縮こまる。人々はみな殺気立っていて聞く耳を持たない。
「こいつ隠してるに違いねえぜ!」
「締め上げて吐かせるか!?」
「いや、ちょっと待て」
その時一人の男が主人の前までやってきて、胸ぐらを掴み上げた。
「……店主。私にも、家で待っている女がいてね。食べ物はどうにか食べられるようだが、薬がなかったせいで死んでしまうかもしれないんだ。もしそんなことになったら私は包丁を持ってきてお前のことを殺さなきゃいけなくなるんだがね」
主人はその男の眼に怯えだした。
「本当にお前は関係ないんだな?」
「あ、あい」
怒ると蛇のように冷たい目をする男。何より、人外の境地を見た人間の目だった。冷たさを通り越して淡々とした殺意さえ匂わせる。
「お前の上司の名前は。薬を売るといった直接の人間の名前は?」
「い、言ったらうちがやっていけません」
「ほう」
マリノは笑った。眼だけが何の躊躇もなく「殺す」と呟いた。
主人は震え上がってしまった。
「人の体をいじくるのには慣れているんだ。過去に散々やったしな。例えばお前のどこを、どうすれば、死ぬまで苦しませられるのか。実践してもいい」
「い、言います言います!! お願いですから堪忍してください!!」
主人がそう言うと、彼は手を離した。いきなりではなく丁重に。
「鎖とその男に関する記録 / 第三章」