子どもの胴ほどまでにしか草の伸びることができない苛烈なシリウスの自然。一メートル先も満足に見えない夜闇の中で雨は激しく全てのものを打ちつける。斜面の下に草木を伸ばす魔法でかりそめの休憩所をこしらえたが、草木自体の力が弱っているのか雨漏りが激しかった。邪悪な気がシリウスを覆って全てを汚染し始めていることを、彼は内心の憂慮と共に悟った。
「牧師さま。妖精さんが」
ピクター老人は子どもたちの不安の声でふと我にかえる。最初に声を上げたのは八人の中で真ん中の年頃のアンナだ。アンナはそれまで一行をランタン代わりに照らしてくれていた
「みんな。こっちへおいで。アルベルト。ノーマ。クラウス。ロッテ。アンナ。ハンス。エレノア。シャーリーン。全員いるね」
「全員いるわ。牧師さま」
目がめしいていようと、いまいと、この状況下では暗くて互いの顔もはっきりとは見えない。子どもたちは小さい年頃の子から自分の懐に入るようにして集まってくる。一番下のシャーリーンなどは自分の胸元で服を握って離さなかった。年上の子どもたちはつとめて外側にいるようだ。ノーマやクラウスはずっと声が聞こえているから気配もわかる。気配がいちばん見えないのは、最年長のあの少年。
いつも言葉はなく、沈黙することで自らの存在の証明をも消そうとしているかのような……そんな寂しい面があった。彼は今も一番外側で年下の子どもたちに目を配りながら、最年長である責任感と共に入り口を見張っている。
「アルベルト。ちゃんと、いるかな」
ピクター老人が手を伸ばすと、しばらくして握り返してくる手があった。燃えるような赤茶けた髪と鋭くて静かなまなざし。まだ十歳のその手は雨に濡れたせいで凍りそうに冷たい。
「手を冷やしてしまったのか。すまんなあ」
老人がしわくちゃの手で少年の手を暖かくさすってやる。少年は返事のできないまま、もどかしそうにそれを受けていた。
漆黒の夜闇に溶け込んだ熱気が兵士たちの周囲に充満し、豪雨の中で山間の駐屯地に停められた馬が
「中佐。このままでは目も耳も使えません」
「そりゃ向こうも同じだ。 ……おい、用はそれだけかい?」
「はい、そうですが」
夜間の奇襲における意義。それは相手の五感を麻痺させ、相手の正確な判断力を可能な限り失わせることにある。学校でそんなことも習わなかったのかとラークス中佐は内心毒づいたが、上官を頼ってきた目の前の兵士を怒鳴りつけるなどという行為が自らの立場とイメージに好影響をもたらすとは思えなかった。
「よろしい。それ以上喚きたかったらてめえのその体に自分で
共和国時〇二:二〇時。先行部隊が出発してから二時間以上が経過していた。
「磁場がイカれやがったか」
これではいよいよ戦いになったら面倒なことになる。ラークス中佐は通信兵を召集して部隊の全員に通達を出した。
「全員顔に塗料を塗れ。配給の蛍光塗料があっただろう。奇襲があったら塗料のない奴は襲うからそのつもりでいるように伝えろ」
通信兵たちが各方向へと散ってゆく。照明を目一杯灯しているのに回りは奇妙に暗く、耳は豪雨による雑音で少し遠くにいる人の声も聞き取れない。立ち止まると自分が目指す場所がどちらにあるのか、それさえも解らなくなりそうだった。それでも一人が声を張り上げながら兵士たちの集団を掻き分けレモのもとへと走っていった。レモは鳴動を続ける魔法陣の中で静かに瞑目し、直立不動のままその伝令を受けた。
「クラックス大尉。塗料を顔に塗ってください」
「塗料って配給のあれか」
「そうです。蛍光樹脂です」
レモの姿は魔法陣から放たれる光の中で白く浮かび上がっている。
「大尉の場合は、みんなも分かると思いますから必要ないかもしれませんが」
「いや、塗っとくよ。中佐に誤認されて刺されたらかなわんからな」
もっと真面目な感じの人だと思っていたが、こんな冗談も言えたのか……そんな声が聞こえた気がした。おそらく通信兵のものだ。魔法陣の中にいるとますます感覚が鋭敏になる。レモは装備の中から蛍光樹脂の塊を取り出して、さっさと顔にそれをこすりつける。蛍光樹脂は軍用になるだけあってこの豪雨の中でも落ちなかった。
さっきの三回目の”被弾”で、とうとう磁場が完全に狂ってしまった。この暗闇の中自分が元来た方向が”どちらか”ということすら分からない。そのことがいよいよ全軍に恐怖となって伝わり始めている。昔から磁場が狂った場所は「魔の場所」などと言われ恐れられていたが、本当にその恐怖をわかっている人間はそうはいない。それは視覚と聴覚を殺がれた人間から最後の生存手段を奪う。
少女の大きな悲鳴が子どもたちの中から急に上がる。ピクター老人が驚くのと同時に腕の中に子どもたちが押し寄せてくる感触がした。遠くの山間からくぐもった
「妖精さんが。妖精さんが噛みついた」
虫を引き裂くような奇妙な鳴き声が小さな小屋の中を暴走し子どもたちの悲鳴と交錯している。一番外側にいたノーマが脚を噛まれたのが最初だった。
無言で、入り口の近くにいた少年が間に割って入った。ノーマの足に噛みついていた
「アルベルト」
叫ぶノーマを、突き飛ばす。
――早く外へ出ろ。一瞬振り向いた眼光がそう言っていた。
「牧師さま、こっち。みんな早く外に出て!」
子どもたちはつまずきそうになりながら大急ぎで外へ出る。ノーマが最後から二番目に豪雨の中へ出ると一瞬引き絞るように頭が痛くなって、体中が違和感に襲われた。方向が分からないのだ。ノーマはそれを
「お兄ちゃん」
本能的に
「お姉ちゃん、どっち」
「どっちでもいい。はやくここを離れるのよ」
一寸先も見えない暗闇の中でピクター老人と子どもたちはやみくもに走り出す。今はとにかくあの狂った
ピクター老人は彼らには言えなかった。シリウスのこの土地は”死んだ”。
だがそれを子どもたちに伝えて何になるのだろうか。
「何か来る」
通信兵が緊張してその場を立ち去ろうとしていた足を止める。レモは
それはレモが通信兵に警戒を呼びかける前に来た。レモが虫の知らせではっと顔を上げると、被弾する前のそれが無音かつ高速で
違う。
巨大な旋風と化して豪雨をものともせずに飛んでくる、水の錐。一点集中で対
「
「敵襲」
豪雨の中でレモが叫ぶ。さっきまでそこにいた通信兵は
「おい、しっかりしろ。何とか一人で生きてくれ」
レモはそのまま通信兵を置き去りにして戦場の中心へと向かった。戦闘の火蓋は既に切って落とされていた。
「冷日の魔道士」
ルビタグを使っています。IE5.5、FireFox1.5(Gecko)、Opera7.0以降で確認