地平線から大きな冷たいエネルギーが吹いてくる。この都市は一度外へ出れば次の都市まで何百キロもあって、それまではぽつぽつ生えた枯草とうっすらと粉をふいた石灰質の大地がひろがっている。いつだって網膜を刺す眩しい太陽があった。紺碧の青空はあの地平線で大地に降りて風になるのだろう。だとしたら、あのうんと向こうにある半透明の摩天楼はいつも空の風に曝されて、いつか風化するのだろうか。
病室から出て数時間後におれはそんな荒野の彼方を眺めて、傍らのネスととりとめのない話をしていた。
「ねえ、エリックはここから出ていったと思う?」
「どうだろうな。ヒッチハイクでもするならともかく、歩いて出ていったら次の町に着く前に飢え死にするだろう」
今日も廃墟を捨てて出ていく幾つものトレーラーがあった。トレーラーが走るたびに光がつるつる塗装の上を滑る。ひとつひとつ、途切れることなく誰かが街を出ていく。遠くへ、あの荒野の彼方へ。ちいさくなってゆく光のかけら。それまで都市を満たしていた魂のかけらが、地震でだめになった体を捨てておれたちの横を通り過ぎていく。
「この場所も荒れるな」
裕福な奴から居なくなって、犯罪者と貧乏人が残る。そう呟いてネスとおれは背中の廃墟を仰いだ。冷たい風は汚いものからその生命力を奪っていく。まず汚物が乾いて浄化する。そして次におれたちの息が凍る。灰色の巨塔のあいだには、まだ鳩と蝿が飛んでいる。
聞くところによると、ネスはエリックが失踪してからずっと一人でエリックの行方を捜していたのだそうだ。やはりエリックが失踪したのを自分のせいだと感じていたのだろう。おれたちには何も言わずに町中を歩き回ったものの、成果はなし。おれたちはそのことをゴーグの口から聞くことになる。
「言ってくれれば良かったのに。変なところで水臭いんだよ、あんた」
「俺の責任は俺一人でカタをつける」
「そうじゃないって。捜し方が下手なんだよ。それを言ってるの」
おれだって人のことは言えないクチだけれど。この街でエリックを捕まえることがどれだけ難しいかをほとんどの人間はわかっていない。悪意のない暗闇はみんなエリックの味方なのだ。あいつはそういう暗闇を見分けて隠れる術を知っている。
「身につけたっていうより、もとから持ってる特性っていうのかな。おれたち隠れんぼであいつに勝ったことないんだよね」
あいつの意識が透明なときはあいつの気配も透き通っている。どんなに近くにいても気づかないから捕まえられない。そのくせエリックは自分でそのことに気がついていない。
だからおれは時々こう思う。エリックは何か別のものに近い場所で暮らしているんだ。それは光であったり、暗闇であったり、廃墟であったり空気であったり蝿であったりする。エリックのいる場所が時々エリックを可愛がって、周りの意識から少しだけ隔離してしまう。
「だからエリックが消えたのに気づかなかったのは、あんたのせいじゃないんだ。責任感じることないよ。”あいつは誰にも捕まえられないんだから”」
そう言いながらおれは都市の中で公園へと足を進めた。仮にも復旧しつつある商店街がクリスマスのオブジェを無数に飾り、赤と緑でお洒落をしたもみの木に陶製の白い鳩がとまっていた。
「ネスさん。ネスさんはクリスマスには何するの」
「さあ。多分、誰か殴ってる」
公園はこの時期ホームレスが溜まる。クリスマスを前にしてホームレスはあちこちの住処から掃き出されてしまうからだ。そんなわけで公園の森には不似合いな青のビニールシートがダンボールやベニヤ板に絡まって何十件も立ち並び、蝿と暗い霞を呼び寄せてくる。
「ここの人たちは殴らないでよ。エリックに嫌われちまう」
開放的で、かつ排他的な人々の集落。エリックが立ち寄る可能性があるとしたらここだという予感があった。
「なぁ、誰かエリック見なかったか? 白いパーカーに膝下が斑になってるズボンを履いてて、金髪で歯が一本抜けてる。おれと同い年の」
「エリックか」
地面のゴミ溜め場から湧いて出たような薄汚いゴミの権化たち。何日も体を洗わない人間の匂いと汚れ方があいつと同じ。公園の中央で沸かした湯を飲んでいる男連中はみんなエリックのことを知っていた。
「そうか、おまえさんがあいつの友達か。あの子に一体何があったんだい?」
あの子はどうして元気をなくしてしまったんだい……まるで集団で大きなひとつを成しているような感情のうねりに、エリックのいた形跡を見た。
「エリックは俺たちの可愛い子供みたいなもんだ。だからあいつがしょげ返ってるとうちらはもう心配で心配で」
ホームレスたちの可愛い子供。そういう言い方もあるかもしれない。
「エリックはここにいるのか」
「いいや、あの子はここから離れてしまった。うちらに気ぃつかって一人で苦しいの全部持っていってしまったんだなあ」
「でもクリスマスには帰ってくるぞ」
「クリスマス?」
突然そうだそうだという唸り声が四方八方からこちらへ湧き上がって、おれに反射的にポケットのナイフを握りしめさせた。眉を潜めているネスと背中合わせに立って周りを見回すと何十もあった小屋からぼつぼつと汚い男たちが顔を出してくる。
「そうだ」「あいつは帰ってくるぞ」「帰ってくる」「そうだ」「そうだ」
ひとつひとつ、顔が無限に増殖してゆくかに思われた。……一体。何なんだろうこの場所は。
ホームレスの男たちはまるで辺境の村人たちのようにざわめく。ざわめきはちょうどおれたちの周辺で一つになる。得体の知れない化け物が重低音の大きな唸り声でおれとネスの周りの全部を、ふるわせる。
「今年のイヴはアランかポールの爺さんあたりが死ぬ。あの子は知り合いが死ぬのを放っておけないやさしい子だから」
広場でお湯を飲んでいた一人が遠くの小屋を指差した。ホームレスたちの視線を集めるその小さな青い小屋には、おそらく”アラン”か”ポールの爺さん”が住んでいるのだろう。
「”死ぬ”?」
「そう。死ぬ」
説明すら要らないと言わんばかりだ。男たちはマグカップに溺れた蝿を平気でお湯ごと飲み干す。おれはそれ以上先を聞きたくないと思った。
「エリックはそれを見取りに来るのか」
「ネスさん、いいよ。もういい」
「見取りに来るとも。その役目は毎年エリックがやってくれるんだ。あの子でないと見取られる側も救われない」
ホームレスたちはおれの混乱を気にも留めずにどんどん喋りはじめる。遠くにあった蝿の羽音が、徐々にこっちへ寄ってくる。
「この場所では自然なことだが、イヴには必ず人が死ぬんだ。これはもう、うちらの間では儀式みたいなものでね。世界中の連中の幸福をここにいる誰かの死で贖う。世界中の連中が何でイヴだけは幸福でいられるか知っているかい? イヴとクリスマスが誰かの死で祝福されているからだよ」
生きた黒い瘴気がこの広場を取り囲んでいって、おれに冷や汗をかかせているのがわかった。ホームレスたちは誰もこの死の蔓延した異常さに驚かない。彼らが蝿を忌まわしいものだと思っていないからだ。きっと、こんなに荒んだ眼では鳩と蝿の見分けもつかない。ここの連中には何かに盲目になっている。
「どうしてそんなに怖い顔をするのかね。不気味かね?」
エリックに似ている。殺人現場で蝿と調和していたエリックの姿がこの場所にだぶった。ここでは死の見え方が変わってしまう。
「わかってくれなくてもいいんだよ。うちらはいつものようにやるだけだから。イヴの儀式はどんな年中行事よりも厳かに行われなけりゃならん。
エリックは、ありゃあ本当にいい子だからね。毎年毎年よく泣き言も言わずに見取り役をひきうけてくれるのさ。死んでいった連中はみんなあの子を天使だと言ったよ」
他のどんな常識も受けつける輩ではないのだ。社会から見捨てられ、絶望して、いじけて、外見をいくら善良に繕っても内面の汚濁した体液は確実に滲み出る。
死がただの儀式になるって……何だ?
何でみんなそんなに簡単に受け容れるんだ?
ホームレスたちの汚い顔は、どこか変にきれいだ。生きたまま死んでしまったような絶望の光が彼らのすべての目を、人以外のものに変えてゆく。
「しょうがないのさ」
諦めたふりをする姿は世界への呪い。何日も洗わない彼らの魂はこの公園で群れて、いつまでも希望をもたらさない世界を呪っている。自分ではもはや一歩も歩かない、神の子羊を気取った奴ら。見せかけだけきれいな顔。
もう誰も死んで欲しくない……エリックはそう思うだろうに。ずっと友達だったおれでさえ一度しか見たことがないものを、こいつらの記憶に期待するのは無理なのだろうか。エリックが悲しみで泣き叫び、自分の心まで壊しそうだった姿。周りの全てを、あるいは神を必死で呼んでいた。誰も来ないと知っていて呼んでいた姿。
「人が死ぬのに、何で平気でいられるの」
おれはひどくこの場所にいるのが嫌になっていた。たとえ短絡的な思考だとわかっていても、おれにとって「死」の扱いはベンの記憶と直結するからだ。
「だってしょうがないさ。これが神様の決めた運命だもの」
神様という名の、最高に都合のいい嘘。何でも神様のせいにすれば逃げられるという、嘘の裏に隠された大人どものずるさを子供たちは知っている。
「エリックはうちらの大切な天使だ。何があろうとあの子は必ずイヴにここへ戻ってくるよ。心のやさしい子だからね。だから君たちが心配することも何もないんだ」
毎年誰かを失っているのに、血を流した形跡のない顔たち。こいつらは何かを見落としている。
「すげ替えるな」
心の言いたがっていたことを口に表したらそうなった。その言葉にホームレスたちの顔がざわざわと汚されていくのを、おれは絶対に見逃さなかった。
「人が死ぬってわかってて、何でそんなにきれいな顔ができるんだ。あんたら。わかっているならこんなところでくすぶっていないで一日でもそいつを生かすための金を稼ぎに行けばいいんだ」
冗談じゃない。人は人の醜いあやまちによってにしか死なない。神様のために美しく死んだ人間などこの世には一人もいない。嘘で見せかけだけきれいに塗り固められた死など。
「エリックに全部押しつけるなよ。どうせエリックがいなきゃここでの葬式が死ぬほど惨めったらしくなるだけなんだろ? 生きることも死ぬことも諦めた奴らだけがうじうじうじうじ惨めったらしくゴミのように集まって」
「ボビー、やめろ」
ネスが俺を止めるのだって相手に失礼だと思っているからじゃなく、単純にやつらのくだらない恨みが膨れ上がるからだ。逆恨みもいいとこだった。歪んだ連帯感を仲間意識と勘違いして自らの醜さに気づくことすらできない輩。それでもエリックの存在はこいつらを清めるだろう。あいつがやさしいのだけは本当だから。
やさしいから、きっとあいつは悲しみを隠す。やさしいから誰の死からも逃げられない。エリックは自分を天使みたいに祭り上げるこいつらの無責任さをきっとわかってて、それでも責めたりはしない。それがあいつにしか持てない尊さだから。
自分の頭に血が上って、恐ろしいほど眼光が澄んでくるのがわかる。ホームレスたちがおれを見たまま動かないのはおれの背中に熱気で黒い翼でも生え始めたからに違いない。
「あんたらに仕事がないなんて嘘だね。本当に金が欲しいならヤバい仕事でも身売りでも何でもすればいいんだ。もっともあんたらにはその気もないんだろ。
別におれはあんたらに強制はしないよ。ただ死ぬなら勝手に死んでくれ。あいつを巻き込むな」
おれたちは誰も死にたくなかったっていうのに。身売りして必死で生きてたベンの惨たらしい死に様とここにいる連中の屁理屈な死に様が一緒かと思うと、笑えてくる。何でこんなに腹が立つんだろう。諦めて死ぬ連中なんか、勝手に死なせておけばいいのに。
「あんたたちのせいで死ぬことがまた汚くなったじゃねえか! これ以上死ぬことを汚すな。きれいな面してるくせに最高に汚い。
あんたらみたいなきれいな面してあいつのこと忘れるくらいなら、おれは人の一人も殺したほうがましだ!!」
あんたらのきれいな面は、何も見ていない。
蝿たちが包囲する広場の中で叫んだおれの声ははたして何人に届いたのだろうか。
「もっと汚いもの見ろよ! あんたらエリックが本気で泣き叫んだところ見たことあるのか?!
ないんだろうな。あんたらは計算高いから。天使だから何やらしても平気なんだろ。誰もあいつを人間扱いしてないことに変わりはない」
ネスが強引におれの手を引いてその場を立ち去ろうとする。
「ボビー、もうやめとけ」
「何で止めるんだよ。こいつら頭おかしいじゃんか。放っといたらこいつら都合の悪いことは全部あいつに押しつけて自分は目を塞ぐ。自分の瞼の裏しか見えてないんだよ結局。エリックは人間なのに」
大人の理屈なんか大嫌いだ。どうしようもなく馬鹿な大人どもの屁理屈なんか。
「お前らなんかの儀式でもやったらエリックが悲しむんだよ! 諦めて死ぬならさっさと死にやがれ!! お前らのフザけた屁理屈にあいつを付き合わすなーっ!!」
否応なしにおれは広場の外へと引きずられていく。ネスがあいつらからおれを守るためにそうしたのは、おれにだって解っていたけれど。
ホームレスたちのすさんだ瞳はまるで変わりそうになかった。客観的に見れば一方的におれが腹を立てて叫んでいるだけで、あいつらには希望のかけらも、見受けられなかったのだ。
おれたちは蝿の柵の中から勝手に外へ出ていく。何も変えることができないままに。
「落ち着いたか。ボビー?」
公園から出たところで顔を覗き込んできたネスの前で、おれは何度も閉じたままのナイフを力任せに振り下ろした。
「悔しいよ。あいつらはベンのことも、エリックのことも、馬鹿にしたんだ……!」
……それに。ここで傷ついたエリックの痛みは一体どこで癒されるっていうの。
ネスはおろか誰にも答えられない質問だとしても、おれはそう問わずにはいられない。
「待って、待って!」
ほんのささいな良心がとがめたのか、追ってきたのは比較的若いホームレスが一人だけだった。口を利くのも嫌だったおれが振り返ってガンを飛ばすと、男はする必要もないのに両手を挙げておどおどと視線を落とした。
「……その。残念だけど僕には君の意見に何か言える資格は、ない。罪ほろぼしをしたそうに見えるのなら軽蔑していいよ」
エリックは都会のはずれの石切り場にいるんじゃないかな……小声でそう囁いた男の顔は、羞恥の念で卑屈に歪みきっていた。
風は日が落ちるにつれさらに冷たくなってくる。町を飾る虚飾の幸せの、さらに上を見上げるとそこには廃墟の真実の姿が残っている。崩れたままの灰色の巨塔が空の方へ徐々に復旧されて、それ自体が一つの無機質な美しい慰霊碑になっているのだ。
地震のあとの貧困が無くなったわけじゃないんだ。夜の暗い冷気は町を通るたびに誰かの命を攫っていく。そうして朝と夜を繰り返して、ここはいつか本当の廃墟になる。それは一体いつのことになるだろうか。
自分の吐く息が凍るのを感じながらおれはネスを引っ張って郊外の石切り場を目指していた。
「石切り場っていったら子供には重労働だろうに。空き缶拾いの方は一体どうしたんだろうな」
咽喉が冷気で焼ける。手がかじかんで霜焼けを起こしはじめている。それでも何もしないで動かずにいることの方がずっと苦痛だった。
「償いだよ」
「償い?」
「ベンを助けられなかった罪を償うんだ」
あるいはおれたちがやろうとしている復讐への償いかもしれない。良心がある限りあいつは何かを償い続けて、背中の羽根をむしって、生傷にさいなまれてゆく。
(求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます……)
祈る相手が存在するなら祈りたい気分だった。心の中で何度も教わった言葉を早巻きにしながら霜を宿した灰色の瓦礫の上を早歩きで踏みしめる。ネスの目から見てもその時のおれは前しか見ていなかった。だからおれが立ち止まった時ネスは悟ったのだそうだ。おれの視線の先にある光景を。
際限なく灰色の石が砕かれていく音。瘴気を自らの肌に染めて空気を洗う、石のほこり。石切り場の労働者たちは風に晒された大地の上で罪を償っている。ここで切られた石は廃墟を建て直し、復旧した建物の一部になる。灰色の慰霊碑の石を運びつづける男たち。
「エリック!!」
男たちにまぎれて重い石を担いでいるその小さな少年は、おれの呼びかけに確かに振り向いた。
「ボビー?」
足が勝手にエリックめがけてまっしぐらに駆け出していた。石を運ぶ男たちをかき分けて、肺の中から出た息が全部凍りつくのにも、構わないで。
白い翼は古ぼけた茶色いコートの下にしまわれている。ゆっくりと担ぐ石を下ろすその顔は、しばらく見ないうちにひどく弱気そうになっていた。
「どうしたんだよお前、捜したんだぞ! いきなりいなくなるから、おれもユリシーズも、みんなも、さんざん心配したんだぞ」
エリックは目の前で息を切らせて立っているおれのことがどうにも信じられないといった面持ちだった。おれの顔に力なく投げつけられる、決まりわるそうなまなざし。
「もう来ないかと思ってたよ」
おれ、大事な時に戻らなかったもん……家なしのエリックには「戻る」という観念自体がひどく曖昧だった。ベンの死ですっかり参っていたところにユリシーズが耳を失った事件が起きたのがショックで、独りで外には飛び出したものの何となく帰れなくなってそのまま外で日々を過ごしていたのだという。エリックはその後ユリシーズが回復に向かっているというおれの言葉を聞くと心底安堵の息を洩らした。
「本当におれが一番馬鹿だよなあ」
何度も何度も「ごめん」を連呼して、泣きそうな顔でうつむいて。
「いいよ、生きてりゃいいんだ。生きててよかった」
本当にそれだけだった。徐々に胸を満たす喜びが予想以上で抑えられない。馬鹿馬鹿しいくらい大袈裟にエリックを抱きしめてやると、エリックは戸惑った様子でおれの腕の中を揺らした。
「ちょ、ちょっと」
「やらせろよ。言葉が出ないんだこっちは」
嬉し過ぎて何も言葉が出ない。言葉にしたい熱さはめちゃくちゃ胸の中に詰まっているのに。エリックは何も言えずに喜んでいるおれの顔を見ると、抗うのをやめてしばらくそこに立ち尽くしていた。
今おれたちが互いの背中を探したら、そこにはぬくもりで小さな翼くらい生えているかもしれない。自分を知っている人の体温は、尊い。人の心を埋めるものがあまりにも少ないこの世界で、数えるほどしかない貴重なもの。
エリックはおれに「ありがとう」の意味をこめておれの背中をぽんとたたくと、小さな胸を強張らせてあえてきつい質問をした。
「復讐はもうやめたの」
喜びの感情の上にさあっと冷たい水がふりかかる。エリックらしい、棘のないやさしい口調だった。
「おれに気兼ねしなくていいよ。ボビーやユリシーズが今どういう気持ちなのか、知りたいんだ」
一瞬冷たい風を忘れていたのに。エリックを抱きしめていた腕を解くと、胸の中にはまたあの冷たい風が吹き入ってくる。
おれの表情を見たエリックは悲しそうな笑顔を取り戻していた。現場の監督から注意の声がかかり、彼は再び重い石を担いで遠くの運搬場所へと歩き出す。「話しながら仕事する分にはどやされないよ」そう言いながらおれを手招きする。
「復讐は、悪いけどやめる気はない」
「そっか」
エリックの返事はあっけないほど簡潔で軽かった。
「ボビーはやさしいもんな。そういうことならおれも覚悟は決めておくよ」
顔には優しさの絡み合った複雑そうな笑みを浮かべて。
「エリックは、やっぱり復讐すんの嫌なのか?」
「……うん。嫌だ。人が死ぬのが嫌だよ。それにボビーやユリシーズが人を殺すのが嫌だ」
傷つけただけで満足できなかったんなら、殺すしかないもんなぁ……。
エリックはおれやユリシーズが殺人を犯す可能性を平気で口にした。強がりではなく、恵まれた子供の甘い台詞でもなく、本当に人が死ぬことをわかっていて言っている。真実味のある言葉。
「もう本当に殺すしかないんだなぁ」
エリックはこんな風に復讐のことを喋る奴だっただろうか? おれはその疑問にぶちあたって立ち止まる。エリックは今までこんな物言いをしたことはない。
「この仕事、イヴの前の日まで続けたら結構なお金になるんだ。そしたらボビーたちの所へはいっぺん戻ろうかと思ってた」
エリックは立ち止まった俺を見て不思議そうに首をかしげた。
「どうしたんだよー。止まってるとおれ重いんだけど?」
息が凍る。おれは生返事をしながらエリックに追いついて、奴の吐く息が何度も凍るのをじっと見ている。悲しみを振り払うエリックの無邪気な笑顔。
「お前、何か隠してないか?」
「え、やっぱりバレた? 嫌だなあ。やっぱりおれ馬鹿だから顔に出やすいんだなぁ。実はお前に頼みたいことあったんだよね」
そこに悪意はない。しかしそれ以上のことは何も解らない。奴の笑顔の向こう側にあるものが何なのか、本当は誰も知らないのかもしれない。
「この仕事が終わったら結構なお金が入るんだよ。そしたらおれお前にクスリ売ってもらおうかと思って。ユリシーズが使ってたあれ何て言うんだっけ? ヘロインだっけか?」
「聖域の子供達」