自分の商売が他人の人生をいくつ潰したか今では知る由もない。おれは、大人に身体を差し出すことを強く拒絶して売人になった。罪の意識より体を突き動かす生への渇望を優先した。生きるために金が欲しかった。
前々から、おれが親友たちに麻薬を売っていた罪はいったいどこで償えばいいのだろうと思っていた。ベンジャミンとユリシーズはきっとおれを許すだろう。けれど多分この罪はおれの中に消えない打ち身痣みたいに残って、二度と癒えはしない。
「確かヘロインでよかったんだよな。ユリシーズがいくらで買ってたのかは知らないけど、そこはボビーの言い値で買うよ」
ベンはお前にだけは売るなって言っていたよ。エリックにヘロインを売ってくれなんて言われる日が来るなんて、夢にも思っていなかったから。
十二月の冷え切った晴天の中でおれはしばらく閉口して今日もやっぱり空が蒼いと思っていた。残酷だ。ここの空は残酷な日ばっかり真っ蒼だ。ベンジャミンが死んだ日も空が落ちてきそうなくらい蒼かった。あんまり蒼過ぎて天使の羽みたいな雲も寄れやしないし、見上げたおれたちの凍った吐息も昇っていけない。
「お前には売れない」
「何で」
「売れないから」
「何でさー。ベンやユリシーズにはいつも売ってたじゃん。おれ金はあるって言ったよ」
クスリのために陵辱されて殺されたベンジャミン。クスリのために発狂しかかったユリシーズ。犯罪だから、とか、身も心もボロボロになるから、とか、そんな言い訳が最初から考えられそうもないくらいおれは二人に対して簡単にクスリを売っていた。エリックがまるでスナックでもねだるみたいな無邪気さでヘロインをねだるのはそのせいだ。おれの罪がはっきりと真空の晴天の中に投げ出された瞬間だった。弁解は絶対にできない。今更クスリを売れないことをエリックに分からせるには途方もない、足が竦むほどの勇気が必要だった。
「売れないんだよどうしても」
「何で」
愚直なくらい正直で、まっすぐなエリックの瞳。それに比べておれの罪は咽喉みたいな狭い通り道から出ようはずもないくらいに大きくて、暗くて、重苦しかった。声が掠れて出ない情けなさばかりが見えてくる。おれの情けなさに比例してエリックの顔は冷たくなってくる。
「答えたくないならいいさ」
エリックはほかをあたるよと一瞬で言い捨てた。そっけなく。それまで合っていた視線は一瞬で振り切られ、張りつめていた心が急に加速して遠のくのを感じた。
「待ってくれ」
売れないんだよ! 売れない、売れないんだ。売れないんだ。
すっかり気が動転していた。ブレーキもクラッチもない心でエリックの腕を引っ掴んで肝心の”売れない理由”を言おうと思っていたのに、何でか同じ台詞ばかり出た。
「売れないんだ。……とにかく売れないんだ。……だから……」
「何が言いたいんだよ?!」
エリックが声を荒げる。本気で怒っている証拠だった。いつもは透明な目が吊り上がって燃え始めている。
「同じ台詞ばっかり言われてもわかんないからな! ボビーらしくねえよ。カッコ悪いなあもう!」
何だよ、おれらしいって。昔の自分を思い出せば惨めな思いの方がずっと多いのに。本当のおれはずっと弱い自分を覆い隠して表面だけスカして生きてきていたんだ。今ならそれが解る。
「殺したんだよ」
殺したんだ。殺したんだ。殺したんだ。
同じ台詞ばかり、繰り返す。やがてその頭に「おれが」という言葉が付け足される。
目を閉じて「売れない」というノイズを消すとおれの周りにはエリック以外誰も居なかった。だだっ広い灰色の大地と残酷な空と凍って消える息だけ。
「ベンはスピード欲しさにあの豚についていった。ユリシーズはヘロインで中毒起こして発狂した。ユリシーズだけは帰ってきたけどな」
ベンジャミンは帰ってこないよという言外の呟きはエリックを黙らせるのに十分な静けさを持っていた。
「おれは、知ってた。……あいつらがおかしくなってたこと。あいつらが中毒だったこと。あいつらはクスリをやめられなくなってた。おれとあいつらは対等だったんじゃない。あの二人はそれを解ってておれを庇った。友達だったから」
ともだちだったから。
おれにそれを言う資格があったのだろうか。それでもその時、おれにはほかのどんな言葉も出てこなかった。当たり前だったことを口にした時、おれは自分がいかに取り返しのつかないことをしたか、初めて理解したような気がする。
「おれ、どこであいつに謝ったらいいんだろう」
もう帰ってこない。
突然がちがちに張りつめていたものが解けて、涙がぼたぼた出てくるのがわかった。
「ともだちだったんだよ」
その先の言葉をどうやって紡いだらいいのかわからなかった。
”ともだちだったんだ”
”だから、謝らなきゃ”
”なのにおれは”
ベンジャミンは死んでしまった。もういない。あの日から。
ただ、あいつの優しさに見合うものを。それに見合ったものを返そうと思ったのに、おれにはもうその術は残されていない。それでもおれたちは友達のままだった。
前後のことが何も解らないまま、気がつくとおれは散々に泣きじゃくってエリックの腕の中にいた。
「ボビーのせいじゃないよ」
みんなの優しさがおれを傷つけてゆく。深い、大きな嗚咽が心の底からさらにこみ上げてくる。「ごめん」という言葉を出す前に自分の嗚咽で体が言うことをきかなくなっていく。
友達を亡くすって、こんなに哀しいことだったんだ。忘れていた。何もかもがあまりにショック過ぎて。
泣き疲れてゆるやかに正気に戻ったおれは、今度は腹を据えてエリックを見つめて、「クスリは売れない」とはっきり言い渡した。
「違うよ、使うのはおれじゃない。クリスマスに死ぬ人のために、痛みをやわらげるのに使うんだ。クリスマスは必ず人が死ぬから」
エリックは事情を告げた後、すっかり憤りの消えたもとの透明な目でおれの目を覗き込んだ。
「でも、マジになって言ってくれてありがとうな。こんなにボビーが泣くのおれ初めて見たよ」
ベンもきっと天国で喜んでいるんじゃないかな……そんなエリックの言葉におれはもつれた痛みを抱えてうつむくしかない。
「さっきは友達だって言ったけど、おれにそんなこと言う資格……あるのかな」
「口だけで「友達じゃない」とか言っても意味ないじゃん。どっちかが何かしたからなんて難しいことはいいんだよ。とりあえずそういうのは関係なしにベンとお前は友達。おれは今そう思った」
大事なのは、そいつのことどう思ってるかだろ。
何の疑いもなく正直にそれが言えるエリックも本当は強い奴なのだと思う。おれの友達は強い奴らばっかりだ。強いし、やさしい。
エリックの仕事が終わってからの帰り道で、おれはエリックにホームレスたちとの間にあったことを話した。はっきり言ってホームレスたちがエリックに重荷を押しつけているというおれの意見は変わらない。あのどこか逃げている目が嫌いだということも変わらないし、群れをなしている分不気味でもある。
「そんなに悪く言わないで欲しいんだけどなあ」
連中を容赦なく批判するおれの前でエリックは身内でもけなされたかのようにしてしょげかえっていた。ホームレスたちが自分たちの子供だと言うだけのことはある。
「確かにちょっと変な人もいっぱいいるけどさぁ、あそこの人ってそこいらの人たちよりずっと優しいんだよ? おれなんか困った時とかいっぱい助けてもらってるし」
「だけどそれだけじゃないじゃんか。肝心なところだけお前にやらせて、自分はそっぽ向いてる。いつも優しいのだって裏で何考えてるか……」
「もともとそんなこと期待してないよ、おれは。それ以上酷く言ったらおれも怒るよ」
凄んだ口調でもないくせにエリックの言葉が重いのは、エリックが言ったことをいざとなったら本気でやる奴だからだ。おどけていないときのエリックは基本的に怖いほど嘘をつかない。いつもは笑ってばかりいるし怒るというよりはしょげることの方がずっと多いから、すぐ忘れてしまうけれど。
素直であるということは時として凄まじく重い。
「だって、やっぱり酷いじゃんかよ。お前辛くないのか? 人が死ぬってわかってて、それ見続けるの」
重いからおれなんかは目を逸らしながらでないと話せない。夜の冷気が鼓膜の側の空気まできんきんに冷やしていろんな言葉やその意味を明瞭にした。どんなにくぐもった話し方をしても、この空気の中では外に出た言葉を吐息でごまかすこともできないような気がする。
「……お前、ベンの死んだところ……見たばっかりじゃん。人が死ぬの嫌だってさっきも言ったじゃないか」
人を思いやるのにも体力が要るものだと言いながら思った。夜の闇に弱々しく逆らう街灯の明かりをいとおしく思いながら歩き続けていると、信号の所でエリックがあさってを見ながらいつもの声で返事をした。
「死に方にも、よるよ」
車両用の信号が赤から青へ変わり、町明かりの中をあまたの魂が色とりどりの鉄のボディで走り抜ける。彼らの排気の前ではおれたちの白い吐息なんかすぐに消えそうに小さかった。
「誰にも見取られないで死ぬのと誰かに見取られて死ぬのとじゃその人の中でぜんぜん違う。おれは、その人が死ぬ前に『ありがとう』って言ってくれれば、それでいい。でも言ってもらえなくても別に構わない」
誰にも見取られないで死ぬのって、世界一悲しいと思わないか?
最後の方は涙声になっていた。見ると、車の明かりでエリックの顔は何度もほのかに透明な涙を光らせていた。
エリックはおれの顔を見ない。目をそらして、そのまま夜の闇に頭をなでられるのを受け容れているようだった。
「ボビーは、偉い。すごいよ。おれの目を見て泣いたんだから」
誰かに見られることも、抱きしめられることも望まない。望むことさえできなかったエリックの涙。
「ベンはさあ、おれが見つけた時、だあれもいない、すっげえ冷たいビルの中で死んでたのな。おれ最初そいつ誰だかわからなかったもの。顔ぐちゃぐちゃに潰れてたし、眼鏡してないしさ。いつのまにか頭ぼーっとしてて、地震で死んだのかなあとか思ってさ、ベンだってわかってたのに違うって思い込もうとしてた。だからそこに落ちてた聖書も、怖くて拾えなかった。見ないようにしてた。
あれはベンじゃない。ベンはきっとどこか他の場所で死んだんだって。だからきっと聖書もあれは他の人ので、ベンの聖書は他の場所に捨てられてるんだって、必死で記憶をねじ曲げた。だってそうだろ。あんな死に方なんてひどすぎるじゃんか」
信号の光が青になっても足が動かなかった。青信号の時間がゆっくり過ぎてゆき、歩行者用の信号が待ちくたびれて赤になり、魂の流れはまた動きはじめる。あっちが止まればこっちが流れ、とめどなく繰り返し、終わりなく流れつづける闇の中の弱々しい光。
「だけどいつまで経っても見つからない。ベンの聖書はどこにもなかった。あの場所にしかないんだってわかってたのに、ずっとずっと首を振りつづけた。最初からあの場所にしかなかったのに。それを認めるの、死ぬほど怖くて。
あの姿がベンのものだって思いたくなかった! だけどさ、お前らまだ人殺すとか言ってるんだもの。ユリシーズは耳ちぎられるしさあ!」
「エリック」
エリックがおれの声にびくりと跳ね返る。振り向いたエリックの顔を見ておれは声をかけたことを後悔した。おれが見ていなかったら、エリックはきっとその先を言っていた。
「”もううんざりだ。あんなのもう見たくない”」
「復讐、やめた方がいいか」
一瞬、本気で復讐をやめられると信じていた。だがエリックは泣き濡れた顔で引きつった笑顔を浮かべて、悲しそうに首を横に振った。本当に悲しそうに。
「ボビーがやめてもユリシーズはやるんだろ。だったらボビーもきっとやっちゃうよ。できないんだろやめるなんて。
なんにもしないで生きてくことなんかできないもんな」
何度目の青信号が出たことだろう。エリックは何も言えずにいるおれの先を行くようにとうとう信号を渡り始めた。耳を澄まさなければ聞こえない足音。おれはエリックの後を追いかけて、夜の街を再び歩きはじめる。
「ベンの聖書はやっぱりあの廃墟の中にあったよ。崩れちゃった天井とかにうずもれてさ、おれを待っててくれたんだと思った。
でも掘り返した時にそれは違うってわかったんだ。おれは間に合わなかったんだ。ベンの死ぬところに」
エリックが涙声のままで両腕を広げて夜の闇のなかを飛ぶと、街頭の明かりが広がるコートを白く照らす。
エリックはもう二度と聖書の言葉を唱えなかった。ただ暗闇の中でおれの方に振り返って、泣きはらした目で、滑稽に笑っただけだった。
おれたちは帰る。弱々しい、それでもどこかやさしい明かりに照らされながら。慰めと同時に死の淵が届かない場所へ遠ざかるのを今のおれは単純に喜ぶことができない。どんなに暗闇に愛されたところで、消えてはいけなかった。残されたおれたちは……。
「聖域の子供達」