モーテルのシャワールームは照明がどうしても薄暗い。ユリシーズの宿に来るやいなや客が現れ、おれは問答無用でここに押し込められている。
「一言でも何か喋ったら承知しないからね」
……それと、耳塞いでて。聞かれたくない……
……ユリシーズの顔があんなに泣きだしそうに歪むなんて。おれに耳を塞ぐ余力なんてないのに……。
背中のドアの向こう側から響いてくるユリシーズの喘ぎ声。初めて聞いたがビデオ屋のAVの声より随分苦しそうだ。むしろ苦悶の声に近い。まるでユリシーズそのものみたいに強くて、きつくて、そのくせ身体だけはまだ幼くて、どこか強烈にそそるものがある。さっきまではおれの友達の顔をしていたのに、あの声を聞くとおれは生理的に変な感じになってくる。さっきとは違う意味でひどい災難だった。
左肩の傷口が熱い。いよいよ腫れてきたのだろう。心臓が一つ増えて苦痛と一緒に熱く脈打っていた。頭も熱くてぼうっとする。静かにしてて欲しいのに、喘ぎ声のせいで目を閉じると悶えるユリシーズの顔が浮かぶ。
いや、ユリシーズの裸の上半身だ。上にいるのはおれじゃなくて知らないクソ親父。
敗北感に似た感情の渦が胸を締めつける。これ以上耐えられなかった。持っていたヘロインを使った。傷口に塗りつけて少し吸いこみ、おれは意識の彼方へ逃げた。
カフェの隅っこで聖書を読んでるベンの眼鏡。丘のてっぺんで清められた言葉を唱えるエリックの翼。おれの前で泣きそうだったユリシーズのきれいな髪。おれにもそういうものないかなあ。人を脅すためのナイフじゃなくて。そういうのじゃなくて……
それから数日間おれは熱を出して寝込むことになった。マクワイルド・ブラザーズの仮設宿に世話になり、医者に行かず用心棒のネスに裁縫用具でそのまま肩を縫われた。幸いヘロインという強力な麻酔があったから苦痛はそれほどなかったものの、熱だけはどうにもならずうなされた。
「ちゃんと栄養のあるもん食え。食わねえと死ぬぞ」
ゴーグもネスも子供には優しい。家賃のことは言われなかった。それどころか久しぶりに手作りの飯を食べさせてもらえた。そういう変な矛盾が妙に人間臭い連中だとおれは思う。
エリックもおれが刺されたと聞いてすぐに見舞いに来た。
「ボビー、生きてるか!?」
髪の毛がぼさぼさで少し見ないうちに臭さが倍化していた。ユリシーズがあまりの臭さに声を上げ、例のごとく問いただす。どこへ行ってどういう生活したらそんなに汚くなるのよ――エリックはあっけらかんと照れ笑いをするばかり。いつものこと。
エリックの姿はいつからこんなになったのだろうか。髪はべとべとぼさぼさして、歯は黄色い上に一本間抜けに欠けている。肌に沈着しそうな黒いすすの層。分厚い手の皮。何より、血痕が茶色く変色した斑のズボン。エリックはこのズボンを絶対に脱ごうとしない。
全身を洗った後のエリックはいいとこのお坊ちゃまみたいだ。
「やっぱりお前は汚い方がお前らしいよ」
「おれもそう思う」
毎度毎度意味もなく笑ってしまう。エリックは居るだけでよく人を笑わせた。どこか可笑しくて、変わってて、でも性格は曲がってなかった。そういうところが多分世間知らずないいとこのお坊ちゃまとかぶるのだろう。エリック自身は世界一貧乏なはずなのに。
「うらやましいよ。お前のそういうとこ」
弱っていたせいで柄にもないことを言った。エリックもおれからそんな台詞が出るとは思ってなかったのか、「よせよお」と言って急に照れた面になった。
「ボビーだってすごいじゃんか。大の大人と戦って、一人でやっつけたんだろ? おれにはできないもん。そういうこと」
「そんなの自慢にならねえよ」
「そうやって謙遜するあたりがまたカッコいいんだって」
そんなもの……
「……本当に、自慢じゃないんだ」
「おれ、こんなんだからさ。みんなと違って、何にもないんだ。それに次も勝てるかどうか自信ない。下手したら死ぬと思う。死んじまうんじゃないかな……」
……きっと。
エリックはおれの言葉を聞くとじっとおれを見た。おれが死ぬことをあんまり深く考えていないのを見抜かれたかもしれない。哀しそうな顔だった。
「ボビー。お前さ、もし刺されたのが肩じゃなくて腹だったら、帰ってくるのやめてた?」
「……わからない」
でも、多分帰ってくるだろう。多分怖くて帰ってきてしまう。
「おれさあ、思うんだよ。いっそみんなおれと一緒に空き缶拾いやって暮らせば、どんなに楽しく暮らせるだろうって。だけどみんな空き缶拾い嫌がりそうだろ? いつも怒ってるけど綺麗じゃないユリシーズとか、カッコつけてないボビーとかさ、ゆっくり聖書を読んでないベンとか、らしくないと思うんだ。
変な話だけどさ、空き缶拾いが似合ってるのって実はおれだけだったりするんだ。だからおれはみんなに転職なんかすすめないんだ」
エリックは知っている。他人の人生がいかに変えがたいものかを。そうしてそこから生まれる食い違いさえも容認する時、あいつは笑っていても哀しそうな瞳をしていた。
「熱が引いたらちょっとつきあってくれよな」
エリックは聖書を捜しに行こうと言っただけだった。自分にできることはそれしかないと思っていたのかもしれない。
「ねえボビー。あと二千ドルよ。それで銃と弾が買えるわ」
ユリシーズの声はいつも意志の力で満ちている。手には四千ドルの札束。いつもならこの金はヘロインと石鹸とコンドームと洋服でなくなってしまっていた。それが今、札束のままできちんと残っている。紙幣を何度も数え直してはほくそえむユリシーズの顔。
次の客が来るまでの束の間の休みだった。おれは左腕をガーゼで吊り、暇なときはこうやってユリシーズの様子を見に来るのが日課になっていた。彼女の様子が日に日におかしくなっているような気がする。ユリシーズが、気がつくと復讐のことしか喋らなくなっていた。それに気づいたのはいつだろうか。多分エリックが見舞いに来てすぐだったと思う。前はもっと偉そうに色々なことを喋っていたのに、最近はおれたちともめっきり喋らなくなった。そんな暇があったら客をとっている。ユリシーズはすぐにいなくなる。
犯されて、身体を洗い、また犯されて、延々その繰り返し。いつ自分が食事をしているのか解らないと言っていた。
「ヤラれてるかシャワー浴びてるか寝てるかって感じね」
そんなことよりこの金を見て。……それが、お決まりの台詞。
おれはぞっとした。あの時の彼女の苦悶の声が、何度でもおれの心を侵食する。あんな声をユリシーズは毎日朝から晩まで上げているのだ。
「お前……身体、平気なのか? 大丈夫か?」
おれが思わず真剣な声色で気遣うと、ユリシーズはげっそりした頬で笑った。
「大丈夫よ。死んでないわ」
何も自分の心配をしてなかった。ユリシーズは自分がどれだけやつれた姿をおれに晒しているか、多分わかっていない。
今のユリシーズは復讐に自分の全てを賭けている。その極端な姿勢が却って危うく見えた。このまま放っておいたら復讐の前に死んでしまいそうな、死神の宿ったような小さい身体。
「身体が死神に喰われてる」
ユリシーズはおれの言葉に眉をしかめた。
「お前、何か首から下がスカスカになってるよ」
おれはユリシーズを放っておけない一心で色々なことを言った。
墓場に生えてる木みたいな痩せ方だ。
明日にも死ぬんじゃないかって思っちまいそうな。
どうしてかわかんないけど、危なっかしくて放っとけない。
何か食べないとまずいよ。とにかく頼むから何か食いに行ってくれ。それも、今すぐだ……云々。
「誘ってるの? 随分失礼な誘い方ね」
ユリシーズはおれをからかうように笑った。妙にしなを巻いた仕草におれは面食らってしまった。
「でも、いいよ。ボビーがそこまで言うなら行きましょうか」
ユリシーズはおれのことを時々変わっていると言う。廃墟や人を見る時、おれは良くも悪くもものを美しくなるように捉えているとのことだ。
「大体あの街見て綺麗だと思える奴の神経がわかんないわ。ベンやエリックもそうだけど、あんたは別格。あんた本当はかなりのロマンチストよ。自分で気づいてる?」
「嘘つけよ気色悪い」
ユリシーズの笑い方は心底おかしそうだった。
「だからさあ、そういうとこがあんたらしいのよ。天然よ天然。外面はスカしてても中身はそうなの。ヤク無しでそこまで夢見られれば世話ないわ」
おれはユリシーズにナメられているようで腹が立った。そもそもロマンチストだなんて言葉が気に入らない。おれの目標とするイメージに、そぐわない。
すぐに言い返そうとしたが言葉に詰まった。ふてくされているおれにユリシーズがこう続けたからだ。
「まあ、うらやましいけどね。私も欲しいな……そういうの」
ユリシーズの目には、この世界はどんな風に映っているんだろう。初めてそんなことを考えた。
おれは今まで思い違いをしていたのかもしれない。今までおれは全ての人間が同じ世界を見ていると思っていた。否、”同じように見えていると思っていた”。でも実際にはそんなことは全然なく、おれたちは全員違う色のサングラスをかけて生きているらしい。そしてその映り方は各々まるで違っている。おれのサングラスは綺麗だけど映り方が違うらしい。ユリシーズのはどうだろう。もしかしたら赤いレンズだとか? エリックのサングラスは難しいものが映りにくいのかもな。それに……
ベンの眼鏡。あれには神様が映っていたのだろうか。おれが覗いても見えない神様が。
おれは思い出の中でベンに聞いた。
「お前は神様を信じているのか」と。
「僕にとってはね、神様は聖書の行間に住んでいるんだ」
お前の神様はお前を助けてくれるんじゃなかったのかよ。
「そんなこと言ったって、こうやって地震も起きたじゃねえか。これも神様のしわざって言うのか?」
ベンはあの時おれを見て微笑んでいたっけ。賢い、神様のお使いの動物みたいに。
「ボビー、神様にとって地震は罪悪じゃない。いくら地震で人が死のうが、それこそ生まれたばかりの赤ちゃんが無残に押しつぶされて死ぬことがあっても、神様は何とも思わない。だからみんなは神様を崇めるんだよ。神様は人じゃないから」
だから神様に祈るだけじゃ駄目なんだと付け加えて。
「聖書の神様はそれとはちょっと違う。聖書の神様は、人間のことをよく知ってるし、実は悩んでいる。だから読んでておもしろいんだよ。人間の良心を読むみたいなものさ」
それがベンを見た最後だった。二日後にベンは辱められたまま死体になった。
なぁ、ベン。答えてくれよ。
人間の良心はお前を救ったか? 人間の良心は……。
「聖域の子供達」