ヴィークラムは謁見の間にいた。国王たるもの民衆なしには生きられない。彼も暴君にならないようにするためには毎日民衆の声を聞く必要がある。
「そうか。何とかしよう」
「聞かせてくれてありがとな」
「そんならあいつに相談してみろ」
人々はそんな風に親身になってくれる王に対し心を開いていった。税が重ければ食べ物が高くつく。政策や法律が悪ければそこへ悪人がのさばる。温室育ちの貴族や王族と違って彼はそれをよく知っていた。結果として、彼はそれまでの王族たちより遥かに良い政策を布いた。人々はますます彼を支持した。
ところがその日は民衆の声がおかしかった。誰もが口を揃えて薬がないと言う。約束が違うじゃないかと言う。しかし部下に問い合わせてみると、そんなはずはないと言うのだ。
「んな答えを期待してるんじゃねえよ。さっさと原因を調べろ」
部下たちは慌てて外へと飛び出していった。それとは逆に、一人の部下が入ってくる。
「陛下。まだ民衆が外にたむろっておりますが、その中に謁見したいと申し出た者がいまして」
「事情を説明して明日にしてもらえ。薬の方を片付けにゃならん」
ヴィークラムが立ち上がると、部下はそれでも引き下がれないのか縮こまって話を続けようとした。
「……それが、その者が奇妙なことを……」
「何だ?」
部下は言ってもよいものか迷った。単なる狂言だったら呆れられ、時間の無駄だと言われるに違いない。それくらいわけの分からない言葉だった。
「早く言え。急がにゃならん」
部下はそう言われると自信がなさそうな顔をして、それでもはっきりこう言った。
「じゃあ、伝言をそのままお伝えしますね……『マリノ・マリーニが薬の件について話したいことがある。バルガスという男に会わせてくれ』……だそうです」
そして部下は珍しいものを見た。
王が立ちすくんで呆然としているのだ。度肝を抜かれた王様など、初めて見た。何をそんなに驚いているのだろう。そもそもマリノ・マリーニやバルガスとは誰だろう?
「……陛下、いかがなさいますか?」
王は伝言に比例して奇妙なことを言った。
「そいつだけ部屋に案内しろ。できるだけ内密にだ。他の奴は何人たりとも入れるな」
いつもの明朗な王ではなかった。
マリノ・マリーニは彼にとって憎むべき敵の象徴である。金と権力の名のもとにセフェリを辱め、自分たちを殺そうとした。はっきり言ってもし本当にマリノがこの城へ入ってきて、セフェリやバールやカドゥーミがそれを見たら迷わず彼を殺すだろう。自分でも場合によってはやりかねない。
ヴィークラムは正面扉以外の扉にすべて鍵をかけ、刃物の類を他の部屋に移して大きく深呼吸した。これから会うのは一国民である。私情を持ち込んでは王の役目を果たせない。
扉をたたく音がした。こつこつと、落ち着いて二回。
「入れ」
扉がゆっくり開いて、平民服を着た質素な風貌の男がかしこまった足取りで玉座の前まで歩いてきた。
「ご機嫌うるわしゅうございます。久しぶりにお会いできて光栄です、陛下」
見かけこそ変わったが、完璧な礼儀作法といい、そこから生まれる皮肉といい、マリノ・マリーニ以外の何者でもなかった。それにしてもあのマリノが自分の下にひざまづいているというのも何だか嘘臭い。身の危険を冒してまで彼がここに来た、その本意が掴めない。
「久しぶりだな、マリノ。あんまりてめェに構ってると何もしねェで返せる自信が無くなってくるんでな。用件だけ聞こう」
ひざまづいていてもなお余裕を漂わせる男だった。城の調度品はヴィークラムよりもむしろ彼に合うようにできていて、平民服でもそれがわかった。
「それでは単刀直入に申し上げます。陛下は部下の犯した汚職にお気づきになられましたか?」
ヴィークラムは眉をしかめた。この男が放つ言葉は、いつも何かしら毒があった。
「汚職?」
「左様、汚職でございます。薬を独占し値を吊り上げている輩がいるのです。陛下は税金で薬を安くしようとなさったそうですが、はっきり言って今のところ無駄です。私共”平民”風情にはまだ薬が買えない」
――目を瞠った。
マリノが自分を平民呼ばわりしたのである。プライドが鼻につく口調はそのままに、彼はあっさりとそう言ってのけた。その鮮やかな変わりぶりはヴィークラムにとって予想だにしないものだった。
「なるほど、それはわかった。だが何か証拠はあんのか」
「薬屋の証言と私の経験が証拠でございます」
「経験?」
「左様。何せ旧知の人間でございまして」
マリノは笑わなかった。昔ならここで冷笑したに違いないが、彼は目を伏せて余計なことを言わないようにしている。
嫌な予感がする。
「誰だ? そいつは」
彼はしばらく間を置いて、それから茶化すこともなくこう言った。
「ビンラオ・キジキスという男です。今のキジキス家の当主にあたります」
ヴィークラムは息を呑んだ。
「本当か?」
「嘘をつけば私が殺されるでしょう?」
バルガスという苗字で呼ばれていた頃。
月に数回しか行かないマリーニ邸の庭で、ほんの数回だけ記憶の片隅に映っていた男の姿を、ヴィークラムは今こそ鮮明に脳裏に蘇らせる。
マリノに薬を売りつけていた卑屈な薬屋だ。
話をしたことすらなかったのに、あのヘコヘコした仕草をいつまでも憶えていた。それはバルガスと呼ばれたマリーニ家お付の鎖職人の記憶。非道な主人の所業を知りつつ、金と、身分と、権力の前に屈していた。もう一人の自分の記憶。
冗談ではなかった。確かに言われてみるとキジキス家には商才があったし、縁談を足がかりにして本来の薬関係の事業をさらに拡大している節もあった。実権は当主がそのほとんどを握り、息子は半ば傀儡として父の事業に加担していたと聞く。だがマリノの話が本当ならば……十中八九間違いないだろうが、キジキス家の信用は地に堕ち、当主は裁かれ、結婚は当然ご破算ということになる。
ヴィークラムには重い決断だった。王としてその汚職を許すことはできない。私人としてセフェリの思いを踏みにじったキジキス家が許せない。……だが、息子には、彼女の選んだ相手には、咎はないと信じたかった。
父親として、それができるのだろうか?
娘のようやく手に入れた幸せを取り上げることなどできようか?
思いを区切れよく分けることができたらどんなに幸せだろう。動悸がする。目の前の男がつくづく嫌になってくる。どうしてマリノ・マリーニという男は不幸ばかり運んでくるのだろう。昔は笑いながら自分たちの生活を踏みにじった。金と身分と権力を失った今でも、彼は自分たちを効果的に苦しめる術を知っている。
「楽しいか、マリノ……?」
「陛下?」
マリノのきょとんとした顔が憎い。この怒りを思い知らせてやりたかった。彼が悪魔の申し子に見えてならなかった。
「ふざけんじゃねえ……てめェって奴は自分のしたことを棚に上げてよくもまあいけしゃあしゃあとここへ来れるな!!」
頭に血が昇ってきた。王としての自分が昔の自分に押し流されていく。
「陛下、何をおっしゃっているのです?」
「とぼけんな!! てめえはどうせセフェリの縁談をブッ壊して楽しむ気だろうが!!」
怒りは人を盲目にする。ヴィークラムはマリノの真意を理解することも、彼の変化を見てとることもできなかった。
「何が望みだ!? 言ってみろよ。金か? それとも地位や権力か!? また人の上に立ってえばり散らしてえのかよ!?」
普通の人間が聞けば震え上がる声が部屋中にこだまし、緊張した空気が流れた。マリノは沈黙でそれを受け止めた。
「それは私への侮辱ととっていいのか?」
ありあまる金と権力を、もはや欲しいとは思わなくなっていた。
「ただ薬を安くしてくれと頼みに来た一般人に対する王の返事がそれか。やはり金と年月は人を変えるか」
背筋が凍りつくような凄みのある声。ヴィークラムは足が動かなくなるのを感じた。
あの冷笑が、人をあざけ笑うあの顔が今自分に突きつけられている。
「そうか……あの薬屋がね。昔からお世辞にも清らかな商売をしている男とはいえなかったがとうとう王族の血筋まで欲しがったか。嘘で塗り固められた国の権力の血を。お前には悪いが、初めて聞いたよ。
街で汗水たらして働く連中がそんなこと知ってると思うか? 私たちには守るべき人間と誇りが全てだ。私にも、守るべき死にぞこないがいる。王にはわからないかもしれないがな」
もう彼はひざまづいたりしなかった。平民服のまま毅然と立ち上がり、王を敬うそぶりさえ見せなかった。
「今のお前に命を懸けることはできるか? 答えろ、バルガス」
真剣な問いだった。その質問自体がマリノの変化を何より如実に表していた。
「……できるさ。俺にだってな、どうしても守ってやりてえ人間の一人くらいいる」
「そこまでは堕ちていないようだな。それならわかるだろう? 薬さえあれば助かる人間のために何千人が命懸けで働いているかが。お前はその全てに責任がある」
それは正論だった。一個人が抗える話ではなかった。
「急いで薬を買えるようにしてくれ。言いたいことはそれだけだ」
マリノは一度だけ礼をすると、くるりと玉座に背を向けて歩き出した。ヴィークラムは無言でそれを見送る。何もする気力がないといった方が正しい。
それで二人の正式な会合は終わった。
後には、私的な会話があるだけだった。
「最高の金と権力を手に入れた気分はどうだ? バルガス」
マリノは部屋を出る前に足を止めた。
「てめぇにゃどう見えるよ。この冠、この衣装! うらやましいだろ」
「哀れだな」
ヴィークラムはその言葉にぽかんとして、何も言えなくなった。
「昔の私と同じだ。お前は遊びこそしないが、人々はそうは思うまい。ただ支配者だというだけで己の周りに壁ができ、叫びを聞いてもらえなくなる」
マリノは最後に平民服を指差して、自信に満ちた微笑を浮かべた。
「金は自由を縛って作るものだ。お前の作った鉄の鎖なら錆びもするが、金と引き換えに作られた鎖は金を捨てない限り永久に外せない。
人が何と言おうとお前は不幸な人間さ。そのまま金と権力と正義感の鎖につながれて一生を終わるがいい」
そして自分の胸を二度叩く。
「さもなくば私のように悪人扱いされて一人の女と平凡な幸せと自由を手に入れるがいいさ。好きな方を選ぶんだな」
マリノはそのまま凛とした足取りで部屋を出て、二度と戻ってこなかった。ヴィークラムはそのまま部屋に一人取り残され、無言で王冠を撫でていた。
それはまさに最高の皮肉だった。
最も憎むべき男こそが、自分の気持ちを誰よりも深く理解していた。
王になってから哀れんでもらったことなど一度としてなかった。自分はいつのまにか道楽や策略の中で疲れ果て、他人を素直に信じられなくなっていた。
『好きな方を選べ』
彼は多分一生マリノを許さないだろう。
しかし、その時ほど彼がマリノに感謝し、かつうらやましいと思ったことは、後にも先にもなかった。
「鎖とその男に関する記録 / 第三章」