薄暗いのに照明のせいでやたら明るい港の六番ポートを通っていくと、遠くで夕陽が空をつたってどんどん水平線に溶けてゆく。桟橋の先では俺たちの乗る中型の貨物船が荷物を飲み込み、いくつもの鉄製のコンテナをひとつひとつ持ち上げている。
「まあ、せいぜいお気をつけて」
腰に固くあたっているトカレフは頼りになるが、台詞の方はこの場所では何の役にも立たなさそうだった。フィリピンの国内にいる限り、この地面に立っている限り俺たちは強大な力の手の上でころころと転がされているだけだ。正直言って今の立場はかなり危うい。船が出港するまでの二時間はきっと恐ろしく長いだろうと思いつつ時計を見ると、針はちょうど六時を指していた。
俺の頼みの綱、同業者の寺内は俺と同じ日本人の密輸業者だ。昔数回だけ一緒に正体不明のケースを運んだ、それだけの仲。依頼だったから中身は聞かなかったがおそらく入っていたのは麻薬か何かだろう。俺はブツのヤバさを嗅ぎとって手を引き、金に目が眩んで仕事を続けた寺内はその後すぐに捕まっている。色々な意味で鼻の悪い男だった。
「成田、無事だったか」
「お前は無事じゃなかったみたいだな」
「おう、恩赦取るまで三年かかったぜ」
いかつい貨物夫が何人も下僕のように立っている部屋。小さな事務所の中で煙草を吸っていた寺内は俺の顔を見るなり同年代の戦友にでも会ったようなノリでにやにやと笑いかけてきた。若干粘着質なにやけ笑いを見ていると他の男とは間違えようもない。何か犯罪を犯していることをひけらかしたいという内心が全身の毛穴から汗のように霧散して湧き出ている。
「二人コンテナに詰めればいいんだな?」
「ああ。頼むわ」
また犯罪を犯せることをこの男は喜んでいるらしかった。多分刑務所を出てからもスリル目当てに麻薬を運んでいるのだろう。この男は。仲間を組むには危ないが今はこいつを頼るより手がない。他の人間をあたるには時間がなさすぎた。
「任せとけ。必ず海に出してやる。迎えを行かせるからどこにいるか教えてくれないか」
「案内するよ」
「まあまあ……おまえはゆっくりしてけよ。久しぶりに会ったんだから話でもしようぜ。どうだったよ、久しぶりのフィリピンは」
散々だったと言いたい。
俺がここでよた話をしている間も上村と爺さんは港の入り口でティモンを説得しているだろうし、ティモンはガキ丸出しでまだ車の前に突っ立っているのだろう。改造銃のことはバレるし、嫌な奴には金づくで雇われるし、爺さんには思いきり銃口を向けられるし、煙草はすぐ切れるし、ガキには割に合わないことで恨まれるし。散々だった。散々だった。散々が耳に詰まるほど散々だった!
寺内は俺の話を面白そうに聞き終えると気を利かせて煙草を一本俺にくれた。
「ありがたい」
俺は頂いた一本の煙草を肺の隅々まで吸いこむ。こんなに気の利いた男にはこの旅では会っていないかもしれない。
「煙草も無しだなんて散々だったな。ゆっくりしていけよ」
出港まで、まだたっぷりあるぜ。
クセのあるにやけ笑いは本当に昔と変わらない。
「ところでコンテナに詰める二人はそろそろなんだが」
どこにいるのかなという寺内の問いに俺は「案内する」と返した。
「だから迎え行かせるからゆっくりしてろって」
「お気遣いどうも。だがそれとこれとは別だ」
いくらくつろいでいても、そこだけはしっかりと筋を通した。冷たい鉄筋の通った語調に寺内が静かに口をつぐむ。俺が案内を任せないのは寺内を信用していないからではない。俺は基本的に誰も信用しない。
「お前変わんないよな。そういうとこ」
寺内は俺のことを「人を見る目があざとすぎる」と言った。用心深く、決して人にものを任せない。
「誉め言葉ってことでもらっておくよ」
「いや、警告だ。
シゲシゲ・スプートニク襲ったのもお前の仲間だろ? ほんと困るんだよな。そういう態度」
俺の思考が一瞬止まる。寺内が煙を吹く音に重なって部屋にいた貨物夫どもが一斉に銃口を俺に向ける音がする。
体を動かさずに視線だけをくるりと回す。気がついたら完全に四面楚歌の状態だった。俺に残されていたのはたった煙草一服分の時間だけ。煙草の火はフィルターに向かって着実に燃えつづけている。
「俺もさ、商売があるわけよ。お前と一緒で。タガログ語はわからんだろうから日本語で言うぞ。”手を挙げろ”」
貨物夫みたいなギャングが寄ってきて手を挙げた俺の腰からトカレフを抜いていくのがわかった。俺の両腕を両側から男たちが締め上げ、部屋の奥からさっきドラム缶に詰めたはずの男が肩を支えられて出てくる。
「あーあ、かわいそうに。あんなんじゃしばらく喋れないだろ」
身動きが取れなくなっても煙草だけは咥えている。ぎりぎりまで、ニコチンを吸いこんでおこうと思った。
「そんなきつい目で見ないでくれないか。質問するのは俺だ」
よほど俺が寺内に対して視線を叩きつけていたのだろう。寺内は目と鼻の先にまで顔を寄せて俺に視線を叩き返すと、俺の咥えていた煙草をもぎ取って焼けたままの先端を俺の胸元に押しつけた。
「つれは、どこだ?」
激痛と共に煙草が焼けた俺の細胞もろとも潰れていくのを、歯を食いしばって耐えた。これくらいで死にはしない。無意味だとは思ったが腹が立ったので無理やり笑ってやった。
「お前みたいな能無しに俺の言葉がわかるのかね」
今は沈黙が俺を守る。武器もなく孤立無援の場に立たされた時、最後にそいつを守るのはそいつが持っている秘密だ。俺の場合は置いてきた三人の情報。寺内は俺の台詞を理解するなり無表情で俺の顎にアッパーカットを潜りこませた。派手な音と共に首が跳ね上がって脳がぐらぐら揺れるのがわかる。視界が少しぼやける。
「これ以上ふざけてるとお前も日本へ帰れなくなるぞ。俺も一応人間だしさ、生殺しとか見たくないんだよな。気持ち悪いから」
両脇の男がだんだん腕をねじり上げてきている。ドラム缶に詰めた男が興奮したまま潰れた声で叫びだす。部屋にいた屈強な男どもが無表情で体をほぐし始めている。怯えたら負ける。
「何だ、はっきりと言え」
思わせぶりに口パクで喋って寺内の耳を側へ寄せさせた。一度こういう場所で試してみたい台詞があった。
「…………」
「あぁ? もっと大きな声で言え!」
「シ テラウチ アイ バクラ」
――タガログ語で”寺内はホモだ”というのだそうだ。
怒ってタコのように赤くなった寺内の面がおかしいったらなかった。俺の心の底からの失笑は静かだった部屋に一気に響きわたった。渾身のストレートに体ごと後ろへ吹っ飛ばされたが腕を掴まれてそのまま倒れることもかなわず、俺は顔からコンクリートの床に叩き潰される。
その頃、港の駐車場の一角では上村と爺さんがまだ車の前に居座っているティモンをあの手この手で説得していた。他の乗用車やトラックが数百台も駐車と発車を繰り返している場所だ。夕日のせいで原色の車どもが全部薄い赤のフィルターを被っている。
「ティモン、お前はまだ若い。そんな我が儘で命を捨てるな」
「君が来なかったらお爺さんも絶対悲しむと思うけどな」
ティモンは凄まじい眼光で二人を睨みつけたまま動こうとしない。まどろっこしい反論もしなかった。口を開けば単刀直入に「行かない」と言うばかりで、二人の話を聞く様子は一向にない。
「君は、死にたいのかな。この場所で」
相手を刺激しない、やわらかくて流暢な言葉遣いだった。上村は意識してひざまづき、ティモンの目をそっと見上げている。
「乞食になってそれで生きていけるならそれでもいいんだ。でもね、僕らが喧嘩を売った組織はそれほど甘くないよ。捕まれば君は死ぬまで銃の整備をやらされる。逆らえば君の心が壊れるまで痛めつけられるし、殺されて捨てられるよ。ゴミのように」
人間として扱われないことがどれほど辛いか、知らないだろう?
……人間以下の境地を知っている上村の目。
もっとも本人は一言もそれを言わなかったが。
むしろ、何も言わなかったからそれがティモンにも伝わったのかもしれない。さっきの阿修羅のような血まみれの姿と今のこの限りなく優しい目が同一人物のものだということが、ティモンには信じがたかった。
「本当は、君に選択の余地なんかない。君には生きる義務がある」
できれば君の意思でそれを選び取ってほしいから、ここにいる。
「人殺しの言葉なんか聞きたくねえよ」
ティモンが半ば殺人鬼への怯えを笑いでごまかすのを上村は悲しい心境で見ていた。
上村は、もう戻れない。人を殺さずにいられた時代には。
「君も人殺しだよ」
限りなく優しい口調でそのままそう言った。それが少年にとって一番残酷な台詞だと知っていた。
見開かれたティモンの目は確かに何かを見た。少年は顔をぎゅっと歪めて、体を抱えて震えだし「違う」と何度も繰り返して一瞬見えてしまったものを必死で否定しているように見えた。
遠くに人影が増えてくる。集団で何かを捜している動き方。憎しみに満ちた醜悪な人相。上村の鷹のような視界の中で。
「成田さんはどうやらしくじったみたいですね」
上村は静かに立ち上がるとぐるりと周り一帯を見回し、遅れて異変に気づいた爺さんとティモンに「ついてきて」と言うと荷物を持ってそのまま近くのトラックの陰へと歩き出した。無駄のない動作で周りの人数を確認し、一番安全な場所を選んで向かっている。ティモンは勘がよかったのもあって素直についてきた。車の往来もあるお陰で向こうはまだこちらに気づいていないらしい。
「ナリタの奴、もしかして裏切ったんじゃなかろうか?」
「向こうの要領が悪すぎる。多分生き残りがいたんでしょう」
使えない人だと吐き捨てながら上村は荷物を置いた。ワルサーP38を脇のホルダーから抜いてアタッシュケースを開け、二重底の下から出てきたサイレンサーを銃身に装着し、使って空になったカートリッジに手早く九ミリ弾を装填していく。役目を終えたアタッシュケースはトラックの下に滑り込ませた。それを見たティモンが言葉を失って体を強張らせている姿を上村は視界の端にずっと置きつづけていた。ティモンの言葉はない。何も言えない状態に違いあるまい。
「御老人、護身用の銃は持ってきていますよね」
俺から受け取った拳銃を上村は迷わず少年に握らせた。ティモンが「いやだ」と叫んで抵抗してもそれを上から押さえつける上村の握力には勝てなかった。
「いやだ、銃なんか持ちたくない」
「それじゃお爺さんに庇ってもらうかい」
最終的にお爺さんを殺すのは、君ということになってしまうね。
――ティモンに銃を持たせる魔法の言葉。ティモンは虚を突かれた顔で、抵抗するのをやめた。
「いいかい。この世界で無力でしかも無能だということは、許しがたい罪悪なんだ。それは君じゃなくて君を信じた周りの人間を殺す」
感情に身をゆだねていいのは強い人間だけだ。弱い人間にその資格はない。それがこの世界なのだと上村は言った。
「これが君の憧れていた世界だ」
強靭な純血種の、正真正銘のエージェントの目だった。言葉と一緒に強いまなざしでティモンの目をとらえ、本人が納得するまで一瞬も目を逸らさなかった。
太陽が落ちて港に闇が降ってくる。十数人ほどのゴロツキたちが影になって駐車場を走り回り、徐々にこちらの方へと捜索の網を広げていた。何かを理解したティモンは覚悟を決めたのかはっきりと顔色を変えて、震える手でしっかりと拳銃を握りしめる。
「いい子だ。君は聡い」
上村はティモンに綺麗な微笑を投げかけ、肩を軽くたたくと面持ちを切り替えて銃を構えトラックの端へと身を寄せた。手元の時計は六時十五分を指している。太陽が消えた瞬間に夜の広大な闇が港の駐車場を呑んだ。あとはサーチライトのように白く光る無数の照明が港を照らす。
「成田さんと合流します。援護しますから全力で走ってください」
全く本当に使えない人だと小声で上村が愚痴ったのがティモンの耳には聞こえたような気がする。
「The Agents Vol.3 / ジャンク屋にて」