聖域の子供達 その6

「えー、次は地震の続報です。本日政府の広報官から東部大地震による現時点での死亡者および重軽傷者の統計が発表されました。この地震は都心が震源地だったため死傷者が一九××年の記録八万人を上回り、今もなお世界経済への深刻な打撃を与えつづけています。
 また、生活レベルの低い下町地区では犯罪が多発し一時期警察の稼働率は二百三十パーセントにまで上がりました。政府は対策として××日から軍隊を派遣し、犯罪の鎮圧に全力を注いでいます。
 それでは、現地記者の……」


「はい、こちら現地の○○です。
 地震後混乱を極めたこの地区にもようやく商店が開きはじめ、町にだんだんと活気が戻ってきました。見てください。白い鳥があんなに街の上を翔んでいます」


 廃墟の暗い裏通りでエリックが眠っている。季節は……冬だ。寒さが骨に凍みるから。何もない街の外へ出るには薄すぎる、白いパーカー。その上に被ったカビ臭いぼろきれ。
 そびえ立つ建物に切り取られた狭い空を見上げていると、彼の上をいくつもの白いはばたきが通り過ぎていった。何であんなに暗い顔をしているんだろう。どんなに彼が天を仰いで望んだとしても、その壊死した翼では一センチだって浮くことはできない。飛べない翼でやっと寒さをしのぐ小さなからだには、もう布と皮と骨しか残っていなかった。
 エリックは、きっとそれまでに何万回も聖書を唱えて、ある時唱える気力をなくした。そうしてもう聖書の言葉を唱えなくなった。腹が減って、腹が減って、動く気力も無くしかけていた。うつろな瞳で彼が町を彷徨うのは生きるためでもなく、死ぬためでもなく、ただ腹が減って何も考えられないからだった。

   求めなさい。そうすれば与えられます。
   探しなさい。そうすれば見つかります。
   叩きなさい。そうすれば開かれます。

 少年は求めた。食べるものを。ただ食べるものを。だって腹が減って死にそうだったから。だから食べられそうなものを食べる。それだけ。少年は何も考えずに道端の生ゴミをがつがつと食べる。それは黒くてぶちぶちした味がした。たくさんたくさん食べた。喉に詰まって吐くほど押し込んだ。口の中を満たすこと。お腹いっぱいになること。それだけを望んでエリックは黒いものを食っていた。
 蝿だった。

「お腹、すいたよ」――


 自分の絶叫で目が覚めるのに、止めることができない。夜中にベッドから跳ね起きた身体がそのまま暴走を続ける。
「ボビー! どうしたの?!」
「エリックが蝿を食ってた! エリックが蝿食ってたんだ!! エリックが! エリックがぁ――!!」
 夜毎錯乱してやつれていくおれをユリシーズはどんな気持ちで押さえつけていたのだろう。
「何バカなこと言ってんのよ!! 目を覚まして!!」
「だってエリックがエリックがぁ!」
「バカ言うのもいい加減にして!!」
 平手打ち。あいつくらい容赦なくやらないと、正気に戻れない。
「あいつが蝿なんて食ってるわけないでしょ! 私だって辛いんだから寝かせてよ!!」
 戻ってきて聞こえるのはユリシーズのヒステリックな声。
 いつも寒気に襲われた。絶望的な寒さだった。あんまり寒くて死の恐怖が見える。消えていくかけがえのない親友たち。消えていくカネ。消えていく希望。何もかも。
 今、病院だ。おれの怪我はまだ良くならない。


 エリックが失踪してから日がたつにつれ、おれとユリシーズの精神は勝手に崩壊していった。あれほど苦労して貯めた金が、法外な医療費に吸い取られて湯水のように消えていく。ただの金ではない。おれとユリシーズが命を削って作った金が消えていくということ。それはおれたちから命を吸い取ることにひとしく思われた。
「お前らよかったな。金がなかったら死んでたぞ」
 見舞いに来るとゴーグはそう言う。疑心暗鬼をおさえることの難しさを肌で感じた。
「ゴーグさん、おれもう歩けるよ。退院させてよ」
「駄目だ。まだ絶対安静だって言われてるだろ」
「ヤブ医者の言うことなんか聞けるか」
 ベッドを飛び降りて歩き出すまではいいんだ。
 なのに、いつも病院を出る前に体が音をあげた。脂汗が出て息が切れ、体が心を羽交い絞めにする。エリックを捜しに行かなきゃ。それに、ここにいたら衰弱死させられる。そんなの耐えられない。
「もうあそこで寝てたくないんだぁ……」
 ゴーグやネスに軽々と連れ戻される自分が弱すぎて嫌だった。霊安室みたいな病室も、天井の蝿も、何もかも嫌だった。このまま狂気に染まっていきたくない。なのに誰もおれをわかってくれない。
「バカよ。ボビーはバカだわ。大体、エリックに隠れんぼやらせて勝ったことなんかないじゃないの。あいつはこの町を隅から隅まで知ってるんだもの。
 それに、連れ戻したって無駄に決まってるわ。
 ……みんなバカよ……」
 病室でヘロインを打つユリシーズの顔は、もういつ死んでもおかしくないほど痩せていた。ちょっと目を離すとすぐにおれの商売道具を盗んで打っている。中毒になるからとおれが止めても聞かなかった。そのうちにヤブ医者の方がユリシーズを追い出した。ユリシーズが勝手に病院の中を徘徊して薬棚から注射器とモルヒネを盗んだからだった。
「このままじゃあいつもまずいな。手荒いがヤク抜きしてやるか」
 そう言ったのはゴーグだったろうか。おれはゴーグにすなおに感謝するべきだった。けれど、人につっかかっていく言い方を その時にはもうやめることができなくなっていた。
「ジャンキーじゃいい所に身売りさせられねえもんな」
 ネスが怒って口を挟もうとしたのが見えた。そして、ゴーグがそれを制しておれに複雑な微笑みを向けたのも。
「まあな。そういう言い方もある」
 いくらつっかかってきても構わないといった懐の深さ。あれほどゴーグがおれを子供扱いしたのは初めてだった。
「子供でさえ純粋であり続けることはむずかしい。ましてや俺は大人だしな」
 その言葉の意味が、おれにはわからない。


 翌日、ゴーグはどこからか空のキャンピングカーを借りてきた。ヒッピーなんかが暮らしてるあの大きな車だ。違うのは後ろに窓がなくて、外からカギがかけられること。
「この辺の連中がいろんな用事に使うんでな」
 監禁、拷問、ドラッグ・パーティー……使い方はいろいろだ。金属に血の染みこんだ冷たい棺桶のようにも思える。こんな所に閉じ込められるかと思うと寒気がした。
「こいつは後ろのスペースと運転席との間に仕切りがあってな。そこのドアには鍵が無いから誰かが見張ってなきゃならない。
 お前も来たいなら助手席に乗せてやるが、どうだ?」
 おれは二つ返事でゴーグの誘いを受けた。
「それじゃお前があいつを誘い出せ」
 ゴーグは最初からおれにそうさせるつもりだったのだろう。
「ボビー。話って何よ?」
 ユリシーズを誘い出すのに随分と気が咎めた。どんなにやつれても、ユリシーズはおれを信じてくれていたから。
「いや、大したことじゃないんだけどさ。ゴーグさんが今度おれたちにキャンピングカーみたいなの貸してくれるんだと。冬が来ると寒くなるから」
「何それ。私ホテルで暮らすから要らないんだけど。帰っていい? 私、風邪気味らしいのよ」
 ユリシーズは最近とうとう人前でも鼻をすすり上げるようになった。毎日鼻炎患者みたいに痩せた体を震わせて鼻をかんでいる。普通の人間が見ればそれは風邪の初期症状にしか見えないだろう。
「鼻水が止まらないし寒気がするの。それに吐き気もするし」
「まあ聞けよ。お前がホテルで暮らすのはいいけどさ、おれがキャンピングカーで暮らしたいんだ。それに、エリックも帰ってきたときあった方がいいから」
「ヤクをキめても治んないのよ! 今までこんなことなかったのに」
「だから人の話聞けって」
「もしかしたらインフルエンザかもしれないわ。ねぇ、話ってそれだけ? 早く帰りたいの。鼻水が止まらないし寒気がするしもしかしたらインフルエンザかもしれないわ……ボビー? どうしたの?」


 彼女が涎をたらして喋っている。
「やだ、またやっちゃった」
 あまりにもだらしない仕草で涎をぬぐうユリシーズ。その時、おれはふとユリシーズの顔を見て自分の中にあったサングラスが色つきだったことに気づいた。
 彼女を中毒にしたのは、おれだったっけ。ユリシーズの欠けた右耳が髪のあいだからのぞく。

 まずいものを開けた気がした。


「風邪じゃないよそりゃ」
 お前最近小便出ないだろ……声色が変わる。
「マジ? 何でわかるの?」
「ヘロインやってるやつはみんなそう言うよ」
 キャンピングカーまで、あと少し。
「今思ったんだけどさ、ベンってスピード中毒だったのかな」
「それってあんたが私に訊くことかしら?」
「そうだな」
 ボビー、落ち着け。売人の常識じゃないか。ヘロイン吸った奴が風邪気味みたいになるのは常識。ヘロイン吸ってる奴に限って小便が出ないのも常識。キャンピングカーはすぐそこだ。
「スピード切らすとあいつ落ち込んでなかったか?」
「うん。結構クラッシュしてた」
 覚醒剤切らすとうつ病になるのは常識。覚醒剤は精神を蝕むから依存性が強い。
「地震の後も?」
「……そういえばそうだったわね」
 軽症ならいつもイライラして癇癪持ちになる。重症なら全身に激痛が走って耐えられないほどの地獄を見る。それがヘロインの禁断症状の常識。
 体は何ともなくても”うつ”で心が耐えられないほどの地獄を見る。それが覚醒剤の禁断症状の常識。


 地震後の廃墟で、少年は人知れず禁断症状に喘いでいたのだろうか。悲鳴を上げたくなるほどの絶望感。逃げ出したくても逃げ出せない「未来」という名の暗闇。
 誰よりも人の心を読めるベンジャミンがあの豚について行ったのはなぜだ?


 何を考えてる。あいつは元からあんな性格だよ。あいつが中毒になるはずないんだ。だから何度クスリを売ってもおれの心は痛まなかった。
「なあボビー、最近ユリシーズ怖くねえ? 何て言うか、怒りっぽくなっちゃってさ」
「そうかあ?」
「そうだよ。絶対性格曲がった。それにベンもすぐ落ち込むしさ。二人とも何かあったのかなあ」
 エリック。お前は知らなかったんだよな。クスリがないとユリシーズはイライラして我慢できない。クスリがないとベンは死ぬほど哀しいことばかり考える。クスリで人の心は歪められるんだってこと。
 おれは知ってたよ。そして目をつぶった。


 頭が同時に三つのことを考えていた。ユリシーズのことと、ベンのこと。そしておれのこと。
「ベンはスピードにつられてあいつに付いてったのかなあ」
 おれの前で鼻をすするかわいいユリシーズ。キャンピングカーの後ろの戸は開け放たれている。
「だってそうだろ。あの頭のいいベンが、あんな危ない奴にやすやすとついて行くはずないじゃんか」
 そうだよ。それ以外ないんだ。
 あいつ、見えないだけで本当は中毒だったんだ。だからあんな豚に付いていくしかなかったんだ。あんな豚に、陵辱されて殺されるために連れていかれた。
 ユリシーズの顔が束の間正気に戻った気がした。哀しみの中で、そのまま正気でいてほしいと心から願った。
「地震だ。地震の後だったからクスリ持ってなかったんだ」
「あんた地震の後で一回ベンに会ったじゃない」
「持ってなかったんだよ。地震で全部なくした。お前にだって売り切れだって言ったじゃねえか」
 違うだろボビー。何を的外れなことを。
「あの時一グラムでもおれがスピード持ってたらあいつは死ななかったのかなあ」
 そんな卑怯な言い草があるかよ。

 目を背けるな。ちゃんと聞け。
 お前がベンジャミンを殺したんじゃないのかって言ってるんだ。

「ボビー、あんたのせいじゃないよ。元気出して」
 キャンピングカーの中で、どうしてユリシーズがおれを慰めてくれたのかは知らない。だけどその時のおれに慰めは不快なだけだった。だっておれは自分を許せなかったから。
「ベンだってあんたを責めるはずないじゃないの。悪いのはあの豚だけよ。それでいいわ」
 ユリシーズ。お前だけは正気でいてくれよ。
「じゃあお前はクスリやめられるのか? もし今すぐクスリやめて変な奴がクスリちらつかせても、お前なら付いて行かないで我慢できるのか?」
 それは祈りにも似た声だった。もしユリシーズが「できる」と言ってくれたら。くだらない、最後のあがき。

「無理よ。だけど、べつにあんたのせいじゃないわ」

 哀しい夢を見た。ベンがおれの顔を見て微笑んだ夢。
「無理だよ。だけど、べつに君のせいじゃない」
 自嘲して、持っているナイフで胸を突きたい。もしも今あわれみ欲しさに涙をこぼしたら、その時はためらわずにナイフで目を抉り捨てようと思った。
 おれはユリシーズの答えに「そうか」と返すと腰を上げ、なにごともなく運転室へ入ってドアを閉めた。そうしてゴーグが扉の手すりに針金を巻くのをなにごともなかったかのように見ていた。ゴーグが運転席のクラクションを鳴らす。隠れていたネスが一息で後ろの戸を閉める。なにごともなかったかのように助手席に座ると、外の冷気で曇った窓ガラスが綺麗だった。
 長い長い懺悔の時間だ。やがて聞こえてくるユリシーズの悲鳴。ドアを叩く音。ポケットを探ってすぐに折りたたみナイフを取り出し、どれほど眺めていたことか。

「ゴーグさん。おれは、汚いね」
「そうだな。お前さんは親友に麻薬を売って生きてた」
 子供でさえ純粋であり続けることはむずかしい。すなおな自分がこんなに汚いものだとは思わなかった。
「だって金が欲しかったから」
「……金ね」
「……そうだよ。金がなきゃ生きてけないじゃん。金がなきゃエリックのように蝿を食うしかないんだから」
 開き直るおれの口。無意識から洩れるおれの真実。
「……金がなきゃ誰も救ってくれないんだから、しょうがないよ」
 だからおれは麻薬を売り、ベンとユリシーズは身体を売った。
 だれもエリックのようにはなれない。エリックのように蝿を食うような業苦に耐えられない。それだけだった。

 曇った窓ガラスの向こうで白い鳩がおれを見ている……。


「聖域の子供達」


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