冷日の魔道士 第六章:南十字星

 四月のアラメテューグの夜は早い。天を噛み破ろうと牙を剥くシリウスの山々に囲まれ、その恩恵を受けているからだ。ここでは何者にも遮られることのない空の天蓋(シェルタリング・スカイ)が全てを見おろして、どこまでも果てしなく広がっている。
 レモ・クラックスは”ピクター”と名乗った緑髪の老人と一緒に建物の外へ出て、浸透してきた夜闇の中で大急ぎで作物を収穫している子どもたちをずっと眺めていた。
「あなたの軍の人たちには一晩眠っていてくれれば良かった。私たちが作物を収穫して、こっそりここを出ていくまで待っていて下さればそれでよかったのです。あなたがたにもあなたがたの立場があったのでしょうが……」
 罪悪感とうしろめたさがないまぜになった気持ちでいると、畑はいよいよ明かりなしでは何も見えない暗さになってくる。妖精(エルフ)たちが一匹ずつきちんと子どもたちの側について自分の体を色とりどりに発光させているのが遠目にも見えた。そもそも妖精(エルフ)自体何年ぶりに見たのか覚えていない。戦争や古代魔法(エンシェント)を嫌い、人間以上に人間を裁く小さなものたち。
「共和国側は国境を封鎖している状態です。帝国側の人間は難民でも入れない。これから行くあてはあるんですか」
「帝国に帰るしかないですね、残念ながら。あの子たちにはまた苦労をかけてしまう」
 ピクター氏が帝国訛りの世界共通語(シンプル・ランゲージ)で話してくれた内容からは、帝国国内の逼迫ぶりがうかがえた。もともと政治を執る王族階級が腐敗しきっていた国だ。国内の資源が枯渇するやいなや他国への侵略を開始し、他国から搾取することで生き延びてきた国。
「昔からそうでしたが、最近は特に子どもの売り買いがひどくなりました。みな貧乏なのですね。畑で作物を育てても実る前にみんな盗まれたり奪われたりしてしまう。帝国では貴族の畑の側に子どもの死体がたくさん転がるのですよ。みんな飢えて、盗もうとして入ってしまうのでしょう。
 ある日子どもたちに『おなかいっぱいになる魔法はないのか』と聞かれました。私には、それが辛くてねえ」
 これが平和な世の中なら苦笑することもできたけれど。
 レモは笑うことができずにじっと自分の中をみる。本当に、人を殺せる魔法はあるのに子どもをおなかいっぱいにさせる魔法はないのだ。意外とそういう簡単なことができない。
「できれば、もうすこし軍隊の皆さんには眠っていて頂いてよろしいですか。あの子たちに最後にスープなんかを作って、少し寝かせてあげたいのです」
 ピクター氏の頼みを二つ返事で快諾した。「俺も食わせてもらっていいですか」というささやかな頼みも、付け足した。

 食事ができるまでの間に出立の準備をしている子どもたちの顔は、どれもわずかな混乱を秘めている。八人の中でも歳が小さな子どもなどは何が起きているのかわからないことだろう。下の子どもたちの面倒をみるように年上の子どもたちがてきぱきと準備している姿を見て、慣れていると思った。
「この子たちは一体どこから?」
「私の開いていた教会に棄てられた子どもたちです。帝国語しか喋れないから共和国でも苦労するだろうとは思いましたが、結局連れてきてしまいました……あのままでは全員売り飛ばされてしまうところだった」
 レモは飢餓で死んだ人間を何人も見てきていたが、ここにいる八人にはその兆候は見られなかった。おそらく畑の食べ物で飢えを十分に満たすことができたのだろう。この場所は彼らにとって楽園だったのだ。自分たちが現れる今日の日まで。
 テーブルについたまま頬杖をついていると、子どもが一人側へ寄ってきた。この中では最年長のようだ。燃えるような赤茶けた髪ときつい目をした少年だった。彼はそのきつい目を決して穏やかとはいえない感情でさらに引きつらせている。
「何だ。俺に何か用かい」
 喋るやいなや顔に唾を吐きかけられた。
 小さいが強い憎しみの礫。いきなりのことで返す言葉もない。頬についたそれをレモがぬぐうと、少年は表情も変えずにまた子どもたちの中へ戻っていった。ピクター老人が慌ててレモの所へ戻ってきて少年を注意する。
「申し訳ない! 大丈夫ですか」
「……はあ。あの子、共和国の人間が嫌いなんですかね?」
「何も喋らんのです。私が見つけた時には言葉をなくしていまして……あんなことをするような子ではないのですが……」
 漠然と、ああこれが帝国の民衆なのだと思い知る。人は人を憎む。自分が殺した少年も自分が帝国の人間を大量に殺した時、喜びこそすれ悲しむことはなかった。
 自分が帝国の人間をいくら殺したところで共和国の人間はあまり悲しまないのかもしれない。一瞬自分の罪悪感が宙に浮くほど軽くなったのを感じたが、地面から浮いた自分の足に恐怖を覚えただけだった。
「どうしました?」
「いや……その」
 いつか、大切なことを忘れてしまう。頭を抱えて必死に思考を元通りに修正しようとした。何が正常なのか判らなくなってしまったらおしまいだと思っているのに、心のどこかには軍の思想に身をゆだねて楽になろうとしている自分がいた。
「話したいことがあるなら、聞きますよ。心が浮ついていては誘惑に負けてしまう」
 ピクター老人の言葉にレモは顔を上げた。自分よりずっと老獪な賢者は自分を見て優しく笑っている。
「あなたは理性を持たなければならない。強い力を御するためには、何よりもまずあなたの心が強くなければならないのだから」
 強い力を持った人間ほど自分を修正してくれる人間を失う。だから強い力を持つ時にはその人間が強い心を持たなければならないのだという。自分の一番弱い部分を外界の無知な空気に晒し、それを鍛えることの困難さ。
 ピクター老人の作ったスープは畑の野菜と薬草の入ったとびきり美味なスープだった。レモは子どもたちと共にその恩恵にあずかる。さっき自分に唾を吐いた少年も自分から一番遠い席で自分と同じ暖かいスープをすすっていた。
「あたたかいスープもこれで当分飲めなくなってしまう。子どもたちはほんとうによく耐えるが、できればなるべく早いうちにまたスープを作ってやりたいものですな」
 子どもの顔には本来国籍などないのだ。共和国の子どもも帝国の子どもも、健気に生きていることに変わりはないような気がする。そして彼らを暖かく見守る老賢者のやさしい沈黙に、レモは国籍を超えて共感をおぼえる。

 穏やかだが、この瞬間は彼にとって稀有のひとときだった。自分より深く賢い人間の前で訥々(とつとつ)と思いを吐露することができた、多分もう二度と訪れないであろう時間。
「ガキだった頃は、ただ力が欲しかったんですよ。戦争にいわれなく生活を奪われて、何もできなかった自分がえらく許せないものに見えて」
「戦争?」
「ええ。共和国内での内紛とか、辺境諸国との小競り合いとか色々。もともと俺の国は色々な国が寄せ集まってできた国ですからね。民族と宗教のことで、俺が生まれた時からあちこち揉めていました。それでも最後には正義が勝って悪い奴が死んで、何かしらの終わりが来るだろうと信じてました」
 今でも心のどこかでそういう終わり方が来ると信じている自分がいる。知ってしまった記憶の全てを捨てて許しがたい自分を受け入れれば、穢れない子どもにも戻れるかもしれない。もっともレモには子どもに戻る気などさらさら無かったが。
「夢……というか、生き方を決めました。強い魔法を手に入れて、いつか町を焼き払いにくる大きなモンスターをこの手でやっつけてやろうって。世界一強いと謡われる召喚竜(バハムート)さえもやっつけられたら、その時こそ世界は平和になるかもしれない。それで英雄になれたら、その時こそ俺は世界一誇り高い人間になれるだろう……とね。
 でも、妙なもんでしてね。そういう憧れの英雄に手を伸ばせば伸ばすほど血を浴びてゆく」
 今持っている”英雄”の呼び名は血塗られたかりそめのものである……そう思いたかった。英雄とはどんな人間なのだろうか。誰よりも強い人間のことだろうか。それとも誇り高い人間のことだろうか。それともやさしい人間のことだろうか?
「英雄って本当は何なんでしょうか」
 もし全能の存在がいるとしたら、そう訊ねてみたかった。多分誰もレモが満足する答えはくれないと思う。たとえ目の前のこの賢者であっても。
 ピクター老人はこの点においても聡かった。彼はじっと目を閉ざしたまま微笑んで、最初に「沈黙」という答えを置いたように見えた。
「軍人さん、外はどんな天気ですか。わたしの代わりにちょっとそこの窓から外を見てくれませんか」
 四月とはいえ山岳地帯の夜は冷える。弛緩することを許さないような空気の中でレモは窓辺まで行って空を見上げる。市街地と違って清澄な大気は夜空に広がる星の大海をあますところなく映す。
「晴れてますよ。雲ひとつないです」
「星は見えますか」
「溢れるほど」
「そうですか」
 山風の中に錆びついた暗い匂いが混ざり始めていた。妖精(エルフ)たちが匂いの厭らしさに鼻を曲げて子どもたちを急かしだしている。少し早いがもうここを離れなければならないらしかった。ピクター老人はスープのさじを置いて静かに神への祈りを捧げた。

 三十分後、ピクター老人は八人の子どもたちと無数の妖精(エルフ)たちを連れて音もなく暗黒の茂みの中へと消えていった。
「さっきの話ですが、英雄というのは淀んだ空気の中でも消えない一等星のようなものだと思いますよ。淀んだ空気の中でも、惑わずに、己の真実を貫いているのですね。それと面白いことですが、一等星もこういうきれいな空気の中では実は他の星とあまり大きさが変わらないことがばれてしまうんでしょうね」
 別れ際に唐突によこされた答えにレモは驚いて、それ以上何も返すことができなかったのだ。ピクター老人はきれいな緑色の髪を風に揺らしながらしわくちゃの顔でずっと微笑んでいた。
 山風の中に厭な金属臭がどんどん混ざりだしてきていると言って、ピクター老人は山の反対側から帝国軍の軍勢が近づいていることを教えてくれた。早く戻って仲間を起こしてやりなさいとまで言われた。彼が警告を出してくれなかったらレモの部隊は不意を突かれてどれだけの死者を出していたかわからない。
「待ってください」
 レモが叫んで呼び止めるのを聞いて、老人は立ち止まる。
「こっちの寺院関係の奴に、俺の知り合いがいます。行く所がないなら保護してもらえるように俺から頼んでもいい。どうですか」
 レモが本気でそうする気であることを感じとれた。それだけでも良い出会いであったと老人は考えた。それだけに別れることは悲しかったけれど。
「私はあなたの国の宗教を受け容れられない。こちらで教会を開いて長いですが、あなたの国の宗教に異教徒の住める場所はない。子どもでさえも異教徒である限り、暮らせないのですよ」
 誰もが宗教や国籍を超えて大切なものを探すこの男のようになれたら、どんなに世界は涼やかになるだろうかと思った。ピクター老人はその場で深くお辞儀をして見えない眼でレモを見たかと思うと、最後に世界共通語(シンプル・ランゲージ)で一言言葉を贈った。
「あなたも星のようだよ。南の国の星だから、南十字星(サザンクロス)とでもしておきましょうか。さようなら。南十字星(サザンクロス)
 ありがとうと言い損ねた。言葉を出せないでいるレモの前で緑の賢者は子どもたちと共に背を向けて歩き出し、二度と振り返らないまま夜闇に紛れて見えなくなってしまった。それまでアラメテューグ全体を包んでいた緑の匂いはいつしか消え去り、辺りには見捨てられた廃墟の臭いと荒廃した静寂だけが残っている。妖精(エルフ)たちももういない。
 老人と子どもたちの行く先には、楽園はあるだろうか。彼らはその場所へ辿り着けるだろうか。そして残った自分には何が待っているのだろうか。
 もうこの場所から賢者に答える術はない。レモは自分に区切りをつけて自軍の方へと一息に走り出す。帝国軍との戦闘がすぐ側にまで迫ってきていた。


「冷日の魔道士」
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