キャンピングカーの後ろの部屋には昼も夜もない。ぽっかりと広い暗闇の保管場所。一度ライトを消せば、中の人間の辿れるものはアクリル板の窓から漏れる一筋の光だけ。骨まで冷やす十二月の冷気はじわじわと中に侵入し、中の人間が希望を見つけないようにぬくもりや音を消しとっていく。
「ボビー!! ……ぅクソ野郎……死んじまえ! 死んじまえクソ……カマでも掘られろ、この、マザーファッカーめ。クソ親父のケツの穴でも舐めろ! 死ね死ね死ね死んでしまえ! おまえなんか死ね! 地獄に落ちろ!! ……このクソ……!」
ユリシーズがうんざりするほど口汚く俺を罵る声が全部聞こえる。罵声が少し治まったかと思って窓の中をおそるおそる覗くと、彼女は白い木綿に血斑のキャミソール一枚で手首を噛んでいる。砕けて黒い血があふれ返った手で全身を掻きむしっている。
いよいよ外の風景は朝へとうつろいつつあった。曇ったガラス越しに空が青白い灯をともしつつあるのを見ると、体の中で眠気のスイッチが入るのがわかる。
「疲れてるとはいえ、よくまあこんな状況であくびなんぞかけるな」
「別に、慣れてるから。心は慣れないけど体は慣れるんだよ」
こんな醜い少女がいることにも、ヤニやブツや冷たい風にも。
「出してよ! おなかがぐるぐるいってるの。トイレ、行かせて。……ほんとにほんとよ。なんとかして。おねがい……」
それでいて、腹の調子を訴える時だけは気弱な涙声なのだ。さっきからユリシーズは罵声と懇願を繰り返している。おれには罵声よりもその懇願の方がずっと辛かった。
ヘロインの禁断症状の一つに腹下しがある。ヤク抜きの時に部屋に閉じ込められて、錯乱して、終いには下痢を起こして我慢できずに部屋の中で漏らしてしまう。そんな屈辱的な場面を何度か見た。
「ゴーグさん、トイレだけ行かせてやれないか? なぁ」
「無理だな。車道に素っ裸で飛び出して死ぬのが落ちだ」
嫌だよ。ユリシーズが部屋で漏らすところなんか。車道にあんな荒れ果てた素っ裸で走っていくところなんか。
「それだけ罪が重いってことだ。一回の失禁で罪が随分償えるならその方がよっぽど安上がりでいい。違うか?」
軽々と出されたゴーグの台詞の辛辣さにおれは絶句する。
「……ボビー……たすけて、たすけて……おなかくるしいよ……」
「おいユリシーズ。そりゃカミサマの与えたもうた罰ってやつだ。ボビーと一緒に神妙に受けてやれ」
ユリシーズの声がにわかに獣じみた唸りに変わり、激しく狂乱して、途中でいきなり息を詰めたように途切れる。しばらく耳をすましていると、彼女が暗闇の中から「ひぃぃぃぃ」と消え入りそうな悲鳴を発しているのが聴こえた。
ひぃぃぃぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃ。
それは耳を塞げばすぐに断ち切れそうな声なのにいつまでもおれの鼓膜の横で震えて、いつしかおれの脳細胞を震わせていくのだ。
数時間後、おれはゴーグの許可を得てようやくユリシーズを外に出してやることができた。たった一日の監禁でユリシーズの心はすっかりぼろぼろになり、ようやく禁断症状から開放された瞳も今度はぽかんと開きっぱなしで眼球の中に暗闇をみっしりと取り込んでしまっていた。ヘロインという毛布をすっかり剥ぎ取られて彼女に残ったものは、皮と骨だけの、恐ろしく寒い現実の世界。
「……ユリシーズ」
「嫌」
どれが嫌なのか俺には解らない。だけど”全てが嫌”らしいということは何となく解る。部屋の隅っこで震えるユリシーズに毛布をかけてやった時、おれは暗い部屋の中で一番嗅ぎたくなかった臭いが痛ましいまでに体をとおっていくのを感じた。それは汚物の臭いだった。
「ユリシーズ。もうクスリなんて」
やめろ、と、言えるだろうか。
おれは言えなかった。ただただ自分のことをめちゃくちゃに無力で、無知で、どうしようもない奴だと打ちひしがれることしかできなかった。
「嫌。嫌嫌嫌ぁ……」
「わかったよ何にもしないから。怖くないから。な」
どうして「おめでとう」って言ってやれないんだろう。ここでクスリから抜けて、おれとユリシーズは明日からどうやって生きていけばいいんだろう。
「そうだ。また最初から頑張ろう。今度こそあの豚を殺そう」
「豚じゃない。”マーフィー・キングス”だ」
後ろから口を挟むゴーグも復讐をけしかけるおれを止めはしなかった。復讐自体は、きっと良くないと思っているに違いない。おれたちの身にまた黒い暴力がふりかかるのも否定はできないだろう。
だけど。
豚と聞いてユリシーズの瞳はすこし明かりを取り戻す。
「ぶた?」
「そう、あの豚。ベンを殺したあの豚。もう嫌になったか?」
「ううん。それはだめよ。あの豚は死ななきゃ駄目なの。あんなことしといて何もないなんて、そんなことはあっちゃ駄目」
おれにはもうそれが不毛なことだと解りかけていた。ベンだけじゃない。エリックも、ユリシーズも、ある意味ではおれも、復讐にからめとられてみんな壊れていく。それでもあの時おれたちに他にユリシーズの心を動かす選択肢はなかった。
「そうだよな。だから、元気になろうぜ。元気になって一緒にあいつ殺そう」
もはや抗う気力もないままにゴーグに抱き上げられるユリシーズの眼は、復讐を許されることで初めて生きる気力を作り出すことができる。
「あの豚を、ゆるしちゃいけない」
おれの心の中でベンが複雑な顔をして立っていた。おれは一瞬目を閉じて、そんなベンの肩をたたく。
――大丈夫だよ。何かあったらおれが何とかするから。
おれはきっとその輝きでお前らには届かない。だけどこの手にナイフを握りしめて、お前らの暗闇を少しくらい引き受けることはできるから。
禁断症状から抜け出した後のユリシーズの回復は普通のそれよりもかなり顕著なものだった。子供だからということもあるが、それにも増してユリシーズそのものが強い。自分の意志で倦怠しきった胃に食事を押し込み、それこそ熱に浮かされたように一秒も無駄にしないで回復する。
「とりあえずクリスマスまでに稼げる体を取り戻すわ。金がなきゃ始まらない」
何年かかっても絶対にブッ殺してやる。あの豚……そう思っているのは間違いない。今はそんなことを言う気力もほどほどにセーブして自己の回復にまわしている。
いよいよ十二月も半分と少しを超えた。クリスマスと年末年始は不幸な連中が最も不幸のどん底に突き落とされ、苦痛を忘れるために金と努力を惜しまなくなる時期だ。別名「稼ぎ時」ともいう。
ゴーグは「あの男は年末もまた子供を買いに来る」と言っていた。もともと上玉の少年ばかり欲しがる顧客でゴーグにはいい上客だったそうだ。「ペペ」での一件以来付き合いはなくなったそうだが。
「相手が変わろうとやることは変わらんさ。マーフィー・Kっていったら州議会にも名を連ねるようなお偉いさんなんだがなあ」
「名前で言わないでよ。穢らわしい」
口にするだけでその場が穢れるような気がするからおれたちはそいつの名を呼ばない。「豚」で十分だった。そしてそいつがクリスマスもまた誰か少年を買うという想像は、おれたちの胸を何かしらの体液で汚し吐き気をもよおさせるのだ。
別に珍しいことじゃない。子供を食い物にする大人がいることも、そんな大人に体を売る子供がいることも歴然とした事実。別におれたちの親友が死んだって世界が変わったりはしないし代わりに連中にケツと口を差し出す少年はいくらでもいる。世界中の金持ちが少年少女を買ってレイプするという行為もなくなるはずはなかった。
世界は、けして何も学ばない。過去から学ぶという大人の言葉の嘘臭さを子供たちは知っている。
「なぁユリシーズ。あいつはどこへいったのかなぁ」
灰色の丘の上の白い翼。いつもはすすけているからわからないけれど、あいつの髪はそこにあるだけで暖かくなりそうな金色をしていて、きちんと洗ったあとには”天使の輪”が出てくるんだ。卵か何かでトリートメントした時にユリシーズが嫉妬したのを覚えている。
「どこへ行ったのかしらね。さすがに愛想つかしたんじゃない」
「何に」
「わたしたちに」
おれたちは、誰も互いのことを憎んでなんかいなかった。それなのにあの地震からおれたちの運命はばらばらに分解させられ、気がつけば今ここにはおれとユリシーズが残っているばかり。そのユリシーズとおれでさえ思っていること考えていることがまるで同じとは言えなかった。
「みんなエリックのことを天使か何かみたいにかわいがるけど、私はあいつが天使に見えたことなんかないわ。あいつは血生臭い生き方に合わないだけよ。だから自分に合う道を選んだって、それだけのことよ」
ユリシーズはエリック自体のことは嫌いではない。ただ、その見方はベンやおれより一歩離れていた。
「わたしたちが復讐をやめるって言ったら戻ってくるかもしれない。でも私はあのクソ豚をミンチにしなきゃ気がおさまらないし、そこであいつと合わないってことになったらそれでもしょうがないって思ってる」
ユリシーズの言うことはもっともだと思う。エリックはおれたちを嫌ったわけではないにしても、”血生臭いこと”が嫌になってしまったのかもしれない。
誰もいない廃墟の中で下半身を裸に剥かれ、これ以上打つところが見つからないほど殴られて死んでいた親友の姿。あれを見るまでエリックの世界は確かに明るかった。明るかったはずだ。
そしてそれを見てしまった時エリックが襲われた感情について、おれは推察することができない。
それでもおれはあいつの帰りを待ちたい。
「クリスマスくらい、”四人”で集まりたいよな。それで”四人”で飯食って話とかしたい」
ぽつんと吐いただけの一言にユリシーズは黙ってしまった。その言葉にはどんな正論よりも力があることをおれは知っていた。
「いいだろ。ベンが死んで一回目のクリスマスだぜ」
復讐をやめることは俺にもできないけれど。その先には何もないらしいということを、おれは解りかけていた。
エリックなら決着がついた時に開いた穴を埋めてくれるんじゃないだろうか。復讐では決して補うことのできない何かを、あいつは持っていたんじゃないだろうか。ベンジャミンもそのことには気がついていたように思う。冷たい血を塗りつけたところで傷口が治らないように。
痛みは止まるだろう。それでも、穴は埋まらない。
『裁いてはいけません。裁かれないためです。
あなたがたが裁くとおりに、あなたがたも裁かれ
あなたがたが量るとおりに、
あなたがたも量られるからです』
聖書を唱えておれたちに希望を見せようとしたベンジャミンの顔。復讐だけでは、多分、あの笑顔は帰ってこない。傷口に冷たい血をつけただけでは人は笑うことはできない。そんなことをベンは望んではいないんじゃないだろうかということを、おれは心のどこかで
「確かネスさんはまだあいつのこと捜してくれてるんだよな」
「そうだけど、どこ行くの」
おれは病み上がりのユリシーズががなりたてるのを背に病室を出て歩き出した。
「エリックの側についたら承知しないわよ! ねえ?!」
血走ったユリシーズの瞳にはきっとまだ何も見えていない。今はわかってもらえなくてもよかった。
ただ、いつか。いつかユリシーズが笑ってくれればいいなと思う。エリックも。そしてこの胸にいるベンも。おれも笑える日が来ればいいなと思ってる。
「聖域の子供達」