それは言語に尽くしがたいほどの乱戦だった。
地理条件は山間。天候は豪雨、しかも夜間である。
「照明を焚け。
大声を張り上げながら腕を動かして魔法陣を描くと、闇の中からいきなり黒い鉄の塊が振り下ろされてくる。呼吸が終わらないうちに半歩飛びのいていた。血脂のついた斧の刃が自分の脚のあった場所を風音を立てて凪いでいくのが見えた。目深に
呪文を唱えようとする魔道士が敵にとっては格好の餌食になる。呪文を唱える時間に生まれる無防備さ、暗闇の中で光る魔法陣、呪文を詠唱する声、その全てが邪魔になっていることをレモは一瞬で悟った。男は咆哮を上げてレモに襲いかかってくる。明らかに人を殺すだけの力を持った斧の刃が頭上から降ってくるのを
「邪魔だ」
叫びながら渾身の力で男のわき腹を蹴り飛ばした。男がよろめいた隙に一言「
『
「汝が主レモ・クラックスの名において敵を裁く権限を与える。”ベト”」
杖の先の
「”
生存本能と、憤怒。
途中でラークス中佐がレモの前に現れた時、レモはあやうく彼までも
「おい。俺だ俺」
ラークス中佐が頬をこするとすすけた肌の下から蛍光樹脂の塗料が光を現した。顔の上に灰やススを被っていたのだ。
「顔を拭け。お前のも見えなくなってるぞ」
指摘されてそれまで気にも留めていなかった顔を拭う。顔中にべっとりと血糊が付着していた。首も。グローブで拭ったつもりだったが最初から全身血まみれだった上に相手の脂肪が混ざったのかまったく拭いきれず、軍服の中のスカーフを引っ張り出して手早く顔をこすった。
「状況はどうなったんですか」
「わからん。
会話の途中でラークス中佐がいきなりクナイを投げる。無慈悲な力強さと無駄のない動作で。目を奪われた次の瞬間には三メートル先で敵の兵士の眉間に刃が深々と突き刺さっていた。レモはラークス中佐と背中合わせに立って次の敵の急襲に備えた。
「お前さんの銀髪は客寄せになるよ。遠くからでもよく見える」
「いくら俺の髪だってこの暗闇の中で見えるなんて異常ですよ」
「人の優れた性質を異常呼ばわりするのは凡人のひがみってやつだよ」
押し寄せる雨が肌から体温を奪っていく。脈動とともに芯から燃え盛っている体をさらに冷たさで苛め抜く。この体を伝う水の全てを相手の
「クラックス。敵の
「もう一度向こうから呪文が来れば」
おそらく一人ではない。
「
そして雨という自分に有利な状況を使ってフィールドを支配し、観えた魔法陣は発動する前に水の錐で破壊する。それが”彼”の役目でありこの戦闘の実情であるといえた。理解すればするほどこちら側の魔道士にとって不利な状況だ。だがそれだけに打開しなければ確実に部隊が壊滅する。レモは豪雨の中で天を見上げて舌打ちした。
方法は、ある。無いわけではないが一方は危険であり、またもう一方は悪夢だった。レモは危険な方の選択肢を選んだ。悪夢的なやり方でいけばレモは安全だが、代わりに誰か水の錐を浴びる”生贄”が必要だったからだ。それはここでは深く言及しない。
「杖の出力を上げます。俺からなるべく離れてください」
相手の呪文が来てから戻ってきてくれと叫ぶとラークス中佐は「解った」と言い残してやかましい暗闇の中へ飛び入っていった。彼も
レモはラークス中佐が消えた後すぐにグローブを脱いだ。指を噛んでさっきの傷口からもう一度血を出し、右腕にさらに呪文を書き足した。
暗闇を媒介して、すべてのものがレモの視界の中に入ってくる。悪鬼のごとく血を浴びて剣を振るい続ける兵士たち。地に倒れ体の一部を失いながら悲鳴を上げている者たち。敵に追い詰められて切りつけられ、機械的に倒れて二度と動かない兵士。無数の負の感情が全て自分の精神の中に侵入してくる。目を閉じても映像が見え、耳を塞いでも音が聞こえるのだ。大抵の魔道士なら一分ともたない領域の中に彼は立っていた。
呪文や魔法陣の助けを借りずに
何も唱えなくても、魔法陣をイメージするだけで杖の先から血が溢れ出した。闇の中で錆色に輝く血だ。レモは半ば操り人形のような動きで魔法陣を描き始める。その身体の中に無尽蔵に暗闇を吸収するのを自分ではもう止められなかった。表情は失われており、冷や汗だけがどんどんこめかみから噴き出した。
誰かが必死の形相で剣を振りかざしてこちらへ走ってくる。
やめろ、来るな。
相手を視界におさめ、少し気をやっただけで
来るな。来るな。
魂の途切れる音が聞こえた。相手の心――想いや、記憶までもが――断ち切られていく感触。いつもなら本能が遮断してくれているものを、今は拒絶することができない。何もかもそのまま心の中に入ってくる。
もう来るな。
自分の遥か上空で雨粒や大気の水分が収束し、水の錐を作るのが観えた。暗闇を伝ってレモはその魔力の主の映像をたぐり寄せる。向こうが雨を支配するように彼は闇を支配した。闇の中から知りうる限りの情報を入手したところでレモは腕を強引に動かし、自らの腕に書き足した呪文を塗り潰した。
数秒の間の出来事だった。レモは強度のトランス状態から戻ってくるとそのまま自分めがけて降ってくる巨大な水の錐に向かって”呪文”を唱えなければならなかった。一瞬でも遅れていたら直撃を喰らって吹き飛ばされていたことだろう。それが彼にとって生死の綱を渡る、ぎりぎりのところだった。
「”
水の錐にぶつかっていく
水の礫がすべてなくなっても、しばらくの間動けなかった。やっぱり怒号は消えなかった。
体を縮め、苦痛を搾り出すようにうめく。
肉体的も精神的にもダメージが酷かったが、気を失うわけにはいかなかった。頭が痛い。見えもしない閃光が見える。必死で呼吸を整えながら記憶を繋ぎ合わせていく。
崖の上で、黒雲と豪雨を背に立っていた人間がいた。魔法陣の中で下方からの光に包まれている。なるべく外気に触れるように配慮された薄手の衣が雨に濡れ、その下のゆるやかな肢体の曲線をあらわにしていた。冷え切った水のようにこちらを見ているとび色の瞳。ふっくらとした唇の中からこぼれる硬質の歯。美しく結われたブロンドの髪。
北西。崖の上の方角。
記憶が蒸発していかないうちに杖で地面に方向を描いた。
たとえ相手が女だろうと、ここは戦場だ。障害になる人間は全員殺す。レモは息を整えると重い体に鞭打つようにして立ち上がり、闇を透かして”敵”のいる方角をじっと見つめた。
「冷日の魔道士」
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