冷日の魔道士 第九章:春の祭典(三)

 それは言語に尽くしがたいほどの乱戦だった。
 地理条件は山間。天候は豪雨、しかも夜間である。古代魔法(エンシェント)による異常な暗闇と磁場によって兵士たちの五感は狂わされ、両軍の兵士たちは二メートル先の状況もわからないような中で命懸けの攻防を繰り広げる事態に陥っている。向こうから居場所を知られ不意を突かれたラークス隊の形勢はかなり不利なものであるといえた。豪雨をさらに震わせる無数の雄叫びと呪文の炸裂音だけが戦闘の苛烈さをレモに教える。
「照明を焚け。照明弾(ライトニング)魔炎障壁(ファイアウォール)
 大声を張り上げながら腕を動かして魔法陣を描くと、闇の中からいきなり黒い鉄の塊が振り下ろされてくる。呼吸が終わらないうちに半歩飛びのいていた。血脂のついた斧の刃が自分の脚のあった場所を風音を立てて凪いでいくのが見えた。目深に鎖兜(チェインヘルム)を被った男だ。顔に塗料はない。
 呪文を唱えようとする魔道士が敵にとっては格好の餌食になる。呪文を唱える時間に生まれる無防備さ、暗闇の中で光る魔法陣、呪文を詠唱する声、その全てが邪魔になっていることをレモは一瞬で悟った。男は咆哮を上げてレモに襲いかかってくる。明らかに人を殺すだけの力を持った斧の刃が頭上から降ってくるのを血の杖(ベト)で受け止めた。鉄同士が激しくぶつかり合う重い音。木製の杖だったら脳天まで真っ二つに折られて即死していたかもしれない。殺人的な力を受け止める両腕が震える。
「邪魔だ」
 叫びながら渾身の力で男のわき腹を蹴り飛ばした。男がよろめいた隙に一言「鈎針(ツァダイ)」と自らの指に傷をつける呪文を唱えながら距離を取り、右腕の袖をまくって腕に直接血文字を描く。
解放(デロール)
「汝が主レモ・クラックスの名において敵を裁く権限を与える。”ベト”」
 杖の先のざくろ石(ガーネット)の塊が凶暴な唸り声を上げて内部から燃えるように輝き出す。杖を握るレモの右腕に力がこもった。レモ自身がそうしているのではなく血の杖(ベト)が自らの意思で主からエネルギーを少しでも多く吸い取ろうとしているのだ。腕に書かれた血文字は人知を超えた力の影響で一気に酸化しレモの腕を焦がす。次にレモの胴へ向かって敵の斬撃が来た時、刃を受け止めた力はレモのものではなかった。
 鎖兜(チェインヘルム)を被った敵は驚嘆する。この戦闘状態において極限状態まで高められた大の男の、全身の力をこめた一撃を、この銀髪の男は片手の杖一本で受け止める。
「”死ね(モート)”」
 生存本能と、憤怒。血の杖(ベト)は主の意思と同調(シンクロ)しその秘めた力の片鱗を発現させた。杖と魔道士の全身から黒い衝撃波が全方向へ突風のように巻き起こり、敵兵士の首と杖に食い込んでいた鉄の刃が爆発して割れ飛んだ。衝撃波が周りの闇に呑み込まれたのとほぼ同時にへ突進する。格闘する男たちや剣や斧や槍の刃をすり抜け、目の前に立ちはだかった人間は片っ端から吹き飛ばした。たちこめる血の匂いがどんどん濃くなってゆくのがわかった。
 途中でラークス中佐がレモの前に現れた時、レモはあやうく彼までも血の杖(ベト)の力で吹き飛ばしてしまうところだった。迷彩柄のバンダナの下からおさまりきれずに洩れるオレンジ色の長髪。ラークス中佐は漆黒のクナイ一本と体の動きだけでレモの杖を受け流す。
「おい。俺だ俺」
 ラークス中佐が頬をこするとすすけた肌の下から蛍光樹脂の塗料が光を現した。顔の上に灰やススを被っていたのだ。
「顔を拭け。お前のも見えなくなってるぞ」
 指摘されてそれまで気にも留めていなかった顔を拭う。顔中にべっとりと血糊が付着していた。首も。グローブで拭ったつもりだったが最初から全身血まみれだった上に相手の脂肪が混ざったのかまったく拭いきれず、軍服の中のスカーフを引っ張り出して手早く顔をこすった。
「状況はどうなったんですか」
「わからん。魔法防御壁(シールド)が消えた直後に照明係もろとももっていかれやがった。奇襲部隊の中に精霊魔法使い(エレメンタル)がいるはずだ」
 会話の途中でラークス中佐がいきなりクナイを投げる。無慈悲な力強さと無駄のない動作で。目を奪われた次の瞬間には三メートル先で敵の兵士の眉間に刃が深々と突き刺さっていた。レモはラークス中佐と背中合わせに立って次の敵の急襲に備えた。
「お前さんの銀髪は客寄せになるよ。遠くからでもよく見える」
「いくら俺の髪だってこの暗闇の中で見えるなんて異常ですよ」
「人の優れた性質を異常呼ばわりするのは凡人のひがみってやつだよ」
 押し寄せる雨が肌から体温を奪っていく。脈動とともに芯から燃え盛っている体をさらに冷たさで苛め抜く。この体を伝う水の全てを相手の精霊魔法使い(エレメンタル・マスター)が管理しているのかと思うと絶えず喉元に刃物を突きつけられているようなプレッシャーを感じた。
「クラックス。敵の精霊魔法使い(エレメンタル)の場所を特定できるか」
「もう一度向こうから呪文が来れば」
 おそらく一人ではない。魔法防御壁(シールド)を水の錐で破壊されて二十秒も経たないうちに本部から爆炎が上がったのだ。そのような短時間で一人の魔道士が魔法陣を描き強力な呪文を発動させることなど不可能だった。しかしながら、このことは最低でも二人いる敵の精霊魔法使い(エレメンタル・マスター)のうちどちらが危険かということを暗示している。もし本部を襲った方の精霊魔法使い(エレメンタル・マスター)にもっと強い魔力があったらラークス隊の被害は現在の比ではなかっただろう。
魔法防御壁(シールド)を破った精霊魔法使い(エレメンタル・マスター)の方が問題です。水系にかなり精通しているはずだ」
 そして雨という自分に有利な状況を使ってフィールドを支配し、観えた魔法陣は発動する前に水の錐で破壊する。それが”彼”の役目でありこの戦闘の実情であるといえた。理解すればするほどこちら側の魔道士にとって不利な状況だ。だがそれだけに打開しなければ確実に部隊が壊滅する。レモは豪雨の中で天を見上げて舌打ちした。
 方法は、ある。無いわけではないが一方は危険であり、またもう一方は悪夢だった。レモは危険な方の選択肢を選んだ。悪夢的なやり方でいけばレモは安全だが、代わりに誰か水の錐を浴びる”生贄”が必要だったからだ。それはここでは深く言及しない。
「杖の出力を上げます。俺からなるべく離れてください」
 相手の呪文が来てから戻ってきてくれと叫ぶとラークス中佐は「解った」と言い残してやかましい暗闇の中へ飛び入っていった。彼も古代魔法使い(エンシェント・マスター)としてのレモを信用しているのだろう。その一連の動作の中にためらいは全くない。ただ戦闘のプロとして、必要なことをやっているだけだった。
 レモはラークス中佐が消えた後すぐにグローブを脱いだ。指を噛んでさっきの傷口からもう一度血を出し、右腕にさらに呪文を書き足した。血の杖(ベト)の先端のざくろ石(ガーネット)から放たれる光はいよいよ地獄の業火のごとく黒くなり、周囲一帯に悪魔の咆哮がこだまする。

 暗闇を媒介して、すべてのものがレモの視界の中に入ってくる。悪鬼のごとく血を浴びて剣を振るい続ける兵士たち。地に倒れ体の一部を失いながら悲鳴を上げている者たち。敵に追い詰められて切りつけられ、機械的に倒れて二度と動かない兵士。無数の負の感情が全て自分の精神の中に侵入してくる。目を閉じても映像が見え、耳を塞いでも音が聞こえるのだ。大抵の魔道士なら一分ともたない領域の中に彼は立っていた。
 呪文や魔法陣の助けを借りずに血の杖(ベト)の力を引き出すということは、その人間が杖と同じ世界を共有するということを意味している。今やレモの半身は血の杖(ベト)に支配されているといっても過言ではなかった。既に目や耳などの感覚器官は乗っ取られたようだ。これで呪文を描く手足や、口や、脳が完全に乗っ取られると戻れなくなる。心臓がよじれながら必死で脈打ち、呼吸が少し早くなっているのがわかった。
 何も唱えなくても、魔法陣をイメージするだけで杖の先から血が溢れ出した。闇の中で錆色に輝く血だ。レモは半ば操り人形のような動きで魔法陣を描き始める。その身体の中に無尽蔵に暗闇を吸収するのを自分ではもう止められなかった。表情は失われており、冷や汗だけがどんどんこめかみから噴き出した。
 誰かが必死の形相で剣を振りかざしてこちらへ走ってくる。
 やめろ、来るな。
 相手を視界におさめ、少し気をやっただけで血の杖(ベト)が暴走する。衝撃波で頭を射抜かれて敵がここへ到達する前に倒れてしまう。
 来るな。来るな。
 魂の途切れる音が聞こえた。相手の心――想いや、記憶までもが――断ち切られていく感触。いつもなら本能が遮断してくれているものを、今は拒絶することができない。何もかもそのまま心の中に入ってくる。
 もう来るな。
 自分の遥か上空で雨粒や大気の水分が収束し、水の錐を作るのが観えた。暗闇を伝ってレモはその魔力の主の映像をたぐり寄せる。向こうが雨を支配するように彼は闇を支配した。闇の中から知りうる限りの情報を入手したところでレモは腕を強引に動かし、自らの腕に書き足した呪文を塗り潰した。

 数秒の間の出来事だった。レモは強度のトランス状態から戻ってくるとそのまま自分めがけて降ってくる巨大な水の錐に向かって”呪文”を唱えなければならなかった。一瞬でも遅れていたら直撃を喰らって吹き飛ばされていたことだろう。それが彼にとって生死の綱を渡る、ぎりぎりのところだった。
「”砕けろ(シャーマド)”」
 水の錐にぶつかっていく血の杖(ベト)の黒い波動。水の錐が中から粉砕されて辺り一辺に弾け散った。すぐにかがんで防御体勢をとると空中から力を分散された無数の水弾が散弾銃のようになって降ってきた。水の礫が連続して全身を強打していく。崖崩れにも似た連続する轟音が打ちつけられた大地から沸き起こる。
 水の礫がすべてなくなっても、しばらくの間動けなかった。やっぱり怒号は消えなかった。
 体を縮め、苦痛を搾り出すようにうめく。
 肉体的も精神的にもダメージが酷かったが、気を失うわけにはいかなかった。頭が痛い。見えもしない閃光が見える。必死で呼吸を整えながら記憶を繋ぎ合わせていく。
 崖の上で、黒雲と豪雨を背に立っていた人間がいた。魔法陣の中で下方からの光に包まれている。なるべく外気に触れるように配慮された薄手の衣が雨に濡れ、その下のゆるやかな肢体の曲線をあらわにしていた。冷え切った水のようにこちらを見ているとび色の瞳。ふっくらとした唇の中からこぼれる硬質の歯。美しく結われたブロンドの髪。
 北西。崖の上の方角。
 記憶が蒸発していかないうちに杖で地面に方向を描いた。
 たとえ相手が女だろうと、ここは戦場だ。障害になる人間は全員殺す。レモは息を整えると重い体に鞭打つようにして立ち上がり、闇を透かして”敵”のいる方角をじっと見つめた。


「冷日の魔道士」
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