聖域の子供達 その7

……
「おいボビー、もうすぐイヴが来るなあ」
「そうだね」
 ヤニの染みついた運転席の中で時間はゆっくりと過ぎていく。左側でゆっくり煙草をふかすゴーグの目は、まるで歳をとったおれたちみたいな妙な幼さがあった。
 曇った窓ガラスの向こうでは白い鳩がボンネットに腰掛けて消えかけている夕日を全身に浴びている。小さな自分の手にはおさまりの悪い折りたたみナイフ。早く大きくならないかな。この手は。
「ガキの頃はさ、イヴになると”何でうちはこんなに貧乏なんだろう”ってよく思ってたもんだ。こういう、キャンピングカーに六人で住んでてな。おれとネスの下にまだ二人弟がいて、下の二人は親父の方の連れ子だった」
「ふーん」
「……四人ガキいて、読み書きできないのがネス一人だけなんだよ。今でこそあんな風にでかくなったが、ガキの頃は読み書きできないのをなじられると影で泣いてたっけな」
「ふーん」
 ナイフに夕日が当たって色合いがきれいだった。おれがその色合いに目をとられながら「それで」と返すと、ゴーグは肩をすくめて「それだけだ」と返した。
「何だ。食いつきが悪いな」
「だって、おれも読み書きできないし。エリックも読み書きできないし、珍しくもなんともないじゃん」
「まあ、それはそうだけどな。ただ俺は自分より小さい弟と比べられるあいつが可哀想だった。ちょうどお前みたいに一人で助手席に座っててな。見てると思い出すんだ」

 感覚を遮断したい。
「ボビー! 開けて! 開けてぇ――!!」
 少女の悲鳴。クスリの欲しいユリシーズ。ドアを叩く音。おれはわざと彼女がいないように振る舞うけれど、助手席の後ろの存在から気をそらせるほど器用じゃない。

 ゴーグやネスが十二歳の頃、世界はどんな風に見えていたんだろうか。きっと今とそれほど変わらないような気がする。貧乏な連中の世界は永久に進化しない。
「ゴーグさん」
「何だ?」
「ゴーグさんはクリスマス好きかい?」
 クリスマスが好きな人間はおれたちとは別世界の人間だ……いつからそう定義するようになったんだろう。クリスマスにはいい思い出がない。
「いいんじゃねえのか。俺としては金が入るから好きだ」
「それ以外では?」
「ガキの頃は嫌いだったな。でも今は好きだ」
 ゴーグは質問のポイントを正確に押さえると、今度はおれに向かって「クリスマスは好きか」と聞いてきた。
「嫌いだよ。クリスマスは恵まれない奴を見捨てるから」
「そうだなぁ」
 クリスマスに人間扱いされなかった人間だけがそういう受け答えをした。おれはそういう人間だけを友達に選び、クリスマスに惨めだなんて思わないように努力したつもりだ。
 捨てられた人間たちにクスリを売るおれのクリスマス。捨てられた人間たちと共に堕落するベンとユリシーズのクリスマス。
「エリックもクリスマスは嫌いだって言ってた」
「ほう。あいつがか? あいつは好きそうだけどな」
「クリスマスは寒すぎるんだって」
 寒い中でホームレスが祝い酒に酔い、病気にあたったり寒さにやられて凍死してしまうのだそうだ。エリックはそういう連中の手を握って「ジングルベル」や「きよしこの夜」を何度か歌ってきたらしい。
「『クリスマスに死ぬ人はみんないい人に帰る。クリスマスに死ぬとみんないい人になる。だから余計に哀しい』」
 最果てで人間の良心を見るエリックのクリスマス。あいつは、あの歳で何人の死を見取ってきたんだろうか。
「イエス・キリストみたいだな。もっともキリストならそういうのは蘇生させちまうんだろうけどなあ」
「生き返ったってホームレスじゃいいことないんじゃない」
「いいや。そうやって甦った人間にはイエス様がついてるから大丈夫なんだ。と、牧師の奴はおっしゃっていた」
「『クリスマスに子供を買いにきた牧師もいるけどね』ってベンは言ってたけどな」
 奇跡とか、神様とかイエス・キリストとか。どんなにのたまってもこの世には人間しかいない。だから人間は、その事実を受け止められないから、あとからあとから想像の新人類を創り上げていく。
「ベンの奴も、どうして聖書なんか信じてたんだろうなぁ」
「読んでみれば解るんじゃないのか」
 だったらおれには一生解らないよとおれが言うと、ゴーグはふてぶてしく笑って車のクラクションを鳴らした。クラクションの音で驚いた鳩が群青色の空へ弾き出される。近くのモーテルからネスが何事かと顔を出す。
「夕飯買ってきてくれ。それと、ベッドサイドのテーブルから本を持ってきてくれないか。絶対に一冊入ってるから」
 ゴーグ曰く、個室のホテルのベッドサイドには必ず聖書があるのだそうだ。それがホテルのマナーらしい。嫌がるおれをゴーグは次の一言で封じ込めた。
「いいのか。ベンジャミンの遺言かもしれないぞ」


「……痛ぁい。……痛いよう……。……痛いよう……」
 まるで死にかけの子供が助けを求めるような声だった。おれの罪悪感にじかに触れるような、か細くて長い泣き声。扉を叩く力も尽きたのだろう。もう、音がしない。
 おれは気がふれないように、自分を守るためにナイフを握りしめていた。ナイフを持つと気持ちが安定する。自然とそれに意識を集中できるから、自分をぐらつかせないで後ろを見ることができる。
 おれまでおかしくなっちゃ駄目だ。おれは、ユリシーズまで無くすわけにはいかないんだから。もうおれしかユリシーズの側にはいないんだから。

 エリック。おまえ、もう帰ってこないのか……?


 ネスが夕飯のハンバーガーと冷めたお粥を持ってきた頃には、外の風景は真っ黒な夜へと一変していた。
「兄貴。この本でいいのか」
 ゴーグが本を受け取ってネスに礼を言う。おれはそれを見ながらさっさとハンバーガーを口に押し込み、”おもゆ”みたいな冷めたお粥を見て暗澹とした気分になった。
 わざわざ冷ましてある。食べさせるときに火傷させるといけないからだ。それはユリシーズの夕食に間違いなかった。おれは車の中で何度かこの夕食の差し入れをゴーグに頼もうかと考えたけれども、結局自分で行こうと心に決めていた。それが騙したユリシーズへの最低限の礼儀であるような気がして。ゴーグは、そんなおれの決意を知ると危ないものは全部置いていけと言った。禁断症状に喘いでいるユリシーズが危ないことをしないようにするためだった。
 あそこには毛布一枚置いていけない。ユリシーズは何もない場所で一晩中地獄を見る。
「前に毛布を引き裂いて首を吊った奴がいたんでな。悪いが肺炎を起こしても我慢してもらう。
 解ったらナイフを出せ。そこに、置いていくんだ」
 そしておれはナイフ無しでユリシーズと会う。もう強がりを言う自信がない。おれはきっと傷つくだろう。それでも、もう逃げるわけにはいかなかった。


 数時間ぶりに針金を解かれたドアの取っ手。中からユリシーズは出てこない。止まらない少女の呻き声。
 おれはお粥の入ったボウルを持って深呼吸すると、冷えた取っ手をゆっくりとひねってドアを開けた。足元から部屋の中へ光のラインが伸びる。ラインの中に散らばっていたのは……

 無数の髪の毛と、ちぎれた黒いワンピースの切れ端。カーペット地の床に擦りつけたような薄い血痕。それはラインの上に意図的に集まっているのではない。気がついた時には部屋中を圧倒していた。か細く伸び続ける悲鳴の中でおれは息を呑んだ。
 そして、一番奥にその主。
「ユリシーズ」
 おれを見たユリシーズの顔は狂人と見分けがつかなかった。綺麗だった髪はぐちゃぐちゃに荒らされて、服は自分で引き裂いたおかげでぼろぼろ。瞳孔が針のように細いのが薬物のあかし。病的に手足が白くて細すぎる。手首から先と唇だけが砕けたように血で紅かった。
「……うらぎりもの……」
 掠れた声。あんただけはうらぎらないとおもったのに……そこまで続きが聞こえる。
 おれは後ろ手でドアを閉めた。ドアの小窓から差す明かりはか細く、暗闇が冷たい霧のように部屋中を覆っていた。

 こんな暗闇の中で何時間も放って置かれていたなんて。そしてあと何時間も、このままだなんて。
「飯、食えるか? 冷たいのしか持ってきてやれないんだ……ごめんな」
 ユリシーズは夕飯を無視しておれに掴みかかってくる。
「クスリちょうだいよ! ねえクスリちょうだい。寒いの。身体痛いの。助けて」
 擦り切れた手から滲み出る、体液のまじった血。掴まれたおれのシャツに痕がつくのがわかった。
 ……しっかりしろ。
 しっかりしろ。しっかりしろ。おれが今負けちゃ駄目だ。
「しっかりしろよ。いつものお前はどうしたんだよ? いつものお前だったら、そんなの、何でもないだろ?
 ほら、飯を食え。……食うんだよ、ユリシーズ! 食わなきゃ死んじまうぞ!」
 お粥の入ったボウルを突きつけるとユリシーズは一度ボウルの中を覗いた。暗闇の中で、湯気の出ないお粥だけがほのかに白かった。「これ食ってエリックが帰ってくるの待とう。あいつは絶対帰ってくる。それに、おれもここにいる。おれはお前を置いて逃げたりしないから!」
 自分の声の反響だけが残る部屋。
「……もう、逃げないから」
 ユリシーズのひずんだ瞳の奥まで、届いてほしかった。
 白いお粥だぞ。白は、希望の色だぞ。そう願いながらおれは真っ青なユリシーズを見る。悲鳴を上げたいなら上げていい。平手打ちくらいなら我慢してやる。唾を吐きかけられても今なら受ける。だから飯を食え。
「嫌ぁあ!! 何てことすんのよぉ!!」
 一瞬でユリシーズはボウルをはたき飛ばした。ふやけた白い飯は床に散乱し、お粥だった水分はすぐにカーペットに吸われて、血痕と混ざっていった。落ちた銀の器と銀のさじ。からからと鳴り響く金属音。
「あんた、私にウジなんか食べさせる気だったのね?! なんてことを! なんてことを!!」

 ユリシーズ?
「何言ってんだよ。何でおれがお前にウジなんか食わすんだよ。どう見たってお粥だろ。よく見ろよ!」
「いい加減にして!! ウジだわ。ウジだったわ。ごまかそうとしたって無駄なんだから! あんた、その辺のゴミ捨て場からウジばっかり拾ってきて塩素にでもつけたんでしょ?! 真っ白なウジよ!! 真っ白でボウル一杯にびちゃびちゃに動いてる蝿の子供だ!!」
 甲高い悲鳴が部屋中に広がる。大きく。広く。何度も。その中でおれは何も言うことができなかった。だって何を言えばよかったんだ。真っ暗な、何もない部屋に閉じ込められて死神に怯える彼女に。乞食みたいにぼろぼろになって、ぶるぶると震えるやせ細った身体に。
 ただの妄想だと片付けるにはたちが悪すぎた。おれは黙ってボウルとスプーンを拾い、水分を失ったお粥をかき集めるのが精一杯だった。暗闇が飯まで蝿に見せてるんだ。いつか蝿になる無数の幼虫たち。暗闇のなかで白く生光りして、身の毛がよだつほどぬらぬらと蠢いて。
 ユリシーズは光の中へ出してやらないと死ぬかもしれない。
「……何よ。みんな、みんな足元見やがって……お金がなきゃ誰も私なんか見てくれないんじゃない……信じた私がばかだったわよ……!」
「違う! おれはそんなつもりじゃ」
「じゃあクスリちょうだいよ! 持ってるんでしょ? 持ってて私のことなぶってるんでしょ?
 ねぇ、あんた何がしたいわけ。私がこんな風になってるのが楽しいの? それともお金? ……わかった! 身体が欲しいんでしょ?! あんたもやっぱりそうなんだ?」
 自分の他に誰も居ない……そう思うと人間は笑う。それまで苦痛に歪んでいたユリシーズが泣きながら笑う。おれが表情を歪めたのを、彼女はどんな風にとったんだろう。
 笑うな。
「あんたも私とセックスしたいんだ!」
 怒りに似た感情が思考回路を詰まらせる。おれは自分で止める間もないままにユリシーズを殴っていた。ユリシーズの首が吹っ飛び、体が床に投げ出され、起き上がった彼女の顔は憎しみで溶岩のように見えた。
 それまでよほど荒い息をついていたのだろう。たった一回で自分の息が上がってしまっている。腹と胸がこわばって何も言うことができない。
「抱きなさいよ。早く、私にその汚いモノおっ立てて好きにすりゃいいわ。そしたらクスリくれるんでしょ?」
 怒りに上気した頬。挑みかかるような笑み。切れて紅い唇。ユリシーズは自分からぼろきれと化したワンピースを脱ぐ。細すぎる白い手足。暗闇が彼女の背中を後押しする。
 しっかりしろ。早く、ここから出ないと。
 暗闇がなまぬるい手でおれを撫でまわしている。ボウルを抱えたままどんどん光を辿って後ずさりしていくと、ボウルに当たった白い光が乱反射して彼女を照らした。
「何で逃げるの。早くして。クスリ、ちょうだい」
 白い木綿のキャミソール。どこにでもある少女の下着。ユリシーズは血のついた手でパンティに手をかける。背中にあたる壁。一秒も目が離せない。暗闇の中で、彼女の姿に惑わされた自分がいた。

 パンティまで脱ぎ捨てて、キャミソール一枚でたたずむユリシーズの幼いからだ。
「ボビー。私を助けてよ」
 彼女を助けたいと強く思う。萎えていく脚。ユリシーズがとりこむように抱きついてくる。こすれあう脚。きれいだった髪の毛から血と汗と石鹸の匂いがした。


”やっぱりお前は汚い方がお前らしいよ”
”おれもそう思う”


 つまらないことを思い出した。いいとこのお坊っちゃまみたいなエリックの笑顔。
 どうして。
 せきを切ったように頭をよぎっていくエリックやベンの笑顔。暗闇の中でユリシーズ相手に脚を擦り合わせてるおれ。相変わらず子供のままの、毛の生えてないからだを見て、抱きついてきたユリシーズを感じて、どうしようもなく変な気持ちになった、そんなおれの心。
 思い出の中でみんなが笑ってくれている。自分がたまらなく嫌になっていく――


 狂うなよ。おれはユリシーズを助けなきゃ。
 ベンがおれを見て憂いながらでも笑ったように。エリックが哀しみを越えてすきっ歯で笑ってたように。
 おれはそれに答えなきゃ。
 体中の器官を澄んだ感情が駆け巡り、痛みで体が悲鳴を上げる。感情が爆発して、言葉をなさない叫びが暗闇を振り払う。渾身の力でユリシーズの体を突き飛ばしたおれは、そのまま彼女が寄る辺なく倒れるのにも構わず夢中で運転席のドアを開けた。ユリシーズが起き上がる前に自らの手でドアを閉め、取っ手に針金を巻き、上着を脱いで窓をすっかり覆い隠す。すべて無我夢中だった。
 頭の芯から湧いた熱が体中に伝わって俺を泣かそうとする。窓を塞がなければ体の中に溢れた思いを制御できなくて、おれは泣くのをこらえるためにそうするしかなくて、なりふり構ってなどいられなかった。
「ボビー」
「見ないで!! ……中でユリシーズが服脱いじゃってるんだ。頼むから、見ないでやって」
 頭の中が熱すぎて何も考えられない。ゴーグはそんな俺の様子を察してか、運転席に戻ると静かに窓の外に目をやってそれっきり後ろの方を向くことはなかった。
「早くその服を下ろしてやれ。ユリシーズを暗闇に喰わせる気か」
 おれはその言葉にはっとした。気づいてみるとドア一枚挟んだその後ろからユリシーズの絶叫にも近い悲鳴がずっと聞こえている。突っ張っていた膝から力が抜けていって、おれの体は上着と一緒に床の上へと崩れてしまった。さながら糸の切れた人形のようだった。

 ユリシーズが赤子のように泣いている。おれは、おれたちはみんなあんな風に泣いたことがある。
「助けて。わたしをひとりにしないで……」
 手首をかっさばいて冷たい血を流しながらそれでも生きる。いろんなものに幼い自分の体を破壊されていきながら、毎日耐え難い地獄に悲鳴を上げることしかできなくても、それでも生きてしまう。あと数センチの境界で不思議なほどしぶとい自分の体。何て死ぬまでの道は恐ろしく遠いのだろう。
「本当は誰も死にたくなかったんだよ」
 もう過去形になってしまった。魂で引きずるように助手席へ這い歩いていくと、運転席から見つめるゴーグの深いまなざしが哀しかった。
「死にたくないんだ。だから生きるしかなかったのに」
 ひどく疲れた。何かに身を預けてずっと眠っていたいというかなわぬ欲求にのまれそうで、気づかぬうちに「ナイフ、ナイフ」とうわごとをのたまっていたらしい。あれがないとおれはひどく無防備だ。体も心も緩みすぎて不安になってしまう。
「ゴーグさん。ナイフ返して」
「おまえも少し地獄を見てやったらどうだ。ユリシーズと一緒に。
 心配するな、ナイフは後でちゃんと返してやるよ」
 ゴーグの手にあったのはナイフじゃなくて聖書だった。おれは裸の心で聖書の言葉を聞いたことがない。ベンジャミンの、遺言。
「どこから読めばいいかな」
 ベンはその本を決して全部読み聞かせてくれたわけではない。いつだって飛ばし飛ばしだった。それが、おれたちに希望を与えるためにベンがやったこと。
「……”裁いてはいけません。裁かれないためです”ってとこ。第七章って言ってた」
 漠然とあいつが飛ばし読みをしていることはわかっていた。それが自分のためだったのかおれたちのためだったのかはわからない。
 覚えているのはあいつが優しかったことばかりだ。半ば暇つぶしで頬杖をついていた俺や、赤ん坊のように目を輝かせて体を乗り出していたエリックや、煙草をふかして背中で説教を聞き流していたユリシーズ。そんなおれたち全員を一つのテーブルに集めて聖書の中から選んだ文章を朗読している時、あいつがどれだけ幸せそうな顔をしていたか。


「”裁いてはいけません。裁かれないためです。
 あなたがたが裁くとおりにあなたがたも裁かれ、
 あなたがたが量るとおりにあなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
 自分の目の中の梁には気が付かないのですか。
 兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください」
 などとどうして言うのですか。
 見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。
 そうすれば、はっきり見えて、
 兄弟の目からもちりを取り除くことができます”」

 おれは今まで一度だって聖書を信じたことはない。
「”聖なるものを犬に与えてはいけません。
 また豚の前に、真珠を投げてはなりません。
 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから”」
 おれは今まで一度だって聖書が人を救えると思ったことはない。
「”求めなさい。そうすれば与えられます。
 捜しなさい。そうすれば見つかります。
 叩きなさい。そうすれば開かれます。
 誰であれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、
 叩く者には開かれます。
 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、
 誰が石を与えるでしょう”」
 おれは今まで一度だって聖書を正しいと思ったことはなかった。
 ただ、あいつの幸せそうな顔だけだ。まがりなりにもおれたちが一つのテーブルで一緒にいられたこと。
 聖書が正しいかなんてどうでもよかった。おれを諭してくれるのは、慰めてくれるのは、いつだって、蘇る幸せな記憶の方だったから。

 おれは聖書の言葉を正確には聞いていなかった。ただ文章の言葉の並び具合が懐かしくて、それが同じ言葉の記憶を蘇らせていくのを膝を抱えて見ていた。思い出すことは涙が出るほどなつかしい。
「どうした。身につまされることでもあったか」
「違う、あいつもよく読んでたから。懐かしい」
 神様なんてこの世には居ないけれど。
 もし神様や人間の良心に近いものがあるとするなら、それはきっと人間の記憶だ――……。


「聖域の子供達」


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