……
裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ
あなたがたが量るとおりに、
あなたがたも量られるからです。
……
廃墟の冷たい空気で目を覚ますと、もう夜になっていた。何でおれはここのベッドの上で寝ているのか。いつも、忘れそうになる。今一瞬何かを思い出しそうだったのに、それは部屋の中の闇みたいにとりとめがなかった。空気みたいに触れた感触がなくて、そのくせ冷たいのだけは解る。骨が冷える。
しばらく真上の闇に目をこらしていると、その中にとても小さな黒いかたまりがいくつも飛んでいるのが見えた。ひゅんひゅんと、すばしっこく滑らかに飛ぶ。不安が粒を成して飛ぶみたいに。しばらくすると、その一つが耳元を飛んだ。不安を掻き立てる虫の羽音。
蝿だ。
思わず声を上げそうになった。あの上を飛び回ってる何十匹もの黒い小さな物体が、全部蝿だなんて。何とかしないとあれが全部俺の耳元にたかってくる。そうやって耳の中を掻き分けて奥にまで入り込んでくるんだ。
蝿はいやだ。蝿は、死を思わせるから怖い……。
「少年の方は大丈夫。絶対安静にしておきなさい。それと、残念だけど……女の子の方は完全には治らない。耳の組織がつながらなかったんだ」
とうとうやぶ医者に担ぎこまれたおれたちは、鎮静剤を打たれてそのまま強引に眠らされた。全治三ヶ月。おれは肋骨を二本と左の鎖骨を折られ、内臓もかなりのダメージを受けていたらしい。左腕も脱臼していた。元に戻す時の激痛で身体が砕けそうだった。
廃墟の一室で処置を受けた時のおれとユリシーズの絶叫は二十分ほど止むことがなく、ゴーグとやぶ医者は暴れるおれたちを全力で押さえつけなければならなかったらしい。さながら拷問を受けて死に瀕している子供と、無慈悲な拷問役のように。
「舌を噛んじまう! 早く布を噛ませろ!!」
いつ鎮静剤を打たれたのか覚えていない。記憶はその後しばらくして、いきなり真っ黒に塗り潰されていた。次に目が覚めたらベッドの上で、朝の廃墟の割れた天井が編集されたフィルムみたいにつながっていたのだった。周りを見渡すとそこにはユリシーズが眠っているだけ。頭に巻かれた包帯が痛々しい。
そのままでいると、ゴーグとネスが様子を見にやってきた。
「やっと起きたか。調子はどうだ?」
どうやら俺はそのまま病院で一夜を明かしたらしい。生返事をするだけでも頭がふらついた。そのくせ、長いことここに居てはいけないという何かの警告が頭から離れることがなかった。後で考えてみるとそれは蝿が集まるような廃墟の雰囲気であり、またこれからふんだくられるであろう法外な医療費に対しての予感でもあった。
安息できる場所が欲しい。ここ以外で。ユリシーズと一緒に飽きるほど眠りたいんだ。それから……あれ?
「エリックはどこへ行ったんだ?」
いつも笑っていたあいつが、おれの前で泣いていた。
「何なんだ。何なんだよ。おいお前何なんだよこれは。何なんだ。何だってんだ?!」
おれの肩をゆすぶるエリック。壊れた顔から悲しみがほとばしって、叫びが言葉にならない。見ていておれまで泣きたくなったのはなぜだろう。あんなに哀しい、壊れそうな心を見たことがなかった。
エリックは夜の間に病院からいなくなった。気がついたら消えていたという。誰も行き先を知らなかった。
「捜しに行かなきゃ」
起きようとすると止められた。歩ける傷じゃないと言われた。
「骨がもう一度折れても面倒は見ないぞ」
「そんなこと言ったって、あいつ放っとけないよ」
おれだけが知っているんだ。あいつの叫んだ顔。このまま放っておいたら、あいつも壊れてしまう。
「あいつ、きっと聖書捜しに行っちまったんだ。捜して。お願いだから捜してくれよ。あいつがいなくなる前に」
あいつがいなくなってしまう。そういう言い方しかできなかった。あいつから希望があとかたもなく崩れ落ちた時、おれたちはきっと抜け出せない暗闇にのまれてしまう。みんな壊れてしまう。
「誰でもいいよ。誰でもいいから……!」
”誰かおれたちを助けてくれ!”
多分おれの心はそう言っていたんだと思う。ゴーグとネスはおれの必死な顔を見ると互いに顔を見合わせ、少し話をした後で「わかったよ」と言ってくれた。すぐにエリックを捜しに出ていってくれたあの二人に今は何もかも預けるよりない。動けない体に不安ばかりがつのった。
「あのバカ、まだ聖書なんか捜してたの」
醒めた声がした。ユリシーズがいつのまにか起きていたのだ。けれどその顔は冷たく凍りついていた。まるで全てを憎み、否定するかのように。
「そんなことしたって無駄なのに。ベンも、エリックも、信じたものに殺される」
「何でお前そんなこと言うんだよ!!」
咎める声に思わず語気がこもった。
「ごめんなさいね。耳がないから聞こえないの」
そっけない言い方に言葉が詰まった。ユリシーズはそんなおれを見て静かに笑った。
「嘘よ。私は神様はいるって信じてるわ。だからね、こうも信じるの。このちぎれた耳は本当の耳じゃないって。
神様は尊いから、きっと次は本当の耳が生えてくるわ。どんな耳かしらね。うさぎさんの耳か、それともとびうおみたいな耳かしら。天使みたいな羽の耳が生えてきたらすてきね。今からそれが楽しみでしょうがないの」
愛らしい少女の笑みの、はずなのに。ユリシーズの目は涙と絶望で充血している。それでも彼女は笑った。
「神なんか死ねばいい」
たった一言に、返せる言葉がなかった。
エリックは強い陽射しの中で、灰色の荒野を独り歩いていたという。焼けついた瓦礫からたちのぼる陽炎に包まれて、足を焼きながら空き缶集め用の大きな板を引きずっていた。罪もない罪人のように。
彼を見つけたのは弟のネスの方だった。
「エリック! エリックだな?!」
振り向いたエリックはあの時と同じ顔をしていたそうだ。ベンが殺された時の、あの帰り道。エリックはその道を今度は逆向きに歩いていた。あの忌まわしい場所に向かって、まっすぐに歩いていったらしい。ずっと聖書の言葉を唱え続けながら。
裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ
あなたがたが量るとおりに、
あなたがたも量られるからです。
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
誰であれ、
求める者は受け、探す者は見つけ出し、
叩く者には開かれます。
「本当は知ってたんだ。聖書がどこにあるのか。だけど、今までどうしても行けなかった」
エリックは涙を無造作に流しながら聖書を唱えつづけた。これまで忘れたらベンとの絆は失われてしまう気がする。だから泣きながらでも唱えていなきゃいけない。……そんな風に見えたという。
「なあ、何でおれは飛べないのかなあ。
たとえ神様がまっしろい翼をくれたって、飛べないと思うんだ。人間だから」
蒼空を舞う白い雲。そして空を飛ぶ黒い蝿。エリックは蝿が怖くなかった。ただ、蝿が飛べても人は飛べない。ちっぽけなもんだ。……そう呟いて笑っていた。
雲のようにエリックは殺人現場へ流れていった。殺人現場は以前よりさらに建物が崩れて瓦礫だらけだった。そして、蝿が狂ったように集まっていたという。蝿はベンの死んだ場所を正確に知っていた。「ここだ ここだ」と教える嫌な羽音が心にまで聞こえた。ネスが音の厭らしさに耳を塞ぐのをよそにエリックは周りを見回して、声一つ上げなかったという。
エリックの姿は生きながら蝿と調和していた。白いパーカーには真っ黒な蝿が何匹もたかっていた。やがて、エリックの視線はある瓦礫の山から動かなくなった。そこは神様の悪戯か天井が崩れ、光の柱があり、さらに死神の悪戯でたくさんの蝿がたかっていた。ネスはあまりの蝿の多さに悪寒がしたという。しかしエリックは迷わずにそこへ歩いていった。そうして、一つ一つ手で瓦礫をどけ始めた。蝿たちが皆こぞってエリックを邪魔するように飛んできた。自分だったらきっと逃げ出していたとネスは言った。
「エリック! ……そこから、早く離れろ! 早く!!」
エリックはネスの言葉を完全に無視して瓦礫をどかし続けた。全身を無数の蝿が這いずり、ぶつかり、飛び回る。瓦礫で切れた手のひらから真っ赤な血が滲み出た。
「蝿がみんなお前ん所に集まってる」
蝿が傷口にたかり、肉を食い、卵を産んでいった。エリックの投げる瓦礫にはみな彼の血がこびりついていた。蝿がどんどん集まってエリックを包みこんでいく。
「蝿に食われちまうぞ!!」
ネスはそこで奇跡のようなものを見た。
エリックが瓦礫の中から本を出したのだ。茶色い背表紙の、血の染みのついた本。彼が本に手をかけたとき蝿は確かに攻撃をやめた。そして最初と同じ状態へと散っていった。
「これだよ。間違いない」
エリックはその本をぱらぱらとめくった。挿絵の一つもない本。黄ばんだページのあいだあいだに、コンドームの袋が異物のように挟まっていた。
エリックは蝿たちの中でその本を抱きしめた。まるで死んだベンを抱きしめるように泣いて、そのまましばらくその場を動かなかった。
おれは最後のネスの報告を聞いて愕然とした。エリックは、聖書をネスに渡して、そのままいなくなった。帰り道で気がついたら見失っていたというのだ。その後いくら捜してもエリックは見つからなかったらしい。
「これをお前らに渡してくれと言われた。済まない」
おれに手渡された茶色い背表紙の本。めくると、確かにコンドームが挟まってる。だけど……!
「おれはそんなことをあんたに頼んだんじゃない!!」
絶叫が廃墟一帯に響きわたった。やり場のない思いにベッドを叩き、本のページをめくる。ベンの心みたいにコンドームが異物になって挟まってる。
「ユリシーズ、何て書いてあるんだよこれ」
「何って、神様のことでしょ」
「おれは字が読めないんだよっ!!」
かっとなって本をユリシーズに投げつけた。ユリシーズは何にはっとしたか、やり返しもしないで即座に本を拾った。本をめくってユリシーズはしばらく何も言わなかった。湧き上がる感情を封じ込める姿が異様にさえ映った。
「何だよ」
ネスも、ユリシーズも、何も言ってくれない。
「何で黙ってんだよ。黙ってないで何か言えよ」
言ってはいけない何かがある。ユリシーズは全身でおれにそう言うと、本をめくって脈絡のない途中のところからそれを読みだした。読みながらユリシーズはゆっくりと文字をなぞる。一言一言を噛み締めるように。
二人が何を言いたいか、おれは不意に理解した。やっぱりおれも何も言うことができなかった。
「……”愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢にもなりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず”……
……”不正を喜ばずに真理を喜びます”……」
「ネスさん、この本何て書いてあるの」
聖書を手渡した時エリックはそう言った。
「何だ。ラテン語か何かで書いてあるのか?」
「読めないんだ」
……すきっ歯で、笑っていたんだ。それでも。
「おれ、馬鹿だからさ。何だかこれさえ見つけたらベンが何とかしてくれるんじゃないかと思って。コンドームのいっぱい挟まった文字ばっかの本はベンしか持ってなかったからね。それにほら、ここに眼鏡もあるよ。割れてるけど」
聖書の中で圧し潰されていたベンの眼鏡。ネスはそれを見て、返事をしたくない思いにかられた。
「悪い、俺も読めないんだ。兄貴じゃないと」
エリックはネスのことを咎めたりはしなかった。
「そっか。それじゃあ、しょうがないね」
ネスさん、おれを捜してくれてありがとう。
そのままエリックは姿を消した。世界が何も変わらない中で。
灰色の大地や、蒼い大空は知っていたかもしれない。知っていて黙っていた。エリックのことを。
「聖域の子供達」